はるがすみ たなびくやまの さくらばな
バッサリと髪を切った。
髪を触られるのが苦手で、できるなら美容室にも行きたくないのだけど髪を切った。一年半振りに耳がでるくらい短く――。
もうすぐ桜が咲きますね。
……お花見をしませんか、こんど一緒に。
苺のパフェを食べた春が近しい夜、私から初めてお誘いをした。
ほんのひと声かけるだけなのに、どうしてこんなに勇気がいるのだろう。妙にドキドキとしてしまい、じっと冷えかけたコーヒーに視線を落とした。
今年の春は、暖かな日が続いて、一斉に咲き揃った桜は散り急いだ。
「しづこころなくはなのちるらむ」つい、有名な和歌を口にしてしまうくらい、あっという間に春は過ぎていった。
さあと風に揺られ、はらはら舞う桜の下にたたずみ、私は陸さんを待った。ふたりには多すぎるくらいの肴を入れた手提げをぷらりと下げて。
文子さんもどうかと誘ってみたのだけど、気が向いたらネと言ったきりで、あまり期待はしていない。「気が向いたら」の来てくれる確率ってたぶん二割くらいのものだろう。
ほどなくして、白い折りたたみ卓椅子を片手に、やあと手を振って陸さんが来た。
昼時でもなく夕方でもない、曖昧な時間。
桜舞う公園の広場はほんとうにのどかで、帰り支度にシートを畳むひと、寝転がり桜を見上げる若い男女、元気よく走り回る子供たち。うららかな春のひと時を、それぞれが思いおもいに過ごしている。
ひとしきり、その辺を見て歩いて、陸さんは端にぽつりとあった桜の袂に卓椅子を組み始めた。端の方がたくさんの桜を見渡せますからと言って。
そして、うす茶色の食器敷き。色とりどりのコップと皿、そして切り硝子のロウソク立てを並べ、小型スピーカーで静かにジャズを流し、白いちいさな花瓶には河原の土手から摘んできた菜の花を飾った。
一風変わったこだわりようは相変わらずで、私たちはずいぶん目立っていたと思う。周りの花見模様とはずいぶん違っていて、少し恥ずかしかった。
「まっ昼間からお酒というのは贅沢ですね。後で運ぶのを手伝ってください。ボクはか弱いのですから」陸さんはあっけらかんと準備を続ける。ひとの視線など気にしないのだ。
「よし、オジサマにお任せを」私はパーカーを袖まくりした。
岡山の酒蔵から取寄せしたという、菩提もと仕込みの酒で乾杯をした。女性杜氏と八人の蔵人が手掛けた意気あるお酒だと、陸さんは満足気に語った。
私はめっぽうお酒に強く、いつまでも呑んでいられると豪語していて「そのうち一升瓶を抱いて眠るのでしょう、目に浮かぶようです」とからかわれる。
最近観ていたテレビドラマが最終回を迎えて残念なこと、上手にピザを切る方法とか、たまごかけごはんに少しだけゆず胡椒を入れると美味しい。そうした、なんでもない取り留めのないことを、いくらでも話した。
話は尽きず、桜に吊るされたぼんぼりに明りが点った。空の色も橙色から藍色に染まっていって、それは幻想的な美しさで、お酒の手をとめてしばし魅入った。
「はるがすみ たなびくやまの さくらばな」
唐突に口にしたので、上手く聞きとれずにいた。
「はるがすみ?」
「いえね、あなたと出会って、一年と少しになりますか。とても楽しかったです。言い表せないくらいに」
「今にも消えてしまいそうな口ぶりですよ、それ」
「消えてしまいやしませんが……しばらくこの町を離れることになります」
「え、」としか言葉にできなかった。
陸さんは昔世話になった友人に仕事を頼まれて、学生の頃に過ごした、海が見える町に行くらしい。今生の別れでもあるまいし、少しの間です。また会えます。と言うけれど、いまみたいにこうしてお話しをしたり会えなくなるのは、とても寂しいと思った。
もっと早く言ってくれればいいのにとか、何なのよとか、ぐるぐると思いあぐねているうちに、どうしようもなく悲しくなってしまい、私はただ、お酒を口にするしかなかった。
「ひと気がなくなってきましたし、そろそろお暇しますよ」お構いなしにさっさと片付けを始めても、私は空っぽになったら酒を注ぎ、コップを手放そうとしなかった。
「さ、後はあなたが座っている椅子を畳むだけです」
「私はまだいます。まだここで陸さんとお酒を飲みます」
「いくらお酒に強いといっても、ほどほどになさいね」
「子ども扱いしないでください」前にもどこかでこんなやりとりがあったっけ。陸さんはいつだって私を子どものようにあしらう。
意固地な私にあきれ、陸さんは隣へ腰掛け言った「そんなことはないです。みゆさんと一緒に居て、ドキドキしていました。いつも」
遠慮がちに頰へ添えられた、温かい手。
私は目をつむり、口づけを待った。
……一瞬、くちびるの端に柔らかな感触がして、そっと離れた。
私は陸さんに抱きつき、泣いた。
「大丈夫。また会えます」陸さんはつぶやいた。
ほら、まあるい月がでてきました。月夜に桜、見事なものです。
私のちいさな背をぽんと撫で「また会えますとも」もう一度、つぶやいた。
「うつろはむとや いろかはりゆく」
――あくる日の午後、陸さんは旅立った。
いつもの黄色い車、その屋根にトランクを乗っけて行ったと、文子さんから聞いた。
それきり音信が途切れた。
陸さんが居なくなってからというもの退屈が募り、せっかくの休日でも何のやる気が起きない。日がな一日、薄手の毛布にくるまり寝転がって過ごした。
鬱々と過ごす私を心配したのかどうか、文子さんが時々お酒に誘ってくれるようになった。
また会えますとかなんとか言っていたくせに、それきりじゃないですか。酔いに任せて愚痴をこぼせば、まだひと月も経っていないンだから、と文子さんは冷静に言う。
でも、だって、そのうちっていつですか、しばらくっていつですか、さらに愚図って文子さんを困らせた。
黄色い車を見かけたら「あ」と思うし、コンビニへの裏道を歩いても陸さんとの会話を思い出す。重症だった。
古い芝居小屋の桟敷に、これまた昔風な将校さんのような詰襟を着て、陸さんが正座をしている。
それ、どうしたのですかと問えば、あなたこそ、と言う。いつの間にか私も海老茶式部の恰好をしていて、まあ、そんなこともあるかと、自然なことのように思えてきた。
すっと、となりに身を寄せれば、陸さんはめずらしく私の腰に手を添えて、少しくすぐたかったけれど、じっとこらえた。
ちょんちょんと拍子木が打たれて「ほら、前にも観たことがあるでしょう」陸さんが言った。確かにそうだったかもしれない。陸さんはずうっとお芝居を見てばかりいるから、いたずら心に頬と頬をぴたりと寄せた。
「およしなさい、汗をかいているから」言い終えぬくちびるをくちびるで塞ぎ、それから、何度もついばむように、口づけをした。
いけないことをする私たちに誰ひとりと気に留める様子はなく、私は詰襟の首に腕を絡ませ、押し倒されるように仕向けて……はたと夢から覚めた。
これはまた、なんて大胆なと恥ずかしく転げて、もう一度眠りについた。
「じゃん、良いモノをあげよう」
ふた月が過ぎようとした頃、文子さんが一枚のハガキをくれた。
元気です。心配なさらず。
冬が来るまえに一度帰ります。では、また。
濃青色のインクで書かれた、陸さんらしい四角い文字。
「海ではしゃいで、電話を壊したンだって。まったくドジというかなんというか。それに、アタシは郵便配達じゃあないっての、ね」困ったヤツだと言いながらも嬉しそうだ。私も笑顔になっていたに違いない。
「行ってみる?もちろんアタシは着いて行かないけれど」
「うん。冬まで待てそうにないから」
「そう言うと思った。それにしても、あんなの放っときゃいいのに」
「あんなのって……あんなのだけど、なんとなく」
「よろしく伝えて。それと、キスくらいしてもらいなよ」文子さんはいたずらっぽく言った。
顔を赤らめ言い返した「ほんの少し、様子を見に行くだけです」
その髪型、似合っているよ。前髪を整えてくれて、文子さんは優しかった。
――高台のバス亭で「とまります」のボタンを押した。
坂と海の町には赤いバスが良く似合う。
まっすぐに伸びた長い階段の先に、海が見える。
七本になった手持ち花火、忘れず鞄にいれてきた。日が暮れたら海辺で花火をしよう。そして、言おう。陸さんに。
「みれどもあかぬ きみにもあるかな」と。