1,じんわりと胸が温かくなるようなその程度の…
社会人となって初めの頃は右も左も分からず、会社の激務に追われていてもそれが当然の事だとどこか納得していた。友人と過ごす時間も少しずつ減り、責任を負うというより負わされていると感じ始めた時、初めて今居る会社がブラックなのではないかと感じるようになってきた。サービス残業は日常茶飯事、家に帰れば食事と風呂だけは確実に済ませ後は落ちるように眠りにつく。たまにアルバイトよりは多少マシと思えるような給料が振り込まれるが、労働時間に見合った物ではないと気付けたのは入ってずっと後のことだった。
何のために生きているのだろう?学生の頃にも友人たちとしばしば考えていた疑問が重みを増してのしかかる。だっておかしいじゃないか、会社と家を行き来して、休日と呼べるかも怪しい貴重な睡眠時間を貪る。学生時代には充実していた日々が社会という階段を上がった途端暗闇を手探りで進む毎日へと変わった。その事自体に辛いとか悲しいとかそんな事を言いたいわけではない。ただただ出口も分からない所へと迷い込んでしまった自分が何をしているか、分からないのだ。
子供の頃の夢は言えない。もう思い出せない。眠る事が唯一の癒しであり至福の時だ。冬の朝目を覚まして、布団から出たくないと何度も思いながら結局始業に合わせて準備を始める自分は「雨が降ってるから」「布団が離してくれない」とふざけた理由で授業をサボっていたかつての自分とはおそらく別人なのだろう。ちゃんと社会人をやっていると思いたいから、きっと辞めるという選択肢も考えないようにしているのだ。フリーターになるというのは容易だが、実際には勇気がいる事なのかもしれない。周囲から普通とは一線を引かれた目で見られながらも自分の幸せを重視して生きていく事は、深みにハマるほど難しくなっていく。
その日もいつも通り十一時に帰宅し日付が替わる前に寝床についた。持ち帰りの仕事は朝早くこなす様にしているので就寝時間自体は早い。以前夜に作業をしていたら次々と副次的な作業が増え、気付けば朝を迎えていたことがあるため夜は早々に眠る様にしているのだ。まだ風呂上がりの熱気が覚めていない。冬にしては寝苦しく、かと言って羊を数えるほど純粋ではない。
気付くと目の前に覚えのある教室があった。いや、教室だけではない。この雰囲気、この学生たち、制服、自らの高校時代がそのままそこにあった、私は黒板側の扉を開けて教室に入ったところだ。まだ教室内には半分程度の生徒しか座っておらず、全員がしんと黙り込んでいる。
「おはよう」と言いかけ私はまだ入学式を行う前の朝である事に気付く。今はまだ全員が他人で、一言でも発しようものならば目で刺し殺される雰囲気があった。優等生だったあの子も、友好的で人気のあったあいつも、私と一番仲良くしていた親友も、きっと誰もがお互いがどうなるのか、どうなっていくのか想像も出来ていない。初々しい雰囲気は苦手だ。毎年新入社員が入ってくる度に、その輝いて見える瞳が少しずつ曇りを伴っていく姿を見届けなくてはならない。この場に居る数人の末路を知っている自分は、ほんの少し憂鬱な気持ちを抱えてしまう。夢から現実に引き戻される気分だ。けれど悪いことばかりではない。この雰囲気にはどこか希望に満ちた物を感じる。それだけで僅かながら救われた気持ちになった。
この後は教師に連れられて入学式を終えるまで殆ど生徒同士の会話がなく、教室で自己紹介をすることになった。この時点で妙にリアルな夢だと感じていた。校長の無駄に長い話や歌えるはずのない校歌斉唱を飛ばす事なく味わい、まるで体内時計と夢の中の時計がピッタリと噛み合っているようだった。私は夢だと気付きながらも自己紹介を怠らなかった。
「えー、第三南中出身の伊達 健吾と申します。趣味は週に一度の釣りと映画鑑賞です。えー、出会って間もないですが、皆さんには既に親しみを感じています。どうぞ一年間と言わず三年間仲良くしてください。よろしくお願いします!」
深々としたお辞儀で締め括りながら、「どうだ、これが社会人だ」とかつての友人たちにマウントを取る。反省点を挙げるなら映画はともかく釣りはややじじくさいだろうか。取引先に話を合わせるために知識ばかりの釣りとゴルフは私の趣味として確立しているので自然と口に出してしまった。しかし結果的に注目を集める事は出来たので結果オーライという事にしておこう。
ホームルームが終わると、その流れのまま皆とLINEを交換する流れになった。その時、私は前と変わらない流れに安心した様な、この先また一から関係を築く事への面倒臭さを感じた様な…。
(まあ夢なんだけどな)
思い出に浸っていた様な寂しさとじんわりと胸が温かくなる感覚と共に、私は今日も家を出る。




