6 不可解
「……不可解だ」
何となく二人から離れた俺は、ふらふらと園内を歩きながら周囲の状況を確認した。休日ともあってか家族連れの姿が多い。誰も彼もが呑気に緩んだ表情を見せているのを一瞥して、なんて警戒心の薄い世界なんだと溜息を吐いた。
任務自体は成功した。必要な情報は手に入れたし後は首尾よく自分の世界に帰ることが出来ればそれでよかったのだ。しかし最後の最後で俺と同じように潜伏していたこれまた別世界の人間がうかつな行動をして俺の正体がばれた。元の世界への逃げ道を塞がれ、結局巡り巡ってこの平和で呑気な世界にしばし身を潜めることを決めたのだ。
しかし想定外が起こった。よりにもよって潜伏すると決めた家の子供に暗示が効かなかったなど冗談ではない。不可解だ、本当に。
通りかかった道の脇に置かれたベンチに腰掛ける。そうして少し疲れて目を閉じると、あの小憎たらしい女の顔が浮かんで来て思わず目を開けた。
凪野一葉。この世界では何の変哲もない平凡な小娘だ。だというのに一葉には全く暗示が通用しない。最初以降、あいつの気付かない間に何度も掛け直しているというのに一向に暗示に掛かる様子もないのだ。
あらかじめ暗示を防ぐ加護を使った追手かとも疑ったが、どこから見てもただの子供でしかない。これでもスパイだけあって目は肥えている。こいつが追手だったら俺はもう現役工作員から引退するしかないだろう。
もうこの際一葉のことはひとまず置いておく。あいつは何か特殊な体質だということにして考えるのを止めた。すぐに食って掛かる癖に、なんだかんだ積極的に追い出そうとか告げ口しようとかいう考えが頭にないのだから。……こちらとしては助かっているが、そういう所が呑気過ぎるのだ。
「ねーねー、次はあれ乗りたいー」
「はいはい、分かってるって」
ふと目の前をチャラついた男女が横切る。甘えた声を出す女に聞いているだけでも少々いらついたが、しかし隣の男は嬉しそうにへらへらと締まりのない顔で笑っている。
少し違うが先ほどの緩んだ表情を浮かべる一葉の顔が過ぎった。そうしてやつが見上げるのは当然俺ではなくあの教師の男だ。
「……」
不可解なのは一葉だけではない。いや、あいつほど不審な訳ではないが白山という教師は少々引っ掛かる所があるのだ。
あの日、一葉のクラスへ行った時のことだ。あいつの担任であるらしいあの教師は、俺を見るやいなや何故か酷く驚いた顔をした。一葉を連れて教室を出るまで感じたあの視線の意味は一体なんだったのか。
「あ、いた!」
そこまで思考を巡らせたところで聞き慣れた声に我に返った。
「あんた何勝手にはぐれてんのよ! やっと見つけた……」
どうやら俺を探していたらしい一葉が、ぜえぜえと息を切らしながら走って来た。なんでそんなに必死になっているのか分からずに思わず首を傾げる。
「どうした? せっかく二人にしてやったんだから放っておけばいいものを」
「あんた一人野放しにしたら何仕出かすか分からないじゃん! この非常識男!」
「俺のどこが非常識だって言うんだ」
「すぐ人のこと殺そうとする男のどこが常識的なの!」
あー、煩い。
そう思って耳を塞ぐと余計に怒り出した。よくもまあこんなにも感情を露わにできるもんだ。こいつは本当に感情を隠すということを知らない。
「……とにかく戻るよ、ほら」
疲れたようにそう言うと、一葉は俺の腕を掴んで立ち上がらせて歩き出す。特に振りほどこうとも思わなかったのでそのまま着いて行くと、しばし歩いた先に白山がベンチに腰掛けて待っていた。両手には一つずつ何かの飲み物を手にしており、ベンチにもさらにもう一つ置かれている。
「先生、お待たせしました」
「ああ、見つかってよかった。ほら、飲み物買っておいたから」
白山はこちらを見るとほっとしたように微笑んで両手の大き目の紙コップを差し出して来た。わざわざ心象を悪くする必要もないので「ありがとうございます」とお礼を口にしながら受け取る。ストローの通された半透明の蓋を開けると、何やら甘い匂いのする黒い液体が入っていた。
「あ、アイスティーだ! 私好きなんです。先生ありがとうございます!」
「いや、なんとなく選んだから好きな物でよかったよ。凪野……お兄さんの方な。そっちはコーラだけど大丈夫だったか?」
「はい」
飲んだことはないがとりあえず頷いておく。嬉しそうにアイスティーを飲む一葉を横目にストローをくわえると、次の瞬間口の中を刺激する感覚に驚いてコーラを取り落としそうになった。
「っうわ」
「どうしたの?」
「……少し驚いただけだ」
「ああ、炭酸」
一葉が納得したように頷いているが先に言え。どうやら普通の飲み物ではないらしい。しゅわしゅわと口の中で騒がしく喉を通ると独特の刺激がするこの飲み物は、しかし何口か飲んでみると中々甘くて美味しかった。癖になる。この世界はよく分からんものが多いな。
「せっかくだしこのままお昼にしようか」
「そうですね。あっちに出店が固まってたんで行きましょう」
白山の提案に一葉が嬉しそうに頷いて歩き出す。そうして先ほどのように前に二人、後ろに俺一人という並びになったのだが、さっきと違うのは一葉がしきりにこちらを振り返って俺がいることを確認している所だ。
「転ぶぞ」
「じゃあはぐれないでよね」
強い口調でそう言った一葉に、俺は肩を竦めて返事とした。
円状にいくつかの軽食を売る店が並び、中央にテーブルと椅子が置かれた広場。そこへたどり着くと、とりあえず一つテーブルを確保して各々好きなものを買うことになった。場所取りで最初に一葉一人がテーブルに残るというので、俺は店の前に言って興味の惹かれたものをさっさと購入して戻った。
「あ、早かったね……って」
暇そうにのんびりしていた一葉が俺の買ってきたもの――たこ焼きとみたらし団子をじろじろと眺めると、一葉は何故か何とも得ない表情を浮かべていた。
「何だ?」
「……なんでそんな組み合わせ?」
「どんな味か気になった」
「そう……」
とりあえず自分の分を買ってくると一葉が立ち上がる。その後ろ姿を見送ると、入れ違いになるように白山が戻って来た。手に抱えているのはメニューにあったホットドックというものだろう。
白山はたこ焼きとみたらし団子を一瞥すると、僅かに首を傾げた後席に着いた。
「早かったな」
「ええ、そんなに混んでいなかったので」
短く会話をしてたこ焼きを口に入れる。たこ焼きというだけあって中にたこが入っているらしい。ふわふわして中々美味しいものの、しかし少々疑問が浮かぶ。
メニューの写真を見ると、たこ焼きの隣に映っていたいか焼きはいかをそのまま焼いているのに、何故かたこ焼きはこういった丸い形状なのである。一体何故なのか。
「……凪野君、ちょっといいかい」
「なんですか」
いかとたこの謎について考えていると目の前に座る白山が少し言いにくそうに口を開いた。すぐに目の前の男に意識を戻すと、白山は僅かな沈黙を挟んで俺をじっと見ながら真面目な表情で言った。
「君は……ご両親のどちらに似ているのかな」
「……っ」
その言葉に、気付かれない程のほんの少しだけ動揺した。言うまでもない。俺は凪野家と一切の血縁関係はないのだから、どちらにも似ているはずがないのだ。
やはりこの教師、何か勘付いているのか……?
「両親にはあまり似てないですね。死んだ祖父に似ているとは聞いたことがありますが」
「そう、なのか。それじゃあ他の親戚は――」
「ところで先生、俺も聞きたいことがあるんです」
適当な返事をして躱すが、更に突っ込まれそうになって咄嗟にそれを遮った。
「一葉……うちの妹のこと、どう思っていますか?」
そう切り返すと白山の口を半開きにしたまま止まった。ぽかん、と間が抜けた表情を浮かべる彼に、俺は話を逸らすことに成功したのが分かった。
「凪野のことか……」
「あいつは随分白山先生のことを慕っているようですから」
「……頑張っていると思うぞ。部活も殆ど休まないし、授業も分からない所があるとよく聞きに来るし、真面目で一生懸命なやつだな」
そういうことを聞いているんじゃないと白山も分かっていてあえて言っているのだろう。今日朝から二人の様子を観察してきたが、一葉ほどあからさまではないにせよ、白山も一葉をただの生徒の一人にしか思っていないとは少々考えづらい。
もしかすると最初に俺を見て驚いていたのは、それこそ一葉のクラスメイトが言っていたように恋人と勘違いしたのだろうか。勘弁してくれ。
「お待たせしましたー」
微妙な空気で二人とも黙り込んだタイミングで一葉が戻って来る。この空気が全く分かっていないらしい一葉は椅子に腰かけるとすぐさま「いただきます!」と持ってきたサンドイッチに被り付いた。
「あれ、先生食べないんですか?」
「あ、ああ……食べる」
まだ一口も手を付けていないホットドックを目にして一葉が首を傾げると、白山はようやくのろのろと手を動かしてホットドックを掴んだ。
たこ焼きを食べ終えて、ふとサンドイッチが気になって手を伸ばすとすかさず叩き落とされた。マフィンの時も思ったが、普段のろまな癖に何でこういう時だけ素早いんだ。
余談だがみたらし団子は想像していた味じゃなかった。……が、一葉に差し出してみたところ文句を言いながら代わりにサンドイッチを寄越したので結果オーライとする。
それからまたいくつかのよく分からんアトラクションに乗った後、日が傾いて来た為そろそろ帰ることになった。
「先生、今日はありがとうございました!」
「二人とも気を付けて帰るんだぞ」
そう言って白山と元気よく別れた一葉だったが、電車に乗るやいなや疲れがどっと出たのかしきりに目を擦りはじめた。
「……ライ」
「なんだ?」
「楽しかった?」
流れる景色を眺めていると、ぼんやりした声で一葉がそう尋ねて来た。
楽しかったか、と言われると頷くことは出来ない。だがつまらなかった訳でもない。シューティングで一葉に負けたのは屈辱的だったが、お化け屋敷でびくびくしているのを眺めているのも一興だったし、最初に乗ったジェットコースターも中々好きな部類だった。
「まあまあ……ただ」
「ただ?」
「呑気に遊ぶっていうのはあんまり性に合わないというか、変な感じがしただけだ」
あの場にいた誰もが何も警戒することなく当たり前に遊ぶことだけを考えていた。そんな場所は自分の世界や潜入してきた敵の世界でもほとんど存在しない。だからこその戸惑いと、そこに俺がいるという場違いな感じに酷く違和感を覚えた。
一葉に言わせればこの世界でも戦争をしている所もあるというが、それでもこの国は俺にとって異端なほど平和すぎるのだ。
「……そう、なんだ」
一葉を見ると、せっかく答えてやったというのにもうほとんど意識がなさそうだった。
「だったら……さ」
「あ?」
「ここにいる間くらい、ここの普通を、楽しめば……」
すう。
語尾が消え入るようにして一葉が夢の中に落ちた。
……本当に馬鹿な小娘だ。他の家族を騙して兄に成りすましているのも知って、一度は至近距離で銃口を向けたことだってあるというのに。何でそんな相手に楽しめなんて言えるのか。
「……おい、重い」
枕代わりにするように肩に一葉の頭が乗る。咄嗟に振り落とそうとした所で、警戒心をどこかに置き忘れた間抜けな寝顔が視界に入り、何となくそれ以上体が動かなかった。
「……こいつ、ホントに不可解だ」
結局最寄り駅に着くまで、ずっと肩は重たいままだった。