【十・京慎太は気に入らない】
安いビジネスホテルのシングルルーム。朝食バイキングを腹に詰め込んできた京槙太は無料サービスの珈琲をテーブルに置き、やはり無料サービスの新聞を広げていた。
「載ってないな」
つけっぱなしにしてあるテレビに目を向ける。すでにニュースは終わり、画面には今はやりのスイーツが紹介されている。
彼が探しているニュースは美味菜温泉の殺人事件である。彼が明子を傷つけた事件だ。
何人もの人達の前で殺人が起きたのだから当然ニュースになっているだろうと思ったのに、テレビも新聞も全くあの事件を扱っていない。これがたまたま同じ日にとんでもない事件、天変地異とかクーデタとか原発事故とかがあったのならまだわかるが、昨日は特に目を引くような事件はなかった。
「つまらない」
京はベッドに横になった。まるで自分が無視されたようで面白くない。先週、銀行のATMをぶち壊して現金を奪ったときには小さいながらも新聞記事になったのに。
「もしかしてあの女、死ななかったのか?」
だが、京は明子を斬ったとき確かな手応えを感じていた。今まで何人も殺したときと同じ感触だった。
寝っ転がったまま京が両手を天井に伸ばすと、両腕の肘から先が鋼の刃へと変化した。
「今に見てろ」
それが子供時代の京の口癖だった。
京は何でもそこそこで出来る子だった。勉強も運動も、どれも割と上の方の成績を収めていた。しかし、どれをとっても一番にはなれなかった。
周囲のすすめもあって、京は有名私立中学を受験したが落ちた。三つ落ちた。
それ以来、周囲の彼を見る目が変わったように京は感じた。
みんなが自分を馬鹿にしていると感じた京は見返してやろうとした。勉強もしたし、剣道部に入って鍛えもした。それ自体は誰も責めない。むしろ頑張れと応援されて良かったし、事実応援してくれた人もいた。
だが、彼は一番にはなれなかった。常に彼の上には誰かがいた。それは珍しいことではない。むしろ当たり前のことだ。しかし、京にはそれが気に入らなかった。そいつがいるから自分は認められない。そいつが自分の邪魔をしている。そう感じた。
そう思うと周囲の励ましの言葉も皮肉に聞こえてきた。
「頑張れ(無駄だろうけど)」
「おしかったな。もう少しだったのに(これがお前の限界って事だ)」
「お前なら出来るさ(こう言っときゃ文句はないだろ)」
どんな言葉も励ましの皮をかぶりながら自分を馬鹿にしているように聞こえた。素直に言葉を受けられなくなっていた。それは、彼自身の目つきや態度となって表れた。少しでも彼の不安や苦痛を和らげることが出来ればと思って声をかけても、軽蔑や憎しみの目で返される。こんなことをされては誰も京に近づこうとは思わなくなる。
誰も彼に好意を持って近づこうとしなくなった。これが彼の力がまるで駄目ならば、まだ同情される余地があっただろう。しかし、彼はそこそこ結果を出した。そのために周囲からは
「たいした力もないくせに自尊心だけは人一倍で糞生意気」
と見られた。京が剣道で負けたり、テストで一番になれなかったりする度に
「所詮は誰それには勝てないくせに」
などと、わざと京に聞こえるようにあざ笑った。その度に京は思った。
「今に見てろ」
しかし結果は出なかった。少し上がっても、彼の上には必ず誰かがいた。
現実では勝てない鬱憤を、彼は妄想で晴らすようになっていった。頭の中で自分より良い結果を出したもの、良い思いをするものを次々とひどい目にあわせ、自分に向かって泣きながら土下座させた。相手が反撃しても、自分はそれを上回る圧倒的な力で蹂躙した。
実際にやるわけではない。頭の中で妄想するだけだからその中身は現実離れした、とうてい実行不可能なものばかりだった。
こうした妄想を、京はちっとも恥ずかしいとか情けないとか思わなかった。これらは全て「自分が本気を出したらこうなる」シミュレーションであり、いずれは現実となるはずのものだからだ。これが現実でないのは、相手を気遣っているからであり、自分の優しさなのだ。
高校に入って、剣道部に入った京は呉里という先輩に目をつけられた。彼は自分より弱いものが自分と対等であるかのような態度を取る奴が大っ嫌いだった。
呉里は自分に負けてばかりのくせに馬鹿にしたような目で自分を見る京を嫌悪し、いびりまくった。その徹底ぶりは京の「自分が本気を出したら」という妄想も打ち砕いた。京に、自分は彼にかなわないという現実を突きつけた。
そして京は狭間道場の門を叩いた。京は、初めて本気で他人に頭を下げたのだ。
狭間の教えを受けた京は力をつけた。彼が今まで伸びなかった一番の原因は、自分の力を過信するあまり、他人の助言をろくに聞かなかったことだ。それを聞き入れ本気で身につけようとした。
京は確実に強くなっていったが、それを呉里に向ける度胸はなかった。もしもこれでまた負けたらと思うと、彼の足を鈍らせた。その苛立ちは近所の犬猫を叩き殺すことで晴らした。犬猫の命を奪うことで自分は強いんだという気になれた。
花鳥風月流の基本を一通り習い終えたとき、呉里が部員を引き連れ現れた。
そして京は今まで勝てなかった呉里に勝利した。自分でも驚くほどあっさり勝てた。
「やっぱり僕は強かったんだ。これが僕の本当の力なんだ」
京は呉里をぶちのめした後、剣道部に舞い戻り、残った先輩部員たちを一人残らず叩きのめした。
狭間道場には行かなくなった。彼にとって目的は勝つことであり、強くなることではなかったからだ。呉里たちをぶちのめしたことで彼の目的は達せられたのだ。もはや京にとって狭間との修練などは用済み、時間の無駄だった。
高校の部活といえど、最強の地位は気持ちが良かった。気に入らない奴は叩きのめし、言うことを聞かせた。それがかつて、自分がとことん嫌悪し、妄想でひどい目にあわせまくった連中と同じ事をしていると気がつかずに。
そしてあの日、京は呉里を叩き殺した。自分に負けた弱っちい存在のくせに、度々自分に刃向かう彼が気に入らず、懲らしめるつもりが殺してしまったのだ。
さすがに本当に人を殺したことに京は動揺した。犬や猫を殺したときとは全然違った。そこへ狭間がやってきて、彼を打ち据えた。
京を再び敗北が襲った。手足を砕かれ、動けないところを部員たちが取り囲んだ。今までの恨みを晴らしてやるとばかりに。
(殺される)
本当の恐怖と死が京を飲み込もうとしたとき、彼は思い出した。
「あの時、先生も殺しちゃえば良かったなぁ。ま、僕もあの時は落ち着いてものを考えられる状態じゃなかったし、仕方がないか」
ベッドに寝っ転がったまま肘から先が刃に変化した両腕を打ち合うと、高い鋼の音が部屋に響いた。
その腕を持つ体も大きく変化していた。やせ細った顔と足、異様に突き出た腹。
京は餓鬼と刀の付喪神のまぜものだった。
あれが欲しい、これが欲しい、常に満たされない欲求に取り付かれた餓鬼。ちなみに、子供をガキと呼ぶのは、その要求はすさまじく、あれ買ってこれ買ってと駄々をこねる子供をまるで「餓鬼」のようだと表現しているうちにそのまま子供を指すようになったからだとも言われている。彼は、みんなからの称賛が欲しかった。
そして刀。戦国時代、戦場跡に埋もれ、長い年月を経て付喪神になった刀。刀に染みついたのは持ち主の恐怖。目の前の敵を殺さなければ生きられない。生きるために目の前の敵を殺せ。自分の生きるのを邪魔する者を殺せ。生きるために。
この二つのまぜものである京は、自分の要求を満たすために人を斬ることに何のためらいもなくなった。
思い出した後、彼が最初に求めたものは自由だった。自分を殺そうとする者のいない世界だった。そのためには金が必要だった。
金を求めて家に帰ると、母が邪魔をした。自首してくれと泣いてすがる母を彼は斬った。
それから彼の逃亡生活が始まった。警察も怖かったが、それよりも狭間が怖かった。呉里を倒し、強くなったと思った自分をあっさりと倒した男。自分の剣の先生。
京は狭間から離れるように遠くへと逃げた。逃走資金はすぐになくなったが、人を殺したり、ATMを壊したりで手に入れた。その家庭で、自分の力の使い方も覚えた。ATMの壊し方も慣れた。最初はうっかり中の現金も斬ってしまったが、今はどこをどう切れば金を傷つけず、取りやすいかもわかった。
そして十年以上の月日が流れた。
京は今の気楽な生き方にすっかり慣れた。金を奪うことにも人を殺すことにも慣れた。慣れたどころか、楽しめるようになった。特に人を殺すことは楽しかった。自分を弱っちい奴だと侮って近づき、脅す奴をあっさり斬り殺す。その瞬間の相手の表情を見る度に、京は幸福感に包まれた。
「僕は強い」のだと。
事実、まぜものであることを思い出した京の身体能力は大きく伸びていた。ちょっかいを出してくる奴の中には、様々な格闘技の使い手がいたが、みんな一分と持たずに京に斬り殺された。殺した奴の敵討ちに京を狙う奴もいた。みんな返り討ちにした。
彼らの死体を前に、京は笑いが止まらなかった。
「こいつら、弱っちいくせに……弱っちいくせにぃ」
京の欲求はあくまで個人レベルのものだった。集団を指揮して自分がトップに座ろうとかいう欲望はなかった。たまに思い浮かぶことはあっても、面倒くさいと思った。上に立つと言うことは、いちいち下のもめ事に関わらなければならないからだ。
好きな場所に行き、好きなことをして、うまいものを食い、そして虫の好かない奴は殺す。金がなくなったらATMを壊したり、現金がありそうな奴を殺して金を奪う。人間関係が面倒くさいから集団には入らず、一人でいる。
これが京の生き方だった。
そしていつの間にか、京は狭間に対する恐怖どころか、狭間の存在自体も忘れていた。
狭間のことを思い出したのは、たまたま夏菓子駅前のラーメン屋で食事をしていたとき、隣のテーブルにいた客が狭間のことを話題にしたからだ。ロト7で八億当てた男。それを聞いた途端、京の頭に狭間の記憶が蘇った。しかし恐怖はなかった。
恐怖がなくなると、今度は狭間に対する恨みが頭をもたげてきた。なんで今まで逃げていたんだろうと馬鹿らしくなった。
客たちの会話から狭間の居所を知った京は、彼を訪ねていった。
恐怖は消えていたが、一応の用心はあった。しかし、本人を前にした途端、それは消え失せた。
(なんだ、ただの爺じゃないか)
途端、自分がおかしくなった。こんな爺さんに自分は怯えていたのか。逃げていたのか。狭間は人間としてはかなりの剣士だが、所詮は人間。まぜものの力を身につけた自分の敵ではない。
そして、こんな馬鹿らしいことはこれで終わりにしようと思った。
「先生、僕と真剣勝負しましょう。いやなら僕はここで暴れますよ。この施設にいる爺さん婆さん皆殺しです」
狭間は勝負を受けた。
京が真剣勝負を一週間後にしたのは、ただ殺したのではもったいないと思ったからだ。十年以上自分は逃げたのだ。狭間にもそれぐらい怯えてもらわないと割が合わない。自分の方が強いという自信の表れだった。
しかし、今の京はそれを少々後悔していた。一週間という時間をもてあましているのだ。わざわざ遠くまで行って、ふと目についた駅前の温泉施設に入ったのも単なる時間つぶしのつもりだった。
「そういえば、なんだったんだあそこは?」
京が入った美味菜温泉とか言う施設。料理もうまいし施設としてはなかなかのものだったが、従業員に妙な感じを受けるのが何人もいた。明らかに人間とは違う何か。
それこそがまぜもの同士の感じ合いなのだが、京はそれを知らなかった。この感覚は彼を妙にいらつかせた。
女性従業員の一人が彼に向けた視線も不快だった。中性的な感じのする従業員で、まるで彼が人間でないのを見抜いているかのようだった。
彼女の視線は彼を哀れみ、善意を押しつけているようで不愉快だった。
他にも、自分の頭をのぞかれたような感じがしたり、従業員の何人かが自分を観察しているかのようでもあった。その従業員たちが、そろってあの妙な感じを受ける連中ばかりだったのも気に障った。
最初は素直に客として金を払い出て行くつもりだったが、金を払わず出ることにした。次第に施設の空気が不快になってきたし、日曜日と言うこともあって客が込み、何をするにも待たされるようになったのも気に入らなかった。
そして京は会計の行列の横を通り、そのまま金を払わずに逃げだそうとした。途端、大きな男が立ちふさがった。まるで彼の動きがわかっていたかのように。
不快な思いはさらに続いた。今までみんな一刀で斬り殺してきた京の剣を、その男は手にした棒で受けたのだ。続く攻撃もみんな防がれた。力を込めてもその棒を切断することは出来なかった。
十数年ぶりに京は感じた。自分の思い通りにならない事への苛立ちを。
そこへあの女性従業員が現れた。私服だったから帰るところだったのかも知れない。彼女は大男に止めるよう叫び、まるで助けるように京に向けて手を伸ばした。
それが京の不快を増大させた。
京は女に向かって飛び、すれ違い様に必殺の一刀を見舞った。
今度は手応えがあった。
「そうだ。確かに手応えがあったんだ」
体を起こし、人の姿に戻る。
改めて新聞を引き寄せ社会面を見るが記事はなかった。スマホで検索してみたが、やはり見つからない。
「もう一度あそこへ行ってみようかな」
口にはしたが、実際に行くつもりは毛頭なかった。京にとって、美味菜温泉の空気は不快なものでしかなかった。
京は唯一の手荷物であるリュックに手を伸ばした。底から取り出したのは一丁の拳銃だった。以前警官を殺したとき、ついでに奪ったのである。弾も入っている。ただし、今まで実際に使ったことは一度もない。全部刀でけりがついたからだ。
「これ、先生との勝負で使ってみようかな」
一生を剣に捧げた男が拳銃であっさり撃ち殺される。
それはそれで面白いと京は思った。
「いや、こんなやり方はどうかな」
頭の中で狭間を殺す。むかつく相手をひたすら頭の中でいたぶり、殺して遊ぶ。相手はプライドもみんなかなぐり捨て、みっともない姿をさらして京にわびを入れる。妄想だから現実の縛りなど存在しない。全ては京の思い通りになる。
京にとって、十数年ぶりの楽しい遊びだった。