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残光の部屋  作者: 恵梨奈孝彦


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6/10

アヒンサー

 次の日の昼間、おれは掃除のために寺の外周にいた。

 寺の建物をぐるりと回って落ち葉を掃く。

 すぐそばまで雑木林が迫っていて、外には人工物など何もない。

 名も知らない樹木、木にからまったツル、丸い葉、四角い葉、細長い葉、茸、蜘蛛の巣、地上に出た木の根、土、土、土…。蜂の巣まである。珍しいのでちょっと近寄って見た。ふと上を見ると、枝が天蓋のように視界を遮り、その隙間に空が見える。

 文明ごみなど一つも落ちていない。

 建物が大きいため長い距離を歩くことになるが、毎日誰かが掃除をしているので、落ち葉さえもほとんど無い。

 所々に木々が開けた場所がある。そこからは遠くの山まで見えた。尾根に生えた木々が青空に浮かび上がっていて、まるで合成写真のようだ。

 山中の空気は夏だというのに涼しく、ヒグラシの透き通った声が耳に心地よい。

 掃除というより、爽やかさを吸い込みに外にいるような気がする。

 一周して濡れ縁にもどってきたとき、雑巾がけをしていたヒカリに声をかけられた。

「昨日はごめんね…」

「いや、おれが勝手にやったことだから」

「そんなことないよ。本当に助かったし」

「ルールを勝手に破ったのはおれだし」

「なんのために、食べ残し禁止なんてやってるんだろう。昭和の小学校じゃあるまいし」

「まぁ、昨日の話じゃ、感謝するためってことだろうけれど。人を恨んで生きるより、感謝しながら生きた方が幸せだろうし」

 もっともこれが、「何ものにも囚われずに生きる」ということと、どうつながるのかはよくわからない。

「感謝どころか、あのトマトの漬物つくった奴を、わたしはものすごく憎んでるよ」

その時、高い音が聞こえた。高いといっても、ヒグラシの澄んだ声ではない、濁った高い音だ。これは…。

「スズメバチだ!」

さっき、外周をまわった時に、蜂の巣を刺激してしまったのかもしれない。音はどんどんこちらに近づいてくる。

「うそでしょ! わたし、一度刺されたことがあるのよ!」

まずい。スズメバチに二回刺されると、ショックで死に至ることがあると聞いたことがある!

蜂の大群に襲われた時の対処法として、動かずに地面に伏せているというものがある。しかし、シッョク死のことを考えると、そんなに悠長ことをしていられないだろう。しかもヒカリは、黒いスウェットジャージを着ている。ハチは黒いものを攻撃する習性があるはずだ!

そんなことを思っている間に、スズメバチの大群がこちらに迫ってきた。まずい。どうしたらいいのか?

ヒカリが脱兎のごとく走り出した。濡れ縁から座敷の広間に走る。数匹のハチがヒカリを追いかける。外にいたおれは履いていたサンダルを蹴飛ばして脱ぎ、濡れ縁に飛び上がった。ヒカリが座敷に入ると同時に、おれは襖を思い切り閉めた。バン、という音とともに何か硬いものがつぶれた感触があった。

おれは濡れ縁に伏せた。頭の上をハチがブンブン唸りながら飛んでいる。耳の上から気味の悪い音が何重にも聞こえる。

おれの頭は黒い。刺されているかもしれない。ここの僧侶が頭を剃っているのは、これを避けるためかもしれないと、どうでもいいことが頭に浮かんだ。

しばらくそうしていると、頭の上の音が薄くなってきた。むろんまだ頭を上げられない。

音がまったく聞こえなくなった。

そうっと顔を上げた。

ハチがいない。

さっきまでの喧騒がうそのようだ。ヒグラシさえも鳴くのをやめた静寂。午後の陽光とともに、涼風が頬を撫でている。

おれは大きく息をして体を起こした。そのまま濡れ縁に座り込んでしまった。

「何だ、今の騒ぎは!」

 宮口が奥から怒鳴り込んできた。

「何で襖が閉まってるんだ!」

「スズメバチが飛んできたので、おれが閉めました」

 おれが応えると、宮口がにらんできた。

「騒がしい! 寺は閑静であるべきなんだ!」

「…すみません」

 とりあえず謝った。

「昨日からなんだおまえは! 何をしにここに来た!」

 簡単に答えられる質問ではない。思わず黙った。

「都合が悪くなると黙るのはやめろ!」

 襖が開いた。建付けがよいようで、襖は音もなく開く。

 ヒカリが顔を出した。濡れ縁まで歩いてくる。

 宮口がそちらを見た。

「何だそれは!」

 それとは何だろう。

「己の愚かさを知れ!」

 宮口が何を言っているのかわからない。宮口の視線の先を見た。襖の縁だ。よく見ると、そこにつぶれたハチの死骸が張り付いていた。

「不殺生戒」

 そうだった!

「ここではいかなる殺生も禁じられている! おまえは昨日不偸盗戒と不妄語戒を犯した! さらに不殺生戒を犯すとは、なんたる不届きだ!」

 ヒカリが怒鳴った。

「吾郎さんは、わたしの命を助けてくれたんですよ!」

 宮口が顔をしかめた。

「何を大げさな…」

「わたしは一度スズメバチに刺されたことがある! もう一度刺されれば、アナフィラキシーショックで死ぬ恐れがあった!」

「理屈を言うな! 不殺生戒を犯したことに変わりはない!」

「だったらあなたは、わたしがショック死すればよかったって言うんですか!」

「論点をずらすな! 今私は、この男の破戒について言ってるんだ!」

 森岡が姿を現した。

「騒がしいですねぇ」

 宮口がバツが悪そうな顔をした。森岡に言われたのが、さっき自分が言った言葉だという自覚はあるらしい。

「しかしこの男は、昨日に続いて五戒を犯しました。見過ごすことはできません」

「宮口さん、あなたは五戒を守っているかぁ」

「当然です」

「それが、あなたの修行の邪魔になっているんじゃないかあ?」

「そんなことはありません」

「モノに執着するなかれ、ということで不偸盗戒。金品や名誉に執着してウソをつくなかれ、で不妄語戒。色欲に執着するなかれ、で不邪淫戒。酒に執着するなかれ、で不飲酒戒。わたしは酒を飲むが、酒に溺れたりはしないぞ。たしか今日は、鵯越? 一之谷? 壇ノ浦?とか言ったな。それで冷蔵庫のビールが全滅したとしても、腹を立てたりはしないぞぉ」

 源平合戦と冷蔵庫と何の関係があるんだろう。しかしこの森岡という人物は、外界の情報を遮断してはいないように思える。

「だけど不殺生戒と、執着から離れるのとどういう関係があるんだぁ」

この人たちは、なぜおれのそばで必ず言い合いをするのか。

「何らかの欲望がなければ人は生き物を殺したりはしません」

「そうかもしれん…。だけどあなたは、厳しい修行をしているということに囚われてるんじゃないかぁ? 『自分は他の人間と違う。なぜなら他人ができないことをしているからだ』っていうのは、執着そのものだぁ。だから修行をすればするほど解脱から遠のいてしまう…。だから破戒をした者に必要以上に腹を立てる。…こんなことで悟れると思うかぁ?」

「…ご指導、ありがとうございました。気をつけます」

 しばらく沈黙した。

「五感の偈を現代語訳したのもあなただな。あれを自分で言うだけならともかく、他人に言わせるのは、『おまえらは食事をする価値なんかないのに食べられるんだから感謝しろ』って言ってるようなものだぁ」

 宮口が「気をつける」と言っているにもかかわらず、森岡はとどめを刺した。

宮口が、森岡の顔から視線を外してこちらを見た。

「自分も気をつける。しかしあなたがしたことは別だ。その責めを負うために、特別な修行をしてもらいます」

 「特別」という言葉に何か不穏なものを感じた。ヒカリが口を開いた。

「待ってください。わたしも座敷側から襖を閉めました。だからわたしも不殺生戒を破りました」

 本当だろうか。あの時ヒカリは、必死に奥に逃げていた。襖を閉めるような余裕があったとは思えない。

「本当ですか」

「不妄語戒を破ったりはしません」

 そうだった。ヒカリが襖を閉めたならば不殺生戒を犯したことになり、閉めなかったならば不妄語戒を犯したことになる。どちらにしろ五戒を破ったことに変わりはない。森岡が言った。

「不邪淫戒」

 ヒカリの顔がみるみる紅潮してきた。怒ったらしい。

「恋愛に執着するのはいちばん良くないぞぉ。愛別離苦はつらいぞぉ」

 宮口が口を挟んだ。

「おまえたちには、恋愛への執着を断つための修行をしてもらおう。まずこの光明寺という男、本当に存在すると思うか?」

 宮口がヒカリに言った。

「たとえばおまえが光明寺の手に触れたとする。その時おまえは、光明寺に触っている。しかしおまえが触れている手を、手首を切り落としたら、おまえはもう光明寺を触っていない。そこでおまえは、手首の切り落とされたところを触れる。それで再びおまえは光明寺にさわることができる。しかし、肘から切り落としたらもうおまえは光明寺に触っていない。今度は肘に触れる。しかし肩から肘までを切り落としたらもう、おまえは触っていない。こんなふうに、次々に輪切りにしていっても『光明寺』はどこにもいない。むろん光明寺だけじゃない。だから、おれもおまえも、自分というものも本当に存在しているとは言えない」

 森岡が言った。

「だからぁ、そんなものに執着することは馬鹿らしい」

 宮口が言った。

「その通りです」

「これも方便じゃないか?」

 方便とは、仏教用語で「相手の水準に合わせるために、真実とは違うことを語る」ことを言う。福島第一原発の跡地に行かせないために、子供に放射能の危険を教えるのは困難だ。そこでこう言う。

「あそこはお化けがでるぞ!」

 本当におばけが出るかどうかはどうでもいい。肝心なことは、子供を危険に近づけないことだ。

 地獄があるかどうかはどうでもいい。というより、「自分」があるかどうかさえもわからないのに、「地獄はある」と言ってしまえば矛盾が生じる。肝心なことは、地獄の存在を信じて悪いことをしないことだ。地獄があっても無くても、地獄を信じずに悪事をするよりずっといい。

「たしかに、方便であることは認めましょう。それで、恋愛への執着が断ち切れるならそれでいい」

「不妄語戒」

 森岡はそれだけ言うと、草履が地面を引きずる音をさせながら去っていった。

 宮口はしばらくそれを目で追っていた。

しかしこちらに向き直ると、ヒカリとおれを代わる代わる見て言った。

「今から、二人そろってのワークに出てもらう。そしてこのグループのリーダーは藤原だ。光明寺は、どんなに小さなことであっても、必ず藤原の指示に従え。わかったな!」



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