破戒
さらに次の日、夕食の前に、廊下で黒田とすれ違った。縁側の、自分は左側、黒田は右側を歩いている。この男は苦手だ。自分でも気づかないうちに、腰を回して上半身を左にし、こっちに来る黒田に背を向けるように歩いていた。
その日の夕食のテーブルは、ヒカリと自分、そして黒田だった。
日に日に食事の量が減らされている。ここにきた時にはふつうに炊いたご飯だったが、いつのまにかお粥になっている。おかずも少ない。しかし今日はあの、唯一おいしいと思えたトマトの漬物があった。ちょっとうれしい。おかずはこれだけだが、お粥にも塩味がついているし、なんとかいけるだろう。
「この食事に関わった全ての人に感謝…」あの「五感の偈」が始まった。
なんとなく横目で左側を見た。
ヒカリが、泣きそうな顔でトマトの漬物をにらんでいる。
そうだった…。
なんとかならないだろうか。
五感の偈が終わって食べ始めたが、隣が気になってしかたがない。
前の席で食べていた宮口が、何かの用があったのか、席を立った。
機会は今しかないかもしれない。
しかし前と違ってヒカリは左にいる。動作が大きくならざるを得ない。
ままよ…。
体を左側にねじり、右手の箸でトマトの漬物をつまんだ。ヒカリもそのつもりだったのか、漬物の小鉢をいちばん右側に置いている。よし! あとはこれを口の中に入れさえすれば…。
おれの右側にいた黒木がさっと手を挙げた!
「そこ! 何をやってるんだ!」
驚きのあまり、危うく漬物を落としそうになった。後ろから宮口がおれのテーブルの前に現れた。
このままではいけない。おれは、箸でつまんでいるトマトの漬物を口に放り込むと、そのまま咀嚼して飲み込んだ。
「何をしていた…」
宮口が低い声で問い詰めてくる。
「おかずが足りなかったので、隣の漬物をいただきました」
「不偸盗戒」
…そうだった。盗みをするなんてあり得ないと思っていたので、全く意識していなかった。
「おまえは泥棒をしたんだ。他人の物を盗んだんだ! わかってるのか!」
ヒカリが叫ぶように言った。
「いいえ。光明寺さんは泥棒などしていません。わたしがトマトを食べられないのをみかねて、食べてくれたんです!」
「不妄語戒」
そうなるな。
「光明寺。おまえはたった今、うそをついた。間違いないな!」
「…間違いありません」
もし、自分が嘘をついたと認めなければ、ヒカリが不妄語戒を破ったことになってしまう。
「藤原、おまえも寺のルールを破った。明日の朝になったら出て行ってもらおう!」
「その、ルールっていうのは、どういうものかなぁ」
また、背後から声がした。森岡の声だ。この人はアルコールが入っていてもいなくても、こういうしゃべり方らしい。
「座主」
おれの体をはさんで、宮口と森岡が話し始めた。
「名前で呼べよぉ。その、ルールっていうのはどういうものなんだぁ?」
「食べ残しは禁止されています。ということは、食べ物をあげる、もらうということも許されないはずです」
「そのルールのせいで、不偸盗戒か不妄語戒か、とにかく破ることになってしまったんだなぁ」
「そういうルールですから、仕方がありません」
「そのルールを守ることにどういう意味があるんだぁ?」
「この食事に関わった全ての人に感謝するという意味があります」
「このルールを守れば感謝できるようになるのかぁ?」
「あなたは、ルールを守ることに価値が無いとおっしゃるのですか?」
言い合いはやめてほしい。どこか自分に聞こえないところでやってほしい。苦しい。
「修行は手段だぁ。ルールを守るのも手段だぁ。おまえはそれが目的になってないかぁ?」
「……わかりました。どんなことにも囚われないように、努力します」
「それがいかんのだよ…。『どんなことにも囚われない』ってことに囚われていたら、『どんなことにも囚われていない』ってことにはならないだろぉ。『何も考えない』ってことを必死に考えていたら、『何も考えてない』ってことにならないのと同じだぁ」
足音がする。森岡が去ったようだ。宮口が言った。
「座主に免じて、今日は見逃す。ただし! 今度似たようなことをしたら…、覚悟しておけよ!」