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 薄暗く、冷たい霧が町を覆っていた。

 夕暮れの光がかすかに残る空を背景に、町はまるで時間が止まったかのように静まり返っている。

 建物は歪んだ形をしており、窓はひび割れ、通りには人影が全く見えない。

 黒川は、その異様な光景の中を一人歩いていた。


 息を切らしながら、ひたすら目の前の霧をかき分けて進む。

 この異界の町に足を踏み入れてからどれくらい経ったのかもわからない。


 三十年前、恋人とその妹が突然消えた。

 その時に彼女たちが乗っていた自家用車ごと、跡形もなく。

 警察が匙を投げた後からも、黒川は暇を見付けては、ずっと彼女たちを探し続けていた。


 ふいに視界が開け、広場に出た。

 裏の山へ続く参道には、古びた鳥居が建っている。

 薄暗い光の中で、風が冷たく頬を撫でた。

 霧が夕日を反射して世界が真っ赤に見える。


 ここはどこだ、と黒川はスマホを見た。

 電源が入らない。どういうことだと、思った途端、目の端に信じられないものが映った。

 そこには、三十年前の記憶に刻まれた見覚えのある車が静かに停まっていた。


 間違いない。

 警察の事情聴取。何度となく見た古い車。見間違えることなどありえない。

 全てがそのままだった。まるで時間がここで止まったかのように。


 黒川は息を呑んで、ゆっくりと歩み寄り車を覗き込む。

 その車の中には、二人の女性が座っていた。


 そこには、かつての恋人と、彼女の妹が座っていた。

 二人とも当時と全く変わらぬ姿で、まるで眠っているかのようだった。

 彩花の長い髪は静かに肩に流れ、奈々美は姉の肩に頭を乗せて微笑みさえ浮かべている。


 黒川は震える手で車のドアに触れた。

 その冷たさが彼を現実に引き戻した。

 彼女たちは、本当にここにいる。しかし、なぜ今も三十年前のままなのか。

「彩花……奈々美ちゃん!」

 黒川は震える声で叫びながらドアを開けた。


 黒川はゆっくりとドアを開け、二人の女性に向かって手を伸ばした。

 彩花の手を取ると、それは確かに温かかった。

 しかし、その温かさはどこか現実味がなく、まるで幻影のようだった。


「昭夫くん?」

 彩花がかすかな声で彼を呼んだ。

 その声は黒川の心に深く響いた。

 同時に胸を締めつけるような痛みをもたらし、大粒の涙に変わる。

「……彩花。心配したんだぞ。お前。どこでどうして――」


 黒川に微笑みかける彩花の笑顔は美しかったが、目は虚ろで自我は失われているかのようである。

 彼女たちは、この町に囚われたまま、時を超えて待ち続けていたのだ、と黒川は確信した。


「行こう、一緒に帰ろう」

 黒川は必死に二人を車から引き出そうとしたが、彼女たちはその場から動こうとしなかった。


「私たちは、もうあっちの世界には戻れないの。神さまがそう定めたのよ」

 彩花は静かに首を振り、黒川の手をそっと離そうとした。

 だが、黒川は彼女の手を強く握り返して叫ぶ。

「馬鹿なことを言うな! 置いていけるわけがないだろう!」


 彩花は涙を浮かべながらも、彼の手を必死に振りほどこうとした。

 しかし、黒川はそれを許さなかった。

 黒川は運転席に座っている奈々美の手も強引に引っ張り、無理やり車から引きずり出して、後部座席に押し込み、シートベルトを掛けた。


「昭夫くん、ダメ! ここから出たら、神さまが――」

 彩花が泣き叫ぶ。だが、黒川は無視した。

 黒川は素早く運転席に乗り込み、震える手でキーを回すと、エンジンが唸りを上げた。

 車が動き出すと同時に、霧の向こうから異様な気配が近づいてきた。


 突如、遠くから低い轟音が響き渡り、霧の中から何かが動き出した。

 異界の神が怒り狂い、黒川たちを追いかけてくる。


 その口から漏れ出す低いうなり声は、周囲の空気を振動させ、耳をつんざくような恐怖を呼び起こした。何千もの囁き声が混ざり合ったような不快な音だった。


 異様に長く伸びた触手が、空中で蠢きながら波打っており、その先端には無数の目がいくつも浮かんでいる。


 その眼球は時折ぐるりと回転し、その顔は、一定の形を保つことができないようだった。

 常に変化し続け、時には人の顔を模したような表情を見せたかと思えば、次の瞬間にはその顔が溶け落ち、深淵の闇へと吸い込まれていく。


「なんだ。あれは……!」

 黒川はアクセルを踏み込み、車は勢いよく飛び出した。

 車の速度が上がるにつれて、霧が激しく渦巻き、周囲の景色が歪んでいく。


 だが、その異形の神は人間の常識を超えた速度で迫ってくる。

 地を揺るがすほどの足音が響き渡り、追いかけてくるその姿はますます巨大に見えた。


「ダメよ! 神さまには逆らわないで!」

 彩花が叫ぶ。

 奈々美は後部座席で怯え、目をつぶって震えていた。


「あんな神さまがいるもんか!」

 黒川は汗を浮かべながら、必死にハンドルを握りしめた。

「よく見ろ! 見てみろ! バケモノじゃないか!」


 後ろを振り返ると、異形の神はなおも距離を詰めていた。

 その巨大な影が迫るたびに、車の窓ガラスが軋むような音を立てる。


 古いカーナビがノイズ混じりの音声で突然、案内をし始めた。

『もうすぐ目的地――影町三丁目付近で……アアア――』

『停止して下さい。停止して――停止! 停止しろ!』

 カーナビの音声が、女の声から男の怒号へと変わっていく。


 だが、そんなことを気にかけている暇などない。

 黒川は全身に冷たい汗を感じながらアクセルを踏む。

 エンジンを限界まで回し、スピードを上げ続けた。

 古びた車が機能を超えて走り続ける。

 異界の神の咆哮が響き渡り、空気そのものが震えているかのようだった。


 そして、車はついに霧の境界線に到達した。

 かすかに現実世界の景色が見え始めている。


「もう少しだ!」

 黒川は歯を食いしばりながら、アクセルを踏む。


 しかし、車の背後で異形の神が怒りの声を上げた。

 巨大な触手が車を捕らえようと迫る。

 その影が車の後部を覆い、窓ガラスを割るような音が響いた。


『停止! 停止! 停止しろ! 停止しろ!』

 窓ガラスが割れた。


 だが、黒川は最後の力を振り絞り、車を霧の外へと駆け抜けさせた。

 異界の神の触手が車体にかすった瞬間、霧が一瞬で消え去り、車は現実の世界へと戻っていた。


 車は震えるように止まり、エンジンが悲鳴を上げて沈黙した。

 黒川はしばらく動けず、ハンドルに額を押し付けたまま、激しく息を切らしていた。

 彩花と奈々美もまた、恐怖から解放され、ただ静かに涙を流していた。


 夕日がバックミラーに反射して、黒川は眩しさに顔を顰めた。


 異界の神が消え去った跡、霧の向こうで手を振っている体操服の少女が幽かに見える。

 あの少女は結局、なんだったのか。

 異界へと繋ぐ巫女のような役割を担っていたのか、と黒川は疲弊した頭で考えた。


 霧の向こうから女性たちの影が現れた。


 スラリとした影がひとつ。

 忘れもしない。愛しい、彩花の影。


 はしゃぎまわり、僕らを冷やかして笑う、奈々美の影。

 見覚えがある。忘れられない姉妹の影。


「新しい神さまをありがとう」

 体操服の少女は、女の影たちと嬉しそうに両手を手を繋ぎ、夕暮れの町へと消えていく。


 黒川は振り返ろうとして息を呑んだ。


『もうすぐ目的地に到着します』

 カーナビが誰もいない車内で、案内を始めた。

 ギシギシとなにかが擦れる音がする。


 夕日を受けて、影がどこまでも伸びていく。

 どこまでも。どこまでも。

 ここまでお読みいただきありがとうございました。

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