8 惨状
「凪野、次お前だぞ」
教室の外に置かれた椅子に腰かけてぼうっとしていた私は、教室から出て来たクラスメイトに話しかけられてはっと我に返った。
今の私は剣道着だ。二者面談の為に自主練習の部活を一時抜け出してここで待っていた。椅子から立ち上がって教室の扉を開けると、中央の席で私を待つようにこちらを見ていた白山先生と目が合って動揺してしまう。
「今日は凪野で最後だな」
「……よろしくお願いします」
ただの二者面談。学校生活や進路について話し合うそんな何てことない時間だというのに、私は緊張しながら先生と机を挟んで対面した。
「この前のテストの結果からなんだが――」
先生の声を聞きながら私はぼうっと彼を眺める。穏やかに話す先生はやっぱりかっこよくて、じっと見てしまう。
「凪野? 聞いてるのか?」
「……え、あ、すみません」
「やけにぼーっとしてるな。夜更かしでもしたのか?」
「よく、分かりましたね」
実際、今の私は寝不足で頭が回っていなかった。昨日の夜、寝ようとした所で急にライが私の部屋へずかずかと入って来てゲームを始めたのだ。いくらあいつの部屋にテレビがないからって……というかそもそもそのゲームは私のだ。
「地球の文化の調査だ」と当然のようにのたまったライを見て、あいつ技術レベルが低いとかなんとか文句ばっかり言う癖に案外この生活気に入ってないか、と首を傾げてしまった。
結局説明やらで一緒にゲームをしてしまって、いつもよりも随分夜更かししてしまったのだ。
「あんまり夜更かししてると私みたいに目が悪くなるぞ?」
「先生も夜更かししてたんですか?」
「学生時代は、まあ……」
これじゃあ説得力がなくなるな、と苦笑した先生が話を戻すように私の成績表に目を落とす。
「それでテスト結果だが、現代文や英語はよく出来ているな。逆に数学や理系は苦手みたいだが、二年は文系選択をするつもりなのか?」
「……いえ、まだ迷ってます」
私は言ってみれば典型的な文系だ。数字を見るのも苦手だし公式は訳が分からない。でも文系に進むと数学を担当する先生の授業は受けられなくなるし、担任するクラスにも割り振られなくなる。そんな不純な考えで未だに迷っているのだ。
「まあ凪野はよく質問にも来るし、苦手な数学も頑張ってるもんな」
「そうですか?」
「ああ、凪野はいつも一生懸命だな」
にこりと微笑まれて思わず下を向く。それは先生の前だから必死になっているだけのことだ。それなのになんだか良いように思われて座りが悪い。
「ところで進路は決めているのか?」
「一応、進学希望ですけど、細かくはまだ……」
「急いで決める必要はないよ。ただ将来の夢があるなら先に聞いておこうと思っただけだ」
夢、か。違う意味で一瞬例の彼が頭を過ぎった。
「先生は、どうして教師になろうと思ったんですか?」
何となくそう思って尋ねてみる。先生が先生じゃなかったら、こうして出会うこともなかったのだ。
「私、か」
私の声に、先生は遠くを見るようにふっと目を細めた。何を考えているのか、先生は優しげな……しかし少しだけ寂しそうな表情を見せて私を見る。
「先生?」
「私は昔、たくさんの人にお世話になってね、その人達には本当に様々なことを教わったんだ。だからかな……今度は私が誰かを助けて、色々なことを教えて上げられたらって思ったんだ」
「……すごいですね」
「そんなことはないよ。昔の私は、本当にいつも助けられっぱなしだったから」
恥じるように頬を掻いた先生は、不意に言葉を止めると時計を見上げて「あ」と声を上げた。
「そろそろ時間だな。何か話したいことがなければ終わるが大丈夫か?」
「はい」
「じゃあ部活の方に戻らないとな」
「あ、あの先生!」
「どうした?」
「一緒に行ってもいいですか!」
立ち上がった先生に慌ててそう尋ねると、先生は不思議そうに首を傾げて可笑しそうに笑った。
「同じ場所に行くんだからそれはそうじゃないのか?」
「そ、そうですけど……」
「変なやつだな」
ぽん、と頭に手が置かれた。私は先生を見上げることも出来ず、ただ下を向いて熱くなった顔を見られないようにするしかない。
一緒に廊下へ出て、階段を降りて昇降口へと向かう。一階の廊下を歩きながら窓の外を見ていると、運動部が暑そうに走っているのが見えた。
「あ」
部活を行う生徒に紛れて見慣れた男が窓の外を横切った。声を上げた私を見た先生が同じように視線を向けると「ああ、凪野か」と今しがた見えたあいつの名前を呼ぶ。
あいつ……ライは制服姿のまま数人の男子生徒と一緒だった。表情は猫を被っているように見えるが、それでも随分学校生活に馴染んでいるように見えた。
「……凪野」
「何ですか?」
「少し聞きたいことがあるんだ……お兄さんのことで」
私と同じようにライを見ていた先生が、急に改まった様子で私に向き直る。
「……彼に似ている人を知らないかな」
「え」
「例えば親戚の人とか……前に彼に尋ねた時はお爺さんに似ていると言っていたが」
言葉に詰まった私を、先生は酷く真剣な表情で見つめている。私は「え」だの「あの」だの短く声を上げるものの、一体どう返せばいいのか分からずに混乱してしまった。
ライが誰に似てるって、そんなの親類の誰にも似ているはずはない。前にライに聞いたと言ったが、それもきっとあいつが適当に誤魔化したのだろう。
だけど、どうして先生はそんなことを知りたがっているんだろうか。
「……あいつは、そんなに他の人には似てませんけど、どうしてそんなこと聞くんですか?」
「それは……」
今度は先生が口を閉じた。先生は何かライのことを怪しんでいるのかもしれない。ライだって暗示は絶対じゃないと言っていたし、私みたいにそれが効いていなかったとしたら……?
「……前に、凪野君にそっくりな人を見たことがあったんだ。だから何か関係があるんじゃないかと思っただけだよ」
「ライと、そっくりな?」
ライと似ている人間。だとしたらそれは、むしろ私の親類ではなくライの本当の家族だったりしないだろうか。ライがここに来ている、そして地球が既に向こうの世界に知られている以上、ライの家族が日本に来たことがあるという可能性はゼロとは言い切れない。
「あれ……」
そこまで考えてふと気づく。よくよく考えてみれば、私もライにそっくりな人物を見たことがあるじゃないか。
勿論実際に見たことがあるわけじゃない。でも何度も何度も、繰り返し夢の中でその人を見て来た。
「先生! その人のこと教えてもらえませんか!?」
「え?」
「お願いします!」
もしかしたら、先生の知る人と私の初恋の人は同一人物かもしれない。あれは私が頭の中で作り出した空想じゃなかったかもしれないのだ。
期待を込めて先生を見上げると、先生は何故か酷く困ったような顔をして返答に困っていた。
「先生?」
「いや……彼のことはそんなに知らないから」
「ちょっとでもいいですから!」
「そう言われても――っ凪野!」
困惑していた先生の表情が不意に一変した。
「――え」
突然先生に思い切り体を突き飛ばされた。容赦のない強さで押された体は廊下を転がり、肩や背中を打って全身に痛みが広がる。
しかし次の瞬間聞こえて来た音に、私はその体の痛みを完全に忘れてしまった。
ガシャン、と耳をつんざくような大きな音が響き渡る。廊下の窓が割れ、そして私を突き飛ばした先生に向かって沢山の破片が降り注ぐ。
「せんせい」
ガラスの刃が真っ赤に染まる瞬間を、この目で捉えてしまった。
倒れる先生。光を反射して赤く光るガラス片。外から聞こえる喧騒。転がった野球ボール。廊下を染め上げていく、赤。
赤、赤、赤。視界を塗りつぶすその色に、私は何も考えられなくなった。
「い、いやあああああああっ!!」
怖い、怖い怖い怖い怖い!
赤が、またあの赤が、嫌だ、誰か――
誰かあの人を――
「一葉!!」
パン、と思考をぶち切りような音が聞こえたかと思うと顔に弾けるような衝撃が襲いかかった。
「正気に戻れ!」
「……ら……い」
視界が滲む。その中に見つけたライを、私は呆然として見つめた。
「私……」
「少しは落ち着いたみたいだな。全く面倒を掛ける」
「どうして……っ先生! 先生が!」
「分かってる」
ライの服を掴んで叫ぶと彼はそれを乱暴に振り払って立ち上がった。そして私に背を向けたライはそのまま足を進め……血塗れで倒れた先生の元へと向かったのだ。
「あっ……」
再びざあ、と血が引いて何も考えられなくなる。
「目閉じてろ! すぐに終わらせる」
「っ」
強い声が鼓膜を叩き、反射的に言われるがままに強く目を閉じた。がたがたと体が震える。怖くて堪らない。ただただ体を強く抱きしめて時間が過ぎるのを待っていることしか出来なかった。
「一葉もういい、目を開けろ」
「……うん」
ライの声がすぐ傍から聞こえて来て、私は恐る恐る目を開けようとする。しかしすぐに頭を鷲掴みされたかと思うと、ぐり、と首を強く捻られた。
「いたっ」
「そっちは見るな、分かるだろ」
確かに私が見ていた方向は窓が割られた方向だ。またあの惨状を見れば自分がどんな状況になるかなど分かり切っている。
今度こそ目を開けると、視界に映ったのは憮然とした表情のライと傍に横たわっている先生だった。
「先生!」
「止血とある程度の傷は塞いだ。すぐに意識も戻るだろ」
よろけながら立ち上がって先生の元へと向かう。苦しそうに顔を歪めて目を閉じている先生は、だけどライの言う通りそこまで大きな怪我は無くなっているように見えた。
「先生……」
「……う」
手を伸ばそうとした直前、先生が小さく呻いた。そして固く閉じられていた目が薄く開かれた。
「……い、ち……は」
「先生!」
微かに声を上げた先生は虚ろな目をしていたが、私が大声で呼ぶとはっと我に返るように大きく目を見開いた。
「一体何が……そうだ、私は」
頭を押さえて上半身を起こした先生は、状況を理解しようとするようにしきりに周囲を見回した。
「先生……ごめんなさい、ごめんなさい!」
「凪野?」
「私の所為で……」
降り注いだガラスはどれだけ恐ろしかっただろうか、どれだけ痛かっただろうか。私が受けるものだったというのに、それなのに先生がこんな目に遭って。
先生がどんな顔をしているか見るのが怖くて、私は震えながら俯いて謝罪の言葉を繰り返した。
「本当に、ごめんなさい」
「凪野」
慈しむような優しい声が聞こえたかと思うと、震えていた手が不意に温かいものに包まれた。
「怪我はないな?」
「……はい」
「それならいいんだ。凪野が無事なら、それで十分だよ」
伏せていた目から涙が零れた。それはどれだけ拭おうが止まらなくて、私はしゃくり上げながらずっと泣き続けることしか出来なかった。
「せん、せい」
潤んだ視界の中で見た先生は、酷く酷く、優しい顔をしていた。