表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/10

破戒

さらに次の日、夕食の前に、廊下で黒田とすれ違った。縁側の、自分は左側、黒田は右側を歩いている。この男は苦手だ。自分でも気づかないうちに、腰を回して上半身を左にし、こっちに来る黒田に背を向けるように歩いていた。

 その日の夕食のテーブルは、ヒカリと自分、そして黒田だった。

 日に日に食事の量が減らされている。ここにきた時にはふつうに炊いたご飯だったが、いつのまにかお粥になっている。おかずも少ない。しかし今日はあの、唯一おいしいと思えたトマトの漬物があった。ちょっとうれしい。おかずはこれだけだが、お粥にも塩味がついているし、なんとかいけるだろう。

 「この食事に関わった全ての人に感謝…」あの「五感の偈」が始まった。

 なんとなく横目で左側を見た。

 ヒカリが、泣きそうな顔でトマトの漬物をにらんでいる。

 そうだった…。

 なんとかならないだろうか。

 五感の偈が終わって食べ始めたが、隣が気になってしかたがない。

 前の席で食べていた宮口が、何かの用があったのか、席を立った。

 機会は今しかないかもしれない。

 しかし前と違ってヒカリは左にいる。動作が大きくならざるを得ない。

 ままよ…。

 体を左側にねじり、右手の箸でトマトの漬物をつまんだ。ヒカリもそのつもりだったのか、漬物の小鉢をいちばん右側に置いている。よし! あとはこれを口の中に入れさえすれば…。

 おれの右側にいた黒木がさっと手を挙げた!

「そこ! 何をやってるんだ!」

 驚きのあまり、危うく漬物を落としそうになった。後ろから宮口がおれのテーブルの前に現れた。

 このままではいけない。おれは、箸でつまんでいるトマトの漬物を口に放り込むと、そのまま咀嚼して飲み込んだ。

「何をしていた…」

 宮口が低い声で問い詰めてくる。

「おかずが足りなかったので、隣の漬物をいただきました」

「不偸盗戒」

 …そうだった。盗みをするなんてあり得ないと思っていたので、全く意識していなかった。

「おまえは泥棒をしたんだ。他人の物を盗んだんだ! わかってるのか!」

 ヒカリが叫ぶように言った。

「いいえ。光明寺さんは泥棒などしていません。わたしがトマトを食べられないのをみかねて、食べてくれたんです!」

「不妄語戒」

 そうなるな。

「光明寺。おまえはたった今、うそをついた。間違いないな!」

「…間違いありません」

 もし、自分が嘘をついたと認めなければ、ヒカリが不妄語戒を破ったことになってしまう。

「藤原、おまえも寺のルールを破った。明日の朝になったら出て行ってもらおう!」

「その、ルールっていうのは、どういうものかなぁ」

 また、背後から声がした。森岡の声だ。この人はアルコールが入っていてもいなくても、こういうしゃべり方らしい。

「座主」

 おれの体をはさんで、宮口と森岡が話し始めた。

「名前で呼べよぉ。その、ルールっていうのはどういうものなんだぁ?」

「食べ残しは禁止されています。ということは、食べ物をあげる、もらうということも許されないはずです」

「そのルールのせいで、不偸盗戒か不妄語戒か、とにかく破ることになってしまったんだなぁ」

「そういうルールですから、仕方がありません」

「そのルールを守ることにどういう意味があるんだぁ?」

「この食事に関わった全ての人に感謝するという意味があります」

「このルールを守れば感謝できるようになるのかぁ?」

「あなたは、ルールを守ることに価値が無いとおっしゃるのですか?」

 言い合いはやめてほしい。どこか自分に聞こえないところでやってほしい。苦しい。

「修行は手段だぁ。ルールを守るのも手段だぁ。おまえはそれが目的になってないかぁ?」

「……わかりました。どんなことにも囚われないように、努力します」

「それがいかんのだよ…。『どんなことにも囚われない』ってことに囚われていたら、『どんなことにも囚われていない』ってことにはならないだろぉ。『何も考えない』ってことを必死に考えていたら、『何も考えてない』ってことにならないのと同じだぁ」

 足音がする。森岡が去ったようだ。宮口が言った。

「座主に免じて、今日は見逃す。ただし! 今度似たようなことをしたら…、覚悟しておけよ!」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ