29、ダイバーシティ
年も押し迫った頃、また典子お姉ちゃんが帰ってきた。
しばらく滞在するのかと思ったら、中国での歴史研究の仕事を辞めてきたのだというのだ。
大先生も一緒だった。大先生は来年の春から京都学院大学の教授になるそうなのだ。京都で家を探すまでの間、鶴の間に宿泊している。
お姉ちゃんたちの帰国の様子がテレビのニュースで報道されてた。
一か月ほど前、チベットで暴動があった。人民解放軍が出動して血が流れた。ニュースは、お姉ちゃんと大先生はこの事態に抗議して中国政府に辞表を叩きつけたのだと言ってた。
「そうなのか?」
と、お姉ちゃんに訊いてみたら、
「そういうわけでも無いなり。」
と、素っ気ない答えが返ってきた。
難しいことは、あたしには分からない。
家の中が急に賑やかになった。
お兄ちゃんとお姉ちゃんは毎晩のように酒盛りしてるので、あたしもご相伴にあずかった。
特にお姉ちゃんが中国で買ってきた白酒というお酒は強烈だった。アルコール度数が六十パーセントなのだ。飲みすぎると死ぬのだよ。
お姉ちゃんは午前中はゴロゴロしていて、昼からは大先生と一緒に外出してるそうだ。京都に不慣れな大先生に付き添って、家探しやら観光案内をしてるみたいだ。
そんなお姉ちゃんが、西陣の事務所にふらりと現れたのは、紅葉も褪せた十二月の半ばのことだった。
「いつも京子がお世話になってるなり。」
お姉ちゃんは何時ものように、にまにま笑いながら阿部部長に挨拶した。
それから町屋の木の柱をペタペタ触りながら、
「いい事務所なり。」
って、言った。
「京子、お土産持ってきたなりよ。」
お姉ちゃんのお土産は志津屋のカルネだった。
大きな袋の中にハンバーガーくらいのパンが十数個入っていた。
志津屋はパン屋さん、カルネは志津屋の定番商品なのだ。丸いドイツ風のパンの間に薄いハムとスライスした玉ねぎとマーガリンが挟まっている。京都人のソウル・フードなのだよ。
「これが食べたかったなりよ!」
真っ先にお土産にかぶりついたのはお姉ちゃんだった。
石崎君が封筒の山を抱えて二階に上がってきた。
「求人の応募、こんなに来たっス。」
凄い数なのだ。二十通以上ある。
あたしたちはカルネを齧りながら、封筒を開けた。
凄いのだ。
他の飲食店の店長や副店長クラスの履歴書が多いのだ。
アゴラは賃金が他の飲食店よりも二割くらい高い。人事制度改革でそうなった。
求人票に載っている賃金を見て他社のトップクラスが食いついてきたのだ。
「これならドリーム・チームになるな。」
阿部部長が言った。
優秀な人材はお給料の高いところに集まるのだ。
あたしは和田店長を呼んで、履歴書の束を見せた。
履歴種を一通一通ていねいに眺める和田店長に、お姉ちゃんはカルネを手渡した。
「店長クラスの人材は、みんなお山の大将です。仕事ができるのは確かですが、こういう我が強い人ばっかりだと統率がとれないもんですよ。」
和田店長の言葉に、あたしは浮かれていた自分が恥ずかしく思えた。
「いいところに気づいたなりね。」
お姉ちゃんは、二個目のカルネを齧りながら言った。
「ベスト・アンド・ブライテストを知ってるなりか?」
「ジョン・F・ケネディは優秀な人材ばかりを政府の主要な要職につけたというやつだな。そのメンバーはベスト・アンド・ブライトネスと呼ばれた。最高に賢い人々という意味だ。」
阿部部長がお姉ちゃんの問いに答えた。
「ケネディは賢い人間ばかりが集めたのに、ベトナム戦争を引き起こしてしまったなり。キューバ危機やベルリン危機もケネディの時なりよ。もうちょっとで世界が滅びるところだったなり。」
また難しい話だ。
「典子さんは、賢い人間だけではダメだとお考えですか?」
「そうなり。組織と言うのはいろんな人間がいたほうが機能しやすいなり。武田十二神将だっていろんな武将がいたから武田信玄は戦国最強だったなり。織田信長もそうなのだ。柴田勝家は織田家の古参、明智光秀は戦国エリート、秀吉なんかは百姓上がりなりよ。天下を取ったのは、下から這い上ってきた秀吉なり!」
お姉ちゃんの戦国武将談義が始まってしまったのだ。長いのだ。止まらなくなるのだ。
みんながポカンとした表情でお姉ちゃんの話を聞いている。
外で自転車の止まる音がした。黒澤さんが来たみたいだ。
黒澤さんが二階に上がってきたとき、お姉ちゃんは絶好調でしゃべりまくっていた。
阿部部長が黒澤さんに話の経緯を説明している。
黒澤さんは履歴書を眺めながら、部長に向かってうなずいている。
能力主義者の黒澤さんに対して、お姉ちゃんの説は少し違ってる。
優秀な人間だけでは組織は弱くなるといっているのだ。
お姉ちゃんは関ヶ原の戦いを、講談さながらの節回しで語って、石田三成君のような頭の良い武将がどうし負けたのかという話で、ひとり盛り上がってる。
黒澤さんが手のひらを掲げて、お姉ちゃんの話を遮った。
止めたーっ!
誰にも止められないお姉ちゃんの戦国武将談義を止めたのだ。
凄いのだ!
さすがアゴラの守護神、黒澤さんなのだ。
「つまりは、ダイバーシティと言うことだな。」
黒澤さんは言った。
だいばーしてぃ???
「そうなり。ダイバーシティ、多様性なり」
賢くて優秀な人間だけじゃなくて、いろんな人がいたほうが組織として強いものになるということなのか。
「なるほど。」
和田店長が顎に手を置きながらつぶやいた。
「そうなりよ。ひとりくらいアホの人間がいてもいいのだ。賢い人たちはアホの子に物を教えることで成長するなり。アホに物を教えるのは大変なり。けれどアホに教えられることも多いなり。」
そうだよ。お姉ちゃん、その通りだよ。
「京都は国際観光都市なり。日本人も中国人も韓国人もスタッフに必要なり。障がい者だって雇うなりよ。日本は高齢者社会なり。高齢者や障がい者が快適なお店を作るには、彼らの意見がきっと役に立つなりよ。」
阿部部長が含み笑いをしている。お姉ちゃんの話を興味深く聞いてるみたいだ。
「ダイバーシティか・・・」
黒澤さんがニヤついている。
黒澤さんは能力主義で凝り固まってたわけじゃない。今の時点で、最も合理的な能力主義を採用してなお考え続けてたのだ。
「よし、ダイバーシティで行こう。どうだね、戸部社長。」
あたしは大きくうなずいたのだ。
複雑な話なのだ。
あたしは、自分が理解できているかさえ分からなかった。
みんな勉強して、いっぱい知識を持ってて、考えて、考え抜いているんだって思ったら、あたしは取り残されている気がした。置いて行かれるような気がした。
寂しかったのだ。
寂しさの中から、不思議な思いが沸き上がってきた。
気が付いたら、あたしは泣いていた。ポロポロと涙をこぼしていた。
「京子、どうしたないか?」
「戸部社長、大丈夫か?」
みんなが、あたしの顔を覗き込んだ。
あたしは、ぽつりと言った。
その言葉が、どこから出てくるのか自分でも分からなかった。
「勉強がしたいのだ。大学へ行きたいのだ。」
涙はいつまでも止まらなかった。




