【二・鞍馬の道】
「あ」
美味菜温泉職員寮。朝食をとるため食堂に入った遠野明子は、一足先に食事を終えていた鞍馬の姿を見て半ば驚き、半ば不快混じりの懐かしい声を上げた。
今の鞍馬は白無垢学園に通う高校三年として生活しているし、顔立ちも高校三年に見えるようにしてある。しかし、今、彼女の前にいる彼はどう見ても30代に見えた。
烏天狗である鞍馬にとって人の姿は仮の物に過ぎない。とはいえ、やはり普段の姿というものは自ずと決まってくる。明子にとって鞍馬はすっかり高校生らしいあの姿が人としてのスタンダードになっていた。
それでいて半ば懐かしい声を上げたのは、目の前の鞍馬は当時はスーツ、今はカジュアルと服装こそ違うものの、彼女が初めて出会ったときの姿だったからだ。その時、明子は中学三年、鞍馬は産休をとった先生の代わりにやってきた教師だった。そして不快が混じっているのは、その頃の明子は自分がまぜものであることを思い出したばかりで、やさぐれていた頃。助けようとしてくれた鞍馬にも強く当たり、明子にとって闇に葬りたい時期である。
「どうしたんです。その姿は?」
「ちょっと懐かしい人に会いに行きますので、この姿の方が良いと思ったんです。その人と最後に会ったときはこの姿でしたから」
「懐かしい人?」
「私の剣の先生です」
そういう鞍馬の顔はどこか心苦しそうなのに、明子は軽く首を傾げた。
鞍馬は鞍馬山にある烏天狗の村で生まれ育った。そこでは天狗たちは人間社会に慣れるため、誰でも中学高校は人間の学校に通うことになっている。
純血種の烏天狗である鞍馬義経も例外ではない。正体を隠し、こそこそするように人間の学校に行かなければならないのかと不満を漏らす烏天狗の多い中、彼は学校生活を楽しみにしていた。というのも彼はもっと小さな頃から人間たちに興味を持っていた。
天狗の多くは人間たちを低く見ていたが、そんな彼らでさえ今を生きるには人間社会を知らねばならないと認めざるを得なかった。そして、それだけの文化を、町を作り出した人間を鞍馬は「すごい」と感じていた。
人に化けられなければ人の町には行けない。だから鞍馬は化身を熱心に学んだ。親が急死して以来、彼を育てた叔父が人間たちに好意的なのも幸いした。鞍馬はある程度化身を身につけると、時間を見つけては人間社会に出かけた。彼のお気に入りは人間が作り出した品々が並ぶデパートであり、ホームセンターであり、無料で本の読める図書館だった。
だからこそ鞍馬は物ばかりでなく人そのものと触れあう学園生活が楽しみだった。もちろん、人が好い者ばかりではないことはわかっている。指導する烏天狗も
「人には良い者も多いが、中には本当に、どうしようもないほど下衆な輩もいる。心優しくても置かれた状況によっては冷酷な態度を取らざるを得ない者もいる。人を嫌う必要は無いが、信じすぎると痛い目に合うぞ」
と何度も言った。実際、鞍馬は中学高校の間に好い人も悪い人も見た。
人間の学校において、鞍馬はぜひ人間たちの武術に触れてみたいと思っていた。これについては周囲の烏天狗たちのほとんどが笑った。
「我々には天狗流とも言える独自の剣術がある。人に教えることがあっても、人から教わることなどない」のだ。
しかしかまわず鞍馬は中学に入学するとすぐに剣道部に入った。できれば柔道部もと思ったが掛け持ちはできず諦めた。
そして失望した。中学で学ぶ剣はあまりにもレベルが低かった。小学生の頃から剣道を学んでいた人は少なく、多くが剣を知らないまま入部した人達だから初歩の初歩から始まるのは仕方が無いと覚悟をしていたが、妥協点が低すぎた。剣の入り口に片足どころか足の指1本踏み入れた程度で良しとしてしまう。それでも止めなかったのは、天狗仲間たちに対する意地もあったが、
「きっと人の中には優れた剣士がいるはずだ」
という希望を捨てきれなかったせいもある。それに剣では不満はあったが学園生活自体は楽しかった。天狗社会では教わることの無かった様々な勉強も面白い。特に絵や音楽など文化活動をすることは新鮮だった。
今でも鞍馬は「いっそのこと剣を諦め、絵や陶芸に進んでいたら。科学の研究に踏み入れていたら」と考える時がある。それはそれできっと楽しい日々だったろう。
しかし、結局鞍馬は剣を捨てきれなかった。失望しつつも、どこかにいるだろう優れた剣士と出会うことを望み続けた。
鞍馬がその男と初めて出会ったのは、彼が25才の時だった。叔父の代理でアメリカに行ったときだ。初めての海外で鞍馬も浮かれていた。早々に用事を済ませた彼はひょんなことから地元の人間達の抗争に巻き込まれた。銃を持った相手との戦いには不慣れだった鞍馬は、思わぬ深手を負ってしまう。
人気のない路地に追い込まれた上、銃を持った5人の男に囲まれ、やむなく鞍馬が烏天狗の力を使おうとしたときだった。
突然、黒い小さな塊が地面を駆けてきたかと思えば、あっという間に相手の銃を持った腕を切り飛ばしていた。
「なんだ?!」
戸惑う男たちの間を黒い塊は流れるように駆け抜け、そのたびに男たちは悲鳴を上げ、腕を押さえてのたうち回った。足を斬られた者もいた。
「これは?!」
鞍馬の目は、その塊が細身の剣を持った小柄な男であることを捕らえていた。年齢は30代半ばであろうか。その顔は日本人に見えた。
その男は鞍馬と目が合うと逃げるよう促し、そのまま離れていった。鞍馬もそれに続いた。
後には、手足を押さえてのたうち回る男たちと、銃を持ったまま地面に転がっている5本の腕が残った。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
しばらく走り、人気の多い公園まで来てから鞍馬はようやく男に頭を下げた。
「なに、気にすることはない。それに、よけいなお世話だったようだし」
男はこそばゆそうに頬を掻きながら鞍馬の顔を見上げた。飄々としているようでいて、そこには全く隙がなかった。手には不格好な杖が握られていたが、それには刃が仕込んであることは先ほどでわかっている。
「とんでもない。あなたのおかげで助かりました」
「そうかな」
悟ったような顔に、鞍馬は自分が人間でないことがバレているのではないかと思った。
(この人はまぜもの……ではなさそうだ)
自分がまぜものであることを思い出してさえいれば、まぜもの同士でなんとなくわかるものだ。
(とすると、この人は人間か)
鞍馬の顔がほころびた。不意を突いたとは言え銃を持った5人の男を数秒で倒した先ほどの動きを思い出す。やっとそれらしい男と出会えたという喜びがつい顔に出たのだ。
「あの、お名前を伺わせてください」
「いや、ただのお節介ですから」
とさっさと立ち去ろうとした。追いかけようとした鞍馬だったが、その時に先ほどの男たちの仲間の姿が見えたため追うのを諦めた。へたに追いかけてあの人を巻き込むことはしたくなかった。
現地でのゴタゴタがやっと終わり、帰国した鞍馬はその男の事を調べ始めた。名前はわからないため、年格好からの調査だった。しかも当時はインターネットは一般には普及していなかったため、彼は知っていると思われる関係者を直接訪ねては聞くという足に頼った調査をした。
彼の名前が狭間桐仁とわかったのは、調べ初めて3年目だった。彼の住居がわかったのはさらに2年後である。彼は小さな剣術の道場を開いていたが、あまりはやっていなかった。
鞍馬は狭間に対し天狗流の剣術で立ち会い、そして負けた。最もこの時鞍馬は烏天狗の正体を隠して立ち会った。つまりこの時彼が用いたのは妖力なしの天狗流である。天狗流剣術はもともと妖力とうまく掛け合わせてこそ生きる剣であり、妖力なしでは本来の半分程度の力しか出ない。
しかし鞍馬は、それは純粋に剣の勝負では葛生の方が勝ることと判断、その場で弟子入りしたのである。
狭間の剣術は彼のオリジナルで、花鳥風月流といった。従来の剣道に物足りなさを感じた彼は独自の剣術を生み出したのだ。
そして彼はそれが理屈で終わらないよう、実践の旅を何度もした。昔風の言い方をすれば修行の旅だ。アメリカで鞍馬と出会ったのも、その旅の最中だった。これらの修行の過程で、花鳥風月流はどんどん改良されていった。
当然ながらこの流派の動きは剣道のルールからは外れているため、正式な大会には出られない。というより狭間が出なかった。
ルールを守っても戦えないことはないが、花鳥風月流の持ち味が死んでしまう。それでは何のために出るのだかわからない。もっとも、その点については後に弟子入りした鞍馬に
「わしも若かったのさ。何しろ今なら中二病と笑われるのか、花鳥風月流などと大層な名前をわざわざつけたぐらいだ。剣術も剣士も、もっと柔らかくないとな。戦いに合わせてどんどん改良していったくせに、大会に合わせた戦い方は拒否するのだから。何ともはやだ」
と語っていた。
結局、鞍馬は狭間の下で十年修行をした。修行と言っても、一方的に鞍馬が学んだわけではない。最初の手合わせで鞍馬が魅せた天狗流に狭間も興味を示し、時には天狗流の剣技を花鳥風月流に取り入れもした。
そして最後の日。免許皆伝となった鞍馬に狭間は
「鞍馬。お前も知っての通り、花鳥風月流はわしが作り上げた剣だ。しかし、多くの流派が伝えられるに従い、新たな剣士に工夫され、完成度を高めていったことを花鳥風月流はまだしていない。それはお前がやるのだ。花鳥風月流はお前がさらに改良し、より完全なものにするのだ」
そして鞍馬は道場を去り、それっきり狭間とは会っていない。