最初で最後の殺人
車の中では、和泉に何を聞いても「寺に帰ったら、宮口さんが説明しますから」の一点張りだった。車中でほとんどしゃべらないままに、寺に着いた。
寺に帰ると、ヒカリが「ちょっと車の中を確認したい」と言って、和泉から鍵を一時返してもらっていた。
ヒカリが車から帰ってくると、おれとヒカリは座禅をするための広間に連れて来られた。
宮口が立っていた。その前に引き出された。おれたちの周りを、信者たちがぐるりと取り囲んでいる。座っている者はひとりもいない。なんだかものものしい。
「修行ごくろうさま。君たちに急遽帰ってきてもらったのは、座主が亡くなったからだ」
「それは…、ご愁傷様です」
しかし、この、おれたちを警戒しているかのような空気は何なのだろうか。黒田の姿も見えた。目がギラギラしている。何をしようとしているのか。
「病死だ。信者の医師が診たから間違いない」
別に疑っていないが。
「しかし、殺人の疑いがある」
意味がわからない。
「どういうことですか」
「聞いているかも知れないが、座主は毎日処方された薬を内服し続けなければ、生き続けられなかった。しかし、座主の部屋のどこを探しても、薬が見つからない。何者かが、薬を隠した可能性がある」
ヒカリが口を挟んだ。
「だったら、警察に知らせなきゃ」
「もう知らせた。ただ、こんな山の中だから来るのに時間がかかるらしい」
このご時世にそんなことがあるのだろうか。山の中と言っても、車が来られるのだ。宮口の言うことが一気に怪しくなった。もっとも、スマホを預けてしまっているため、おれかヒカリが改めて通報することは不可能だ。
「それで、何か殺伐としていますけれど、どうしたんですか?」
「今日、寺の外に出たのは君たち二人だけだ。君たちが座主の薬を密かに持ち出し、どこかに捨てたのではないかと、我々は疑っている」
「は?」
あまりにも飛躍した言葉を聞いたため、変な声が出てしまった。
「だから、警察が来るまで、寺の外に出すことはできない」
警察は本当に来るのか? 来ないとしたら、いつまでもここにいることになる。
「動機がありません」
「先日、光明寺が魔境に入ったときに座主から『腹が減って目がまわっただけだ』と修行の成果を否定された。それを根にもっての行いとも考えられる」
「動機が弱いです」
「さらに藤原が今日、光明寺とワークに行くと言ったとき、座主から『不邪淫戒』と言われ、感情を乱していた。動機と機会がある以上、寺にとどまってもらう」
ヒカリが言った。
「薬を遠くに持ち出さなくても、お寺の周りの山にでも埋めれば誰でも隠せるんじゃないの?」
「君たちには機会と動機の両方がある」
「動機だったら、宮口さん、あなたにもあるんじゃない?」
「なんだと!」
と言ったのは宮口ではなく、黒田である。
ヒカリは構わず続けた。
「ねえ吾郎、ここのお寺って変だと思わない? あって当たり前のものが無いっていうか」
確かに、この寺には仏像も位牌も無い。
「吾郎は掃除で外周を見たでしょ」
雑木林しか見ていない。
「このお寺には、お墓がないんだよ」
「馬鹿な。墓の無い寺なんかいくらでもある。おまえは東大寺や清水寺に墓があると思っているのか」
宮口の指摘には答えず、ヒカリは座禅堂の大時計を見ると、自分の腕時計をちらりと見た。
つられておれも大時計を見た。八時十五分前だ。
それに何か意味があるのだろうか。
「それに吾郎、清浄宗なんていう宗派を聞いたことがある? 禅宗っていえば、臨済宗と曹洞宗。他の鎌倉新仏教っていえば、浄土宗と浄土真宗、それに日蓮宗だよね。つまりこの宗派は、新興宗教ってことだよ」
「己の愚かさを知れ」
いつか言っていた台詞を宮口が言った。
「清浄宗は鎌倉時代から脈々と続いている」
ケンカしないでほしい。ストレスだ。そうだ、あの呼吸だ。おれは眼を瞑ってゆっくりと鼻で呼吸を始めた。
「吾郎? まあいいや、そのまま目を閉じてなさい」
ヒカリが続けた。
「たとえ鎌倉時代から続いているとしても、この宗派のことは学校では習わなかった。つまり、長い歴史があったとしても一般の人々には知られてなかったっていうことだよね。江戸時代から始まった檀家制度には組み入れられてない」
「檀家制度は、仏教の堕落を招いた」
「確かにそうだけど、ねえ吾郎、このお寺に最初に入ってきたときにどう思った?」
どうと言われても、とにかく大きな建物だとしか思わなかった。いや、呼吸に集中しよう。
「さっきわたしが、あなたが生きていくのに大切なことを忘れかけているって言ったのを覚えてる?」
当たり前だ。
「それは、お金の大切さ」
意外だった。なんだか、妙に現実的な、というか所帯じみた話が出てきた。いや、呼吸に集中しなければ。
「この建物を作るのには相当なお金がかかる。檀家制度は宗教を堕落させたという面もある。だけど、宗教団体の財政を安定させたといういい面もある。この、檀家制度のない新興宗教にはそれが無い。オウムが出家制度にこだわったのは、信者が出家する際に、財産を寄付させるためだったという面もある」
宮口が怒鳴った。
「清浄宗をオウムと同じだと言うのか!」
「同じではないでしょう。サリン作ってないし」
「それだけじゃない!」
「当たり前でしょう。だいたい、オウムがサリンを作れたのは、土屋正美っていう天才化学者がたまたま信者にいたからだし」
「あんなテロリスト集団と、比べられること自体不愉快だ!」
「『どんな宗教もみんな同じことを言っている』って言う人がいる。確かに『エゴイズムを超越せよ』という意味ではどんな宗教も同じだと言える。だけど、そこまでスパンを広げてしまえば、どんなものでも入ってしまう。『国民のための政党だから共産党も自民党も同じことを言ってる』って言ったらやっぱり飛躍だよね。清浄宗もオウムも、違うところはいっぱいある。だけど同じところもいっぱいある。とりあえず、檀家制度の財政的な恩恵は受けていないっていうのは同じだよ」
「それは、前提が同じなだけだ。我々はあんな暴走はしない」
「オウムが暴走したのは、被害者意識のかたまりだったから」
「麻原はひどく世俗じみていて、さらに言えば狭量な男だった。あんな男が解脱なんかしていたわけがない」
「麻原が俗っぽくて、小さい男で、解脱なんかしていなかったのは確かだと思う。だけど麻原が暴走したのは、俗っぽくて小さい奴で解脱していなかったからじゃないよ。もともとのサンデー毎日の反オウムキャンペーンで指摘されていたのは、出家した信者と家族が連絡を取れないとか、そういうことだった。家族を取り戻したいという気持ちはよくわかる。だけど例えば、お釈迦様が出家したお寺に摩耶夫人がやってきて、会わせてくれって言ったとしても、お寺では会わせないよね。だけど、今の日本では許されない。だからつまり、平成時代には原始仏教そのものが世間から受け入れられないんだよ」
「原始とか言うんじゃない。仏教とは本来そういうものだ。現代人は、仏壇に手を合わせるのが仏教で、寺は葬式や法事をするところだと思っている。死者を仏と呼ぶのは、死んでから戒を受けるからだ。生きているときは戒律なんか守ってない。寺は法事をする場所ではなくて、出家が修行する場所だ」
「インドでは、気候的にほとんど裸でも暮らせた。インド人は出家に喜捨する文化がある。だけど中国で裸でいたら、その日のうちに凍死するよね。裸の人間が中国人に喜捨を求めたら、乞食にしか思われない。こんなことをしていて仏教の布教なんかできないよね。だから中国では僧侶はきれいなお袈裟を着て、立派なお寺に住まなきゃならない。当時の中国人は、威張っている人が偉い人で、お金持ちがすごい人だと思っていたんだろう。そして日本にはインドからじゃなくて中国や朝鮮半島から仏教が伝わった」
「しかし、中国や朝鮮半島の僧侶も、五戒を破っていたわけではない。現代の僧侶は妻帯までしている」
「明治政府が僧の妻帯肉食を認めた」
「仏教を堕落させて、影響力を弱めて、相対的に政府の力を強めるためだ」
「そうかもしれない。だけど政府は、妻帯していいって言っただけで、妻帯しなきゃいけないって言ったわけじゃない。これが日本の仏教界でスタンダードになったのは、中国で喜捨が認められなかったのと同じように、日本では生涯独身っていうのが文化的に認められなかったんだよ。だって、恋を知らない人間を日本人が尊敬するわけがないでしょ」
「だから、根本仏教は日本人に認められないと言いたいのか」
「だからオウムは被害者意識のかたまりになった。だから坂本堤弁護士事件が起きた」
「あれはあきらかに被害者じゃなくて加害者だな」
「オウムが加害者だってことは確かだね。だけど坂本弁護士とオウムの幹部が対決した時に、幹部が『我々には信教の自由がありますからね』って言った時、坂本弁護士は『他人を不幸にする自由なんか誰にもないんだ』って答えた」
今のヒカリの言葉には、おれは呼吸が乱れるほどの強烈な違和感を覚えた。
おれも現代法学部の学生である。基本的人権が国民すべてにあることくらいは知っている。そして基本的人権は、どんなことがあっても守られなければならない。例えば参政権は基本的人権の一部だ。「嫌いな候補が当選するとおれが不幸になるから、おまえは参政権を行使するな」という主張を容認してはならない。その行使がだれかを不幸にすることであっても、誰かの基本的人権を奪うことは許されない。この坂本弁護士の言葉はとても法律家とは思えない。
「坂本弁護士は、法律家として『信教の自由』とは『心の中の自由』にすぎなくて、『宗教の名の元に誰かを自由にしていい』っていう意味じゃないことを言うべきだったんだよ。オウムの幹部に『おまえたちは他人を不幸にしている』なんて言うべきじゃなかったんだ。『未成年の信者を家に帰せばいいのか』と聞く幹部に対して『いや、君も帰りなさい』なんて言うべきじゃなかった。大人として、若者に教えを諭したつもりだったのかもしけないけど、それがオウムの被害者意識をさらに増大させることになったんだ。この時の坂本堤氏の言葉は、他人を不幸にしなかったのかな? オウムの幹部たちは殺人犯になり、本人は殺害され、奥さんと子供まで犠牲になった」
「その、『他人を不幸にする権利なんか誰にもないんだ』っていう坂本弁護士の言葉を世間に伝えたのは誰だ?」
「オウムの元幹部だよ」
「それはそうだろう。坂本弁護士は亡くなっているんだからな。元幹部が、自己弁護のために嘘をついているに決まっている」
「それは…、その可能性は十分あるね」
珍しくヒカリが、歯切れが悪いながらも宮口の言い分を認めた。
「話をもどすよ。とにかくこのお寺を維持するにはお金がかかる。そしてお金は信者に寄付してもらうしかない。そのためにはどうするか? ひとつには、若いまま出家させてしまうこと。和泉さんなんかいい例だよね」
「あの若さで、そんなに大きな金を寄進できるか。実際和泉が出家した時に寄付した時にはほとんど寄付など受けていない。彼女は両親の反対を押し切って出家した。むろん両親からの寄進など一切ない」
またケンカになった。呼吸を整えよう。だけどヒカリは、ここの取材をするために相当に仏教について調べてきたらしい。いや、感心してる場合じゃない。呼吸に集中しよう。
「彼女は高校を卒業しないままに出家している。ここの生活が嫌になったとしても、実社会にもどることは難しい。だから、多少の疑問を持ったとしてもここに残るしかない。だから教団としては、ただ同然で彼女を労働させることができる」
「学歴差別だな。おまえが大学に行っていることに執着している証拠だ」
「ストックホルム症候群って言って…」
「人質が、警察よりも立てこもり犯の利益になるような行動をすることだな」
「人は困難や辛いことがあった時、それに立ち向かう人は少ない。逃げる人はいるけれど、やっぱり少ない。立ち向かったり逃げたりするのには大変なパワーがいる。だから大概の人は、立ち向かいもしないし、逃げもしない。ただ、受け入れてしまう。『そういうものだ』って思うことにする。閉鎖された場所で、命がかかっているならなおさらだ。人質が目の前の犯人の利益になるような行動をするのは、ただの保身なんだよ」
「この寺の信者も同じだと言っているのか。勝手に他人の心中を忖度するな。失礼だ」
「ここでは、ワークでも食事でも掃除でも毎回違う人どうしに組ませるよね。これは、信者どうしの個人的なつながりを作らせないようにさせるためだと思う。信者どうしの横の連帯とかが出来ると、お寺側としてはただ同然で信者を使うのに不都合だからだよ」
「そういうものは修行の邪魔になるからだ。だいいち、昨日の食事ではおまえと光明寺が同じテーブルだった」
「それは、初日にトマトが出たときに、吾郎がわたしのトマトを食べてくれたのに気が付いたからだよね。だけどはっきりしなかった。だから証拠をつかむために、トマトが出る昨日はわざと同じテーブルにして、吾郎が動いたらあなたに知らせるために黒田サンをあそこに置いただけだよ。この人は、わたしのことも吾郎のことも嫌いだろうから、わたしたちをかばう可能性もなかったしね」
「だから、勝手に人の心中を忖度するな。おまえの言っていることはただの妄想だ」
続けてきたせいか、呼吸が整ってきた。いい感じだ。このままいけば、あの幸せな状態になれそうだ。
「今日の修行もそうだよね。無一文で山の中に放り出される。そこに一軒の民家。訪ねていけば、快く泊めてくれるという。あの家の玄関の、気持ち悪いくらいに揃った靴を見て、禅宗の影響だって思った。脚下照顧っていうのは禅の言葉だよね」
「そうだ。だいいち、整頓されていないより、整頓されている方がいいに決まっている」
「あの家には主人ひとりしかいなかったけれど、掃除が行き届いていた。わたしたちが来たらすぐに揚げたての天ぷらが出てきた。ひとりでできることじゃないよね。信者が何人かで協力してやったんだろう。あの山の中で車を下ろされたら、誰でも民家を探す。わたしたちがあの家にたどり着くことは予想済みだった。わたしたちを招き入れたあと、主人が席を外したのは、たぶんお寺に連絡していたためだと思うよ」
そのあと、ヤシマ作戦のことを言っていた。急にあのBGMとともに、街から、家々から次々に灯りが消えていくさまが浮かんできた。
何を思い出しているんだ、呼吸に集中しなければ。
「わたしたちが外に出て、すぐに迎えが来たのも、主人がこちらに連絡したからだよね」
「なんのために我々がそんなことをする」
「人はみな、お金を使って生きている。お金がなければ何もできないと思っている。だけど、無一文の人を歓待してくれる人もいる。今日はあの家をすぐに出てきたけれど、本来はあの修行では何日か滞在させてもらって、畑の手伝いをしたりするんじゃないかな。ただで泊めてもらって、ただでご飯を食べているうちに、『お金がなければ何もできない』なんて、錯覚だったんじゃないかっていう気になるんだよ」
「不求得苦から解放された状態だ」
「だから、わたしは吾郎が少しでも早くあの家を出たくなるようにしむける必要があった。主人に失礼なこと、主人を不愉快にさせるようなことを続けて言った。あんたたちとグルだとわかってたから、何の罪悪感もなかったけどね」
「おまえたち二人のグルーブは、おまえがリーダーだと言ったはずだ。おまえが光明寺に『出ろ』って言えばすんだろう」
「あんたたちは、信者どうしの横の連帯を断ち切ろうとする。だから、男女では女をリーダーにして、男のメンツを女につぶさせて、恋愛関係になることを防ごうとする。部下を支配しようとする上司の常とう手段だよ。だから私は、車を降りたらすぐに吾郎に『あなたが指導者だ』と言った。そう言ったからには、わたしが吾郎に指示することはできない。だから、まだるっこしい方法をとってでも、吾郎をあの家から出させた。吾郎はあの家で『お金の大切さ』を忘れかけていた。わたしはそんなことが許せない。だって、吾郎の生涯賃金の半分は、わたしのものなんだから!」
呼吸が止まるほど驚いた。ヒカリはいま、なんて言った?
「いい加減にしろ! おまえが訪ねた家のご主人は、親切で御馳走をしてくれたし、親切で泊めようとしてくれたんだ!」
「たとえそうだとしても、吾郎がお金の大切さを忘れかけていたことは変わらない。わたしにとっては不利益だ」
「それで、わたしが座主の薬を隠す動機っていうのは何なんだ!」
「そうだったね、それが本題だったよ。すっかり話がズレてた」
呼吸を整えよう。最初からやり直しだ。そうすれば、変な自惚れから解放される。
左手の親指で左の鼻の穴をふさいだ。右の鼻の穴だけで息をする。
ゆっくりと、肺にたっぷり入れる。
ゆっくりと息を吐く。
「いま、吾郎がここで習った呼吸法をしているけれど、それは今わたしたちがケンカしてるから。吾郎は共感性が強い人だから、傷つけられている人を見ると、自分が傷つけられたかのように感じてしまう。だから、そばでケンカされると大変なストレスになる」
「だから光明寺は、この寺で修行するべきなんだ。そうすれば、目の前で喧嘩されようが何をされようが、何でも受け流すことができるようになる」
ゆっくりと、肺にたっぷり入れる。
ゆっくりと息を吐く。
これを何度も繰り返す。
「だけど森岡さんは、何度も吾郎の目の前であなたと言い争いをした。それをすれば吾郎がストレスを感じると言っていたのに」
「修行させるためだ。光明寺が特別ではない」
「そう、修行のひとつで、吾郎だけが特別じゃない。わたしも『不邪淫戒』っていう言葉で、女の子が他人に隠しておきたい気持ちを暴露された。黒田サンも『努力すれば解脱できるわけじゃない』ってことを指摘された。あなたも、『修行している自分に囚われている』っていう、人に隠しておきたい気持ちを暴き立てられた」
「座主には感謝している」
「ムハー・マドラー」
「それがどうした」
ゆっくりと息を吸う。吐く…。吸う…。吐く…。吸う…。
突然、目をつぶっているのに、強烈な閃光が体を貫いた。
「チベット密教の寓話に、こんなのがある。師であるティローパは、弟子のナローパを連れて九層の塔に登った。ティローパはそのてっぺんに立つと、『本当に法を学びたいと思う者なら、この塔のてっぺんから飛び下りることも平気なはずだ』とつぶやいた。ナローパは、師が誰に語り掛けているのかと、あたりを見回す。だが、ほかには誰もいない。ナローパは、自分が呼びかけられていると気づき、そのまま飛び下りた。彼はひどく骨折し、意識を失う。ところがティローパは、そんな弟子を置いたまま立ち去り、数日放置する。ナローパが死を覚悟したときに、ようやくティローパが現れ、傷を癒してくれた」
閃光とともに、尾てい骨から背骨を何かがものすごい勢いで駆け上がってきた。
「また別の時、ナローパは師から『火を焚くので竹をとってこい』と命じられる。ナローパが火をおこしていると、ティローパは『真実の弟子ならば、焼いた竹のとげをとって、指の間につきたてるはずだ』とつぶやいた。ナローパはその通りに実行し、意識を失う。やはり彼はそのまま放置される。このときも、ナローパが死を覚悟したところで師が現れ、彼を癒した。こうしてナローパは、師であるティローパから二十四回の試練を与えられた」
「『虹の階梯』の引用だな。そんなことはここにいる者全てが知っている」
「きっとこのナローパっていう人は、生き汚いというか、きっと生への執着がつよかったんだろうね。だからティローパは、ナローパが死ぬような目に何度も遭わせて、ナローパの執着を自覚させた」
「そんなことはおまえに言われなくてもわかっている」
ヒカリと宮口の対話が聞こえる。何を言っているかわかるし、内容も理解できる。だけど、映画かドラマの台詞を聞いているかのように現実感がない。いや、今までも映画やドラマを聞いていても共感してしまっていたのが、そんな生々しさがまるでない。
「ムハー・マドラーはオウムでも行われていた。麻原は、信者のいちばん弱いところ、気にしているところ、こだわっているところを突いてくる。ある女性幹部は、麻原がいきなり突き放すような態度を取ってきて、たいへんショックだったと言っている。これは、彼女の麻原への『甘え』を突いたと言える。ある医者の信者は、地下鉄サリン事件の実行犯をさせられた。これを命じられたとき、『これはムハー・マドラーの修行だ』と言われた。『人の命を救う医師という職業へのこだわり』を、人を殺させることによって無くさせようとした。法廷での麻原の態度は情けなくて、惨めそのものだった。しかしこれも、弟子たちに『麻原』という存在への執着を断たせるためのムハー・マドラーなのではないかと言う研究者もいる」
「そんなわけが無い。麻原はただ、死にたくないだけだ。だから裁判官や検察官に阿っている。どうせ無駄だろうが」
「わたしもそう思うよ。だけどこのムハー・マドラーはこの寺でも行われている。あなたにも、わたしにも、黒田サンにも、吾郎にも」
「オウムと我々は違う! さっきの麻原のしたことを聞いていると、ただのイジメとしか思えない!」
「そう、麻原はこれを『いじめ』とも呼んでいた。オウムのムハー・マドラーは、上位から下位の者への一方通行のイジメだった。だけどこの寺では、座主の森岡さんとかあなたとか、互いに本名で呼んでもかまわない。オウムのような、麻原からもらったホーリーネームで呼び合うような、階級社会ではない」
「当然だ」
「あなたはわたしたちよりもずっと森岡さんとの付き合いが長い。森岡さんにわたしたちよりもはるかに数多く、自分の『痛いところ』を突かれてきたはずだよね」
「だからわたしが、報復のために座主の薬を捨てたとでも言うのか!」
ヒカリと宮口がすぐそばで喧嘩しているはずなのにまるでストレスがない。
「知らないよ、あなたの心の中なんか。ただこれははっきりしている。森岡さんっていう人は、不飲酒戒を守ってはいなかった。五戒を守るのは手段であって目的ではないという考えを持っていた。あの人は生まれながらに何にも拘りを持っていなかった。お経にもそういう人が出てくる。維摩居士っていって、修行なんかしなくても最初から悟りを拓いている。だけどこれって当たり前のことなんだよね。『悟り』っていうのは『ある状態』のことなんだから。努力しても痩せられない人もいるし、努力しなくても痩せている人もいる。だけどあなたは、森岡さんの悟りに疑問を持った。森岡さんが、本当に維摩居士と同じように解脱しているのか。だからあなたは森岡さんの薬を隠した。もしかしたら森岡さんに生への執着があるのなら、『薬が無い。薬が無い。あれはどこにあるんだ』って大騒ぎするんじゃないかと。つまりあなたは、森岡さんにムハー・マドラーを仕掛けたんだ!」
ヒカリが何か言っている。だけどどうでもいい。夢の中のようだ。いや、夢を見ている時よりも現実感がない。これが「受け流す」ということか。
「オウムだったら、幹部が麻原にムハー・マドラーを仕掛けるなんてことはあり得ない。だけど、ここだったらあり得る。森岡さんがわざわざ私たちの前で何度もあなたにマドラーを仕掛けたことを考えても、ここでは修行する際には上下関係なんかないことがわかる。ずっとここに住んでいるあなたなら、森岡さんの薬のありかもわかっていたでしょう。薬を隠したあと、森岡さんが『薬が無い』と言ってきたら、すぐに出してあげて『あなたにも生きることへのこだわりがあるようですすね』とでも言うつもりだった。だけど森岡さんは、何も言わずに死んでいった。本当に生への執着が全くなかったのかもしれない。それはとにかくあなたは焦った。本当に森岡さんが死ぬなんて思っていなかった。そこで、隠していた薬を処分して、今日外に出ていたわたしたちが怪しいとか言い出したんだ!」
「ただの仮説だな。証拠がどこかにあるのか?」
「は? わたしと吾郎が薬を捨てたっていう証拠もないじゃん!」
そのあと、宮口とヒカリが大声で言い合いをしていたが、何を言っていたのか忘れてしま
った。それほどこの時のおれは周りの全てを「受け流し」ていた。
宮口の声だ。
「光明寺、いまおまえは、全てを受け流しているな。こんな、集中できないような環境なのにたいしたものだ。魔境に入った時には叱ったが、魔境に入れる者じたいが少ない。教師になるのなんかやめて、おれの弟子になれ。おまえには解脱の才能がある。ずっとここにいればいい。自分の欲とか囚われとか、そういったものから完全に自由になれるぞ」
それもいいのではないかと思った。おれのことだから修行から逃げようとするだろうが、他の信者が無理にでも連れ戻してくれるだろう。この境地にまた来れるのなら、それもいいと思った。
ヒカリの声がする。
「十…、九…、八…、七…、六…、五…」
ぎゅっ
思わず目を開けてしまった。蛍光灯の眩しさにまた目を閉じた。
今見たのはなんだ? ヒカリがおれの手を握っている?
本当に見えたのか?
だけど今もおれの手に、ヒカリの熱さとかすかな湿り気がはっきりと伝わってくる。
「四、三…、」
現実感が一気に襲ってきた。このままここにいたら、殺人犯扱いされかねない!
いや、確実にされるだろう。
閉鎖された空間で「修行」をして何でも受け流すようになってしまえば、自分が容疑者であることも受け流し、殺人犯であることも受け流し、務所に入ることも受け流してしまいかねない。
そして、犯人をかばう人質のように、保身のために、刑務所にいることも受け入れてしまうだろう。
「二、一、零!!」
誤字報告ありがとうございました。訂正させていただきました!