ヒカリ
平成も押し詰まった七月の午後だった。
おれは引き戸を静かに開けた。
広い玄関には塵ひとつ落ちていない。
すみずみまで掃除が行き届いていることが一目でわかった。
「ごめんください。連絡させていただきました、光明寺吾郎です」
すると、頭の剃り跡も青々とした、墨染めの衣を着た中年男性が出てきた。
四十代くらいだろう、眉が太く、目が大きい。肌つやが良く、精悍な印象を与える。
「ようこそ。清浄宗照顧寺へ。僧侶の宮口高男といいます」
お寺の名前は知っていたが、お坊さんの名前がごく平凡なのが意外だった。
「この寺の中では誰であっても、清浄宗の規則に従っていただきます。鎌倉時代から受け継がれているものですから、くれぐれも尊重するようにしてください」
「はい」
「不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒とあるわけですが、細かいことは後で説明します。とりあえず、荷物を見せてください」
あらかじめ持ち込み禁止の物はパンフレットによって確認してある。もとよりおかしな物は入っていない。
宮口はおれのバッグの中を改めると、スマホを取り出した。
「これは預からせてもらいます。最終日にお返しします」
このこともあらかじめわかっていた。俗世界との連絡を断つのも修行ということである。
「ごめんくださーい! 連絡しといた藤原ヒカリです!」
背後から元気な声がした。若い女性の声だ。振り返るのも悪い気がして、玄関の奥を見続けた。室内なのに明るい。たっぷりと広い面積が、木目の美しい板の間によって延べられている。
宮口がおれの肩越しに来客を見た。眉間に皴を寄せている。不穏な空気だ。逃げ出したくなった。
「その衣服では…、」
「ダメですか? この後ジャージに着替えますけど」
「なら、最初からそうして来ればいいじゃないですか」
「下は暑かったし…」
そう言いながら、藤原ヒカリと名乗った若い女がおれよりも前に出た。他人の言い合いを聞くのは苦手だ。自然とおれは下がった。
後ろ姿のヒカリは、肌も透けそうな白いTシャツに、ショートパンツ、自慢したくなるのも当然なくらいの、真っ白くてきれいな脚をしている。あまり見てはいけないと、視線を上げた。これが求めて得られざる苦しみ、求不得苦というものか。こういうものに魅かれる気持ちがなくなれば、きっと楽になれるのに。
宮口が言った。
「荷物を見せてもらいますので…、少しお待ちください。和泉! すぐに来てくれ!」
宮口が奥と話していると、ヒカリがこっちに振り向いて、にこっと笑った。
見た瞬間にドキリとした。
かわいい…。
色白の肌、大きな目、長いまつげ、小さ目だけれど形の整った鼻、口角の上がった唇。
…だめだ。何のためにここに来たんだ。
おれは軽く会釈して、ヒカリから視線を外した。
和泉と呼ばれた女性が玄関にやってきた。ヒカリが大学生くらいに見えたが、和泉はヒカリよりもさらに若いように見えた。小柄な体に小さな作務衣を着て、丸顔で小麦色の肌が健康そうに見える。しかし、ヒカリの美貌にはとても及ばない。失礼だが、ヒカリよりも和泉を見ていた方が安心できる。おれが二重の意味で居づらい気持ちになっていると、宮口が声をかけてくれた。
「では光明寺さん、ついてきてください」
おれはバッグを提げて靴を脱いで下駄箱に入れ、宮口の後に続いた。
玄関からすぐに縁側に出た。幅がけっこう広い。夏の日差しがガラス戸を通して降り注いでいる。サッシ戸などではない昔ながらのガラス戸。しかし古びた感じはまったく無い。掃除が行き届いているからだろうか。日差しが強いのに暑くはない。さっきヒカリが「下は暑かった」と言っていたが、エアコンがついている気配がないのに、ここは涼しい。きっと山の上だからだろう。
「カップヌードルを持ち込むことはできません」
「そうなんだ。じゃあ、車に置いてくるから…」
「車でいらしたんですか?」
「そうだけど」
「どこに置きましたか?」
「お寺の前の広場」
「キーをお預かりします」
「それは無理だよ。まだ、あなたたちを信頼すると決めたわけじゃないし」
「いえ、規則ですから。寺の規則を守れない人を入れるわけにはいきません」
ヒカリと和泉が言い争っているのが聞こえる。聞きたくない。耳をふさぎたくなった。しかし、このままじゃいけないことはわかっている。
しばらく歩いて驚いた。縁側の側面にある、畳を敷き詰めた広間に、数百人の人々が座禅を組んでいるのが見える。たくさんの人が、全て同じ方向を向いて座っている。広間には畳と人だけで、仏像も掛け軸型の本尊らしいものも無い。ただ、坐っている人だけが、規則ただしく、定規で計ったかのように全くの等間隔で並んでいる。数百のそれは見ているだけで圧巻だった。しかしその姿を見るまで一切人の気配を感じなかった。それほどの静寂だった。自分の足音だけが響く。宮口の足音は聞こえない。なんだかこれも居心地が悪い。ここからいちばん近い集落まで数キロ離れている。外からの音もほとんど無く、聞こえるのは蝉の声くらいだ。この寺の外観は古刹そのものだったが、自分が予想していたより広いらしい。
さらに縁側を歩いて、広間の先にある部屋に案内された。さっきの広間ほどではないがここも広い。畳の上にいくつもの布団がきれいにたたまれている。定規で計ったかのように同じ間隔で布団が置かれている。ただの布団なのに、これだけの数が置かれているとなにかの模様のようにも見える。布団の上に、一つずつバックが置かれている。家具がひとつもないだけでなく、みんな、着替えなどたたんでバックに詰めているらしい。私物など一切畳の上にはない。色彩らしいものがほとんどないこの部屋に色とりどりのバックだけがカラフルだ。宮口が部屋の一角の、バックが置かれていない布団を差した。
「荷物はこの布団の上に置いて下さい。光明寺さんには今夜はここで寝ていただきます。間もなく夕べの座禅が終わります。他の信者さんとのグループワークが始まりますので、ついてきてください」
さっき大勢が座禅をしていた大広間に、三人ずつのグループがいくつも車座になっている。さきほどの静寂とは違い、話し声が聞こえる。ときどき笑い声も聞こえた。
自分の右側に和泉が正座をして、左側にはヒカリが体育坐りをしている。
ヒカリは黒っぽいスウェットの上下を着ていた。ここは涼しいからな…、なんか残念だ。そんなことを考えてちゃ駄目だ! 視線を和泉に移した。和泉は、さっきの小さな作務衣のままだ。
「では、まず自己紹介します。和泉加代といいます。十七歳で、清浄宗の信者です」
さっきのやりとりから、和泉はお寺の人のような気がしていたが、一般の信者らしい。
「それで、わたしがお寺にやってきたきっかけなのですが…、一言でいえば失恋です。今から思えば馬鹿馬鹿しい話ですが、二度と彼に会えないと思うと、死んだ方がマシなような気がして。だけど自殺するような度胸もなくて。それでここの合宿に参加したんです。最初は辛かったですよ。座禅の時なんか、頭の中が彼のことでいっぱいになっちゃって。何も聞こえない場所で、ただ座っているしかできなくて。彼がやさしかった時のことを思い出したあと、別れた日のことを思い出して、余計に辛くなったりしました。だけど毎日、宮口先生に教えてもらった呼吸を、必死にやり続けました。もちろん、すぐに結果など出ません。ただただ座って、呼吸をしているだけです。だけど、呼吸に集中しているうちに、だんだん彼のことを思い出さなくなりました。これが呼吸のおかげだと思っていたら、突然あれが起きたんです!」
和泉は一度言葉を区切った。
「目をつぶっているのにいきなり眩しくなって、同時に尾てい骨から何かが背骨を駆け上がってそれが脳髄にまで一気に達したんです。そのあと、何とも言えないような幸福を感じました。これに比べたら、彼とつきあっていたころの幸せなど、ものの数ではありません。そこで、宮口先生に勧められたとおり、親の反対を押し切って高校をやめ、ずっとお寺にいることにしたのです」
おれは和泉に聞いてみた。
「お寺に来てからどれくらいになるのですか?」
「三か月と少しです」
「…ここの生活は、大変なんじゃないですか」
「いいえ。例えば、ここではお金など持っていなくてもすみます。お金がほしいとか、お金がなくなったらどうしようとかいう心配もしなくてすみます。ただ座禅をして、お寺の手伝いをする毎日がとても充実しています」
「はい、わかりました」
求不得苦とは無縁の生活ということだろうか。
「では次に藤原さん、あなたはなぜここに来たのですか?」
「わたしは別に悩みがあるわけじゃなくて、取材のために来たんだけど」
ヒカリは、渋谷にある、文学部が有名な大学の名前を挙げた。
「四年生で就職は決まってるんだけど、卒論があるので、その取材のためにフィールドワークに来たんだよ。わたしは経済学部の経営ネットワーク学科なんだけど、もともとそういう学科だし。だけど、取材だけではダメで、合宿を体験しないのならお寺に入れてくれないってことだから、参加することにしたんだ」
「それはそうです。お寺の規則に従わない人は入れられません」
「しつこいな、ちゃんと車のキーも渡したでしょ!」
なんだかまた言い争いになりそうな気がしたので、自分が声を出した。
「藤原さん、ありがとうございました。それで、自分がなぜここに来たかですが…」
ヒカリが口を挟んだ。
「その前に自己紹介してよ」
ヒカリは、おれに対しては、ずいぶんフランク、というか舐めた口の聞きかたをしてくる。同い年か年上のはずだし、別に気になるわけではないんだが。
「はい。藤原さんと同じ、大学四年生です」
おれは、国分寺にある大学の名前を挙げた。大学名に「経済」という言葉が入っているが、自分は現代法学部の学生である。
「それで、教員免許を取りまして、なんとか四月から教員として採用されることになりました」
「なら、良かったじゃん」
「それはそうなのですが…」
自分にとって、恥になることだ。初対面の若い女性にそれを晒すことが、ちょっとためらわれた。
和泉が言った。
「言いにくいことでも言ってください。そうしなければ、あなたの悩みが解決されることはないでしょう」
確かにそうだろう。ままよ…。
「今さらですけど、自分は教師にむいていないんじゃないか、と思えてきたんです」
ひどく情けないことを言っていることはわかっていたが、これを隠すことに意味は無いだろう。
「だったら、なんで教師になろうと思ったわけ?」
「自分が、教師だけじゃなくて、どんな仕事にも向いてないからです」
ヒカリが絶句した。あきれているらしい。和泉が言った。
「どうしてそう思うのですか?」
「父親がそう言っていました」
「お父さんは先生ですか?」
「いえ、普通のサラリーマンでした。何度もリストラされて…、それでおれには、そういう心配がない仕事に就けさせたかったそうです」
親父に言わせれば『教員なんて、免許さえあれば誰でも勤まる』だそうだ。学校事務に勤めていたころ、何かあったのだろう。
「だけど、どうしてあなた自身も、どんな仕事にも向いてないと思うのですか」
「おれは、目の前で他人が怒られていたり、他人どうしがケンカしているのを見るのが耐えられないんです」
それを痛感させられたのは、教育実習に行ったときのことだった。
母校で、元担任が指導教官だったのだが、鬱になりかけた。
「母校だからといって甘えるな」はとにかく、「ただ説明するだけじゃなくて、生徒に考えさせろ」と言っていたが、具体的な指示は何もしていなかった。ただ怒っているだけだ。どうすれば生徒に考えさせることができるのか、何も言っていない。ブラック企業そのものの曖昧な指示を出していながら、こちらができなければ怒り出す。たまらず「この単元の授業はやめさせてください」と言ったら、「おまえはうまくやろうとか考えなくていいんだ!」とか怒鳴られた。大学で散々、「迷惑をかけるな」と言われた。それで、自分が授業をやったら迷惑かと思ってそう言ったら、この結果だった。
自分が生徒のころ、どちらかといえばナメられていた元担任の態度には、違和感しかなかった。教育実習生というのは、学校の中でいちばん弱い存在である。授業料を払っているわけでもなく、ただお世話になっているだけだ。生徒には何も言えないくせに教生には威張る教員はけっこういるらしい。
もっともあの教官は、かつて担任をしていたおれに、実習生として帰ってきて変なことをされたら自分の恥になると思ってあんなにガーガー言っていただけなのかもしれない。もうどうでもいいが。
それよりも、こんなことがあった。
実習中に教官が、あまりにも色んな生徒に対して「甘ったれている」と陰で言うので「そういうのはよくないと思う」と言ったら「おまえは、自分が『甘ったれている』と言われているような気がするだけだ」と言われた。
だからどうだと言う話だが、そのこと自体は事実だ。おれは、学校現場に入ったら、しょっちゅう目の前で、生徒が怒られているところを見ることになるだろう。そのたびに自分が怒られている気がしていたら、身が持たないのではないか。あくまでも、「あれは他人が怒られているんだ。自分とは関係ないんだ」という気持ちになれないものだろうか。
「とにかくドラマも見れません。ドラマというと、必ず誰かと誰かがケンカしだすからです。同じ理由で、ほぼ映画も駄目です。見られるのはホラーくらいです。ホラー映画は、ケンカとか説教とかしている暇なく、殺されていきますから。サザエさんがいちばん苦手です。いつもワカメちゃんがチクって、サザエさんがカツオ君を説教しています。おれはかつて、サザエさんはカツオ君の母親だと思っていました。それほどしょっちゅう説教している。自分が男なので、男子に感情移入してしまいます。いつも自分が説教されているような気がします。なんでアニメを見てこんな嫌な気持ちにならなきゃならないのかと思います。しかし、このままでは、教師なんか勤まらないでしょう。いや、どんな仕事も勤まらないでしょう。誰も怒られていない職場なんか、あるわけがないのですから」
「はぁ…」
ヒカリが小さくため息をついた。さらに呆れたらしい。いいのだ。女の子の前で恰好をつけるようでは、この気持ちは改善されないだろう。和泉がにっこりと笑った。
「善光寺さん! ここでみんなと一緒に修行しましょう! きっとあなたの悩みは改善されます!」
ヒカリが和泉を見て、もう一つ小さなため息をついた。