4日目の昼、中井家の幸せ
母と兄は居なくなった。母は仕事に行き、兄は“外の空気を吸いに行った”のだ。あの2人が居なくなった途端、呪縛が解けたように家の空気が軽くなった。隠れていた部長と“大臣”がひょっこりと出てきた。“大臣”曰く、平成は出掛けたらしい…あんな不審者の格好で大丈夫だろうか…近所から回ってきた回覧板に不審者注意の情報とかがあったけど大丈夫かと不安になった。
「姉ちゃん、兄ちゃんと母さんが居なくなったらすっかり軽くなったね、家の中の空気……。」
「あの2人は仲直りしてくれないかしらね。」
「さあ、無理じゃない?」
「そうよね。」
俺は姉ちゃんとそんな話をしていた。あの2人が仲直りなんて想像がつかない……。
「美咲ちゃん、ごめんね…。ウチの事情に巻き込んでしまって…。
あの通り、お兄ちゃんとお母さんは仲が悪いの。もうずっと前からそうなのよ。」
「それは何となく聞こえてきたんで理解しましたけど……。」
『俺も聞いていた。』
部長はさっきの話を聞いていたようだ。
元々、兄に来ていた反抗期に父の死とその後の母の非常識な行動がそれに拍車をかけて、現在も続く親子喧嘩になっている…そういう事だ。
「本当に恥ずかしい……せめて、日常会話ができるぐらいには修復してほしいわ。昔は幸せだったのにどうしてこうなったんだろう…。」
「姉ちゃん……。」
物心ついた時には既にあんな感じだったあの2人しか知らない俺とは違い、姉ちゃんは幸せだった頃を知っているから悲しいようだ。しかし、俺はその頃を知らないから慰めの言葉をかけることができない。それが何とも歯痒かった。
『ふむ……昔から果たして幸せだったのやら。』
「えっと、中条さんでしたよね?それはどういう意味ですか?」
『いいや、特に他意はない。』
絶対にあるだろう。だって、姉ちゃんは知らないけど“大臣”の中には父さんがかつて居たんだ、記憶だって共有しているんだ…記憶を持っているからこそ思うところもあるだろう。
俺は“大臣”の手を引っ張って2階に掛け上がった。
「さっきのあれはどういう意味だ!」
『家族としては確かに均衡を保てていて幸せだったんだろう、しかし…個人、個人を見れば幸せと言えるのか?』
「また、父と橘愛花の事か……?」
橘愛花、かつて学園に居た薄幸の少女で父の永遠の人の名前だ。僕達3兄弟は彼女が居なくなったからこそ生まれた、きっと彼女が居たら父や僕らの人生は大きく変わっていただろう。
『そうとも言うがそうとも言わない。』
「はぁ……?」
『アイツの話をするときに愛花という存在を欠かすなんてできないからな。前にな、お前の父親はお前の母親をボロクソに言っていた、結婚したくなかったとか…愛玩人形にしか見えないとかそれはもうボロクソにな。』
「ハハ……それはそうだろう、今のウチを見たらそう思うだろう。ましてや、橘愛花という永遠の人が居ながらその想いを遂げられずに無念の果ての結婚なら愛なんて無いんだろう。」
母の事をボロクソに言う父の姿を容易に想像できた。“大臣”は突然、不意に立ち上がって言った。
『……近づく事や情を交わす事だけが愛ではない、愛にだって様々な形があるんだよ。お前の両親は愛し合っていなかっただろう、しかし…今はともかく、生前は互いに尊重しあって寄り添っていたんだ…。』
「何が言いたい。」
『アイツはこうも言った、『愛してもいないのに結婚した事に関しては本当に申し訳ない事をしたと思っている。』とな。』
「それは……。」
『橘愛花を愛しながら他の女と結婚したんだぞ、お前の父親は。その負い目もあっただろうし、アイツは打たれ弱くて隠し事はできないタイプだからもしかしたら橘愛花という存在をお前の母親に悟られた可能性だって否定できない。』
「それは仮定の話だろう?」
『…まあ、そうだな。本人達以外知りようもないことを確かめるのは無意味だからこれ以上は何も言わないでおこう。しかし、仮定だとしても父親は過去へ未練を残して妻や子供に接している家庭が果たして幸せだったと言えるか?』
確かに、それを幸せと呼んでいいのか。“大臣”に言われた事を考えると答えが出ない。でも、そう言われたのが自分だってよかったという安堵する気持ちがあるのだ。
「そんなの本人しか分からないよ。でも…少なくとも父と橘愛花の出来事について知ったのが、幸せだったと語られるその頃を知らない俺でよかったと思う。それを知っていた姉ちゃんだったら、せっかくの思い出を汚す事になるだろう。」
『む……。』
「姉ちゃんには橘愛花の事を教えないでくれよ、幸せだった記憶はそのままにしておいてやりたい。もしも、余計な事言ったらぶっ殺す!」
『うん………。』
“大臣”は何か違うという感じで首を傾げながら頷いた。俺はその様子を見て、ジッと見ると目を逸らされた。
「何、何なんだよ、その残念な子を見るような反応は!」
『いや……なんかパンチが足りないというか物足りないなぁ…さっきの脅し文句。』
「はぁ……?」
潤んだ目をした“大臣”から予想の斜め上の答えが返ってきたので思わずそう返してしまった。
『いや、まるで石コロを見るような目をした信一郎や美咲が恐ろしい事言った時に来るようなあのゾワゾワとした感じが無いんだよ…。』
「お前、潜在的なドMなのか…?」
『いや、そんなことはないしゾワゾワってそういうヤツじゃないんだよ。なんか、武者震いみたいなヤツ。』
………じゃあ、最初からそう言えよ!変な勘違いしてしまったじゃねぇか。
気持ち悪い、なんて事を想像してしまったんだ…。そう思いながら階段を降りて、部長と姉ちゃんの所に戻った。
____________
………この状況、どうすればいいんだ?
目の前には職質されている謎の男平成の姿がある。
「あのねぇ、だからさ!あんたが、最近ここいらに現れている不審者なんだろう!」
《いいや、断じて違うが。》
「それととっとと話せ!」
《さっきから言っているが、喋れないんだよ!》
『外の空気を吸いに行ってくる』と母さんが居た家から出た俺、中井翔太が家に戻ろうとした途端に遭遇したのがこの光景だったのだ。果たして、弟の女友達の連れであるこの謎の男を救うべきなのか…そう思うよりも先に体が動いていた。
「あー、その人…俺の友達です!」
「君は?」
「中井翔太と言います、この先の家に住んでます。」
《助かった、この官憲は話が通じない。》
「友達ならそんな見るからに怪しい格好するのは止めろって注意しておいてよ。……行くぞ!」
警官がブツブツ文句を言いながら行ったのを確認してフーッとため息を吐いた。
「……その格好だと怪しまれるに決まっているだろう。」
《…訳あって、姿をさらすことができないのだ。どうか、このまま何も問わずにおいてくれ。》
「そこまで言うなら……。」
目の前の男は、見た目だけじゃなくて中身も不審者だったようだ。そんな男を助けてしまって大丈夫だろうか……心配になった。
《君、随分と親と仲が悪いようだね。》
「余計なお世話だよ……。」
《余計なお世話とはなんだ、母は大事にしろ。居なくなった時に後悔するぞ。》
「……ふん、するもんか。」
………絶対にしない、そんなこと絶対に無い。自己暗示でもかけるように頭の中で唱えた。別に、後悔なんてしないんだ、きっとそうだ…。
《……家族の情がないのか?》
「別に……。」
《それとも、つまらない反抗心からなのか。今更、悪がカッコいいなんて文化は流行らん。それにお前だってもう27…だったか、若者ぶるのも厳しい歳だ。》
「本当に余計なお世話だ!黙れ!」
《喋らないから黙っている。心配だからだ、お前の父親はいまだに成仏せずに近くにいるんだから。》
「また幽霊か…もう知らん!」
《意地なんて張らずに仲直りしてくれ。》
「うるさい!一体、お前は誰目線で話しているんだ!しつこいぞ!」
《僕が誰でもいいだろう、強いて言うなら心配する善良な一市民だ。お前が母と口を聞くまでずーっと付きまとう!》
「全然、善良な一市民じゃねぇよ!ていうか他人にそんなに立ち入られたくもないよ。」
《では、言葉を交わすと約束しろ。》
「分かった、する!するから付いてくるな!」
結局、約束しても付きまとわれた。何なんだと苛立ったが楽しそうな様子だったのでそれを邪魔しようとするのは気が引けてそのまま放置した。
「お前、やっぱりその姿をやめろよ。人にジロジロ見られて嫌だ。」
《無理だ。》
「はぁ……そうかい。」
《呆れたいなら呆れろ、笑いたいなら笑え。…翔太、変な意地を張らずにそうやってありのままの自分になれ。》
「……俺は別にお前に呼び捨てされるほど親しくなったつもりはないけど。」
《まあまあ、いいじゃないか。》
そのまま変な空気で肩を組みながら帰った。…その時、一瞬だけどこの男の姿が透けたような気がしたんだ。
「お前、今……!」
《どうしたんだ、何かあったか?》
「いや……。」
ゴシゴシと目を擦ってからもう1度見た時は普通だった。疲れてるんだな…家に着くのを確認しながら俺は今日は早く寝よう…そう思った。
_だから、横を歩いている男が実は自分の父親で突き刺すような痛みに耐え抜いて何でもないような顔をしていることにも気づかなかった。




