4 お礼のお礼
「よし、いい感じ」
オーブンレンジから鉄板を取り出すと、途端に甘い匂いがキッチンの中を充満し始めた。
ある日の夕飯の後、私はマフィンを作っていた。理由は単純だ、白山先生にお弁当のお礼として渡す為だった。
何も入れていないプレーンと生地の中にチョコチップを入れたもの、それから細かく刻んだアーモンドが入ったものの三種類が出来上がると、私は綺麗にできたものを選別して残りを家族用に皿に取り分けていた。
「何作ってんだ?」
そんな時、甘い匂いに誘われたのかリビングの方からライが近寄って来た。彼は私の手元を見ると「へえ」と短く声を上げておもむろにその手を伸ばした。
「あ」
ひょい、とあっさりと私の前にあった先生用のマフィンを掠め取ったライは制止する間もなくそれをすぐに口に運んでしまう。
はく、とマフィンを頬張る音が聞こえた瞬間、私は反射的にライの右足の脛に思い切り蹴りを食らわせていた。
「何勝手に食べてんのよ!」
「いっ」
マフィンに気を取られて油断していたやつの足への一撃は見事にクリーンヒットする。
「何すんだこの小娘!」
「あんたが勝手に食べるのが悪いんでしょうが!」
「いってえな……ったく、初対面でも足踏みつけて来たし、ホントに暴力的な女だ」
「その初対面で拳銃突きつけて来たやつにだけは言われたくない」
言い争いをしながらも先生用のマフィンを死守する。私は家族用の――こういうとライを家族と認識しているみたいで不本意だが――マフィンを指さして「食べるならそっち」とライを睨み付けた。
「別にどっちでもいいだろうが」
「こっちは人にあげる為のやつだから駄目なの」
「人?」
「あんたの所為で朝ごはん食べられなかった時にお弁当をくれた優しい先生にあげるの!」
それだけ言って私はラッピング作業に取り掛かった。半透明の袋にマフィンを詰めながら、渡した時の先生の反応を想像して思わず口元が緩む。喜んでくれるだろうか。甘いものが好きだと言っていたし、美味しいって言われたら嬉しいなあ。
「にやにやして気持ち悪いぞ」
「うるさい、そんなこと言うなら食べるな」
「それとこれとは関係ないだろ」
夕食後だというのにライは既に二つ目のマフィンに手を伸ばそうとしている。
「……そういうもの、あんまりあんたの世界にはないの?」
カフェの一件を思い出してそう聞いてみる。パフェも物珍しそうに食べていたのだ。ひょっとしたらライの世界にはこういう甘いものが存在しないのかもしれない。
しかしライは静かに首を振った。
「いや、ある。あるにはあるが……基本的に一般人が簡単に甘味を食べられるような環境ではないな。軽い焼き菓子ぐらいならまだしも、この前のパフェやケーキ、だったか? ああいうものは上流階級の貴族ぐらいしか食べられないと思う」
「そ、そうなんだ」
「他の世界との戦争が長く続いてる所為で、食糧自体がそこまで多く出回っている状態でもないし」
ライは至極平然としてそう言った。まるでそれが当然であるかのように。……工作員なんてやってるのだ、ライからしてみれば本当に普通のことを言っただけなのだろう。
この世界だって日本が特別平和なだけで、ライが言うような国もたくさんあるのだろうけど。
「……ねえ」
「なんだ?」
「それ、好きなだけ食べていいから」
気が付けば私はそう言っていた。……ライに同情した訳じゃない。ただお母さんもお父さんもそんなに食べないだろうと思っただけ。
「じゃあ遠慮なく」
そう言って三つ目のマフィンを齧って表情を緩ませたライを、私は出来るだけ視界に入れないようにラッピングを再開させた。
「……」
翌日、私は酷くそわそわしていた。
「いち、あんたどうしたの?」
「いやちょっと……」
ああ、いつ先生に渡そうか。莉子の言葉に上の空になりながら答え、私は教室の前方で連絡事項を話す先生をじっと見つめた。……相変わらずかっこいい。何で皆好きにならないんだろう。なられても困るけど。
「……はあ」
「ちょっと、いち」
「ん?」
「凪野、どうかしたのか?」
ぼうっとしていたらいつの間にか先生が目の前にいらっしゃった。
「え……え!?」
「何か言いたいことでもあったのかと思ったんだが」
ずっと見つめていた所為で不思議に思われたようだった。気が付けば他のクラスメイトは自由にしゃべっていて、先生の話もとっくに終わっているらしかった。
一体どれだけ先生のこと見てたんだ……先生が可笑しいと思うはずだ。
「いいえ、何でもないです!」
「そうか? それならいいんだが……ところで凪野」
「はい!」
思わず大きな声で返事をすると、先生は何か言おうと口を開いた。が、中々最初の一言が出て来ない。
「先生?」
「……凪野の……いや、何でもない」
ようやく口にしたかと思うと曖昧に言葉を濁して結局首を振ってしまう。少し困ったような表情を浮かべる先生に何かしただろうかと不安になるものの、じっと見つめていたぐらいしか思い当たらない。
「私、何かしましたか?」
「そういう訳じゃないんだ。……すまない、忘れてくれ」
聞き返しても要領の得ない言葉しか返って来なくて、結局何とも言えないもやもやだけを残して先生は教室を出て行った。
結局今日はそれから中々先生に会えず、マフィンは部活の後に渡すことにした。荷物になっても困るし結果的に良かっただろう。
「……って、あれ?」
異様に長く感じた部活が終わって片付けをしていると、いつの間にか先生の姿が見当たらなくなってしまった。どこへ行ったのだろう。いつもならばまだ残って部活の記録を付けている頃だというのに。
「ねえ先生見なかった!?」
「職員室に戻ったんじゃない?」
「なんで今日に限って!」
同じ剣道部員に何故か微笑ましげに見送られながら、私は着替える余裕もなく袴姿で外へ飛び出した。マフィンだけは忘れないようにしっかりと手に持って職員室のある校舎へと走る。
部活の後でへとへとだが必死に走っていると、昇降口の前に先生らしき人影を見た。
「先生!」
遠目の後ろ姿で確証もなかったというのに思い切り叫ぶと、私の声に反応してくるりとその人は振り返った。
「凪野?」
よかった、先生だ。
息を切らしながらもほっと安堵する。こちらに向かってきてくれる先生を見て走る足を緩めると、私は持っているマフィンに目をやって途端に緊張し始めた。
よく考えたらそもそも受け取ってもらえるだろうか。お礼をと言った時も気にしなくていいと言っていたし、何より先生からしたら何が入っているか分からない手作りのものを果たして食べてくれるだろうか。
「そんなに急いで、どうしたんだ?」
「その……」
そんなよくない思考を巡らせてしまったものの、結局私は一瞬躊躇った末に先生にマフィンを差し出した。
「これマフィンなんですけど、この前のお弁当のお礼で……」
「ああ、この前の。いや、そんな気にしなくてよかったんだが」
「い、嫌ですか!? やっぱり市販の物じゃないと駄目でした!?」
「そういう訳じゃないけど……凪野、少し落ち着け」
先生のいやという言葉に過剰反応してしまった。それにしても先生の言う通り落ち着きが無さ過ぎて、私は促されるままに大きく深呼吸した。ようやく酸素がまともに体の中に入って来た気がする。
「あ」
段々冷静になって来た所で顔を上げると、先生が差し出していたマフィンを手に取った所だった。
「ありがとう。帰ってから早速食べるよ」
「……いいんですか? あの、料理上手な先生には美味しくないかもしれないですけど」
「可愛い教え子の作って来たものだからな、喜んで」
にこりと微笑んだ先生の言葉に顔が熱くなる。他意はない、他意はない! と言い聞かせながら俯いていると、不意に頭をぽんぽんと撫でられる感触がした。
言うまでもない、先生だ。
私は考える間もなく素早く背後に下がって先生から距離を取った。
「せ、先生」
「……すまん、嫌だったか」
「いえその、部活の後だし汗掻いてるので……」
髪の毛べたべたしてなかっただろうかと不安になっていると、そんな私にきょとんと眼を瞬かせた先生は「部活を頑張った証拠だろう?」と小さく笑った。
……やっぱり先生のこと、好きだなあ。
「……そうだ。凪野ちょっと待っててもらってもいいか?」
「? はい」
「すぐに戻って来るから」
先生はふと何かを思い出したかのようにそう言って校舎の中へと早足で入っていった。一体何だろうか。先生の表情からして悪いことではないようだけど。
そわそわしながら大人しく待っていると、然程時間も掛からずに先生が戻って来た。
「待たせて悪いな」
「何かあったんですか?」
「せっかくだし凪野にこれを渡そうと思って」
先生が手に持っていた何かを私に差し出して来る。覗き込んでみるとそれは県内にある遊園地の割引券――しかも半額のものだった。
「マフィンのお礼だ」
「え、でもそれは元々お弁当の……」
「いいからいいから。知り合いに貰ったんだけど余ってるんだ。よかったら貰ってくれないか?」
そう言って私を窺う先生に、私は少し迷った末に受け取ることにした。手にしてから気付いたが二人分あるようだ。
「ありがとうございます!」
「ああ。クラスのやつらとか……あとこの前のお兄さんとかと楽しんで来たらいい」
「お……にいさん、ですか」
急に飛び出して来たあいつの話題に一瞬固まってしまった。よりにもよって何であいつのこと引き合いに出すんですか!
ぴしりと動かなくなった私が可笑しかったのか、先生は不思議そうに首を傾げてみせる。
「凪野?」
「……あの兄のことはどうでもいいです」
「仲悪いのか?」
「そういう訳じゃ……」
なんというかそれ以前の問題だ。しかし説明は出来ない。ライのことを詮索されたくなくて、私は何か別の話題を探そうとした。
しかし私の手の中には遊園地の割引券、そして目の前には先生。それらの状況が重なった結果、私は当然のように勢いと調子に乗って思わず声を上げてしまった。
「せ、先生! 一緒に行ってもらえませんか!」