2 憧れの先生
「お腹空いた……」
くう、と主張を続けるお腹を押さえながら、私は高校の体育館に向かって歩いていた。傍にライはいない。彼は学校が始まる時間まで周囲を探索するとどこかへ行ってしまったのだ。
そう、あの“兄”も同じ高校へ通うらしい。戸籍やら何やらそれらも暗示とかで何とかしたのかと思ったのだが、そこは普通に――いやあくまで暗示とか魔法的なものでないという意味で――データをハッキングして書き換えたとだという。やはりこの世界を馬鹿にするだけあってそういう技術には強いようだ。
重い足取りで着いた体育館にはまだ誰もいない。それはそうだ。今はまだ朝練には早い時間で、私もいつもこんな時間に学校に来たりしない。全てはあの異世界のスパイとか訳の分からないことをのたまった男の所為である。朝ごはんくらい食べたかった。
更に泣きっ面に蜂と言わんばかりに、今の私の財布の中は雀の涙である。昨日学校帰りに買い食いをしてしまったのが痛かった。あれさえしなければ途中のコンビニでおにぎりぐらい買えただろう。
「あの男絶対に許さん……」
そうだ全部ライが悪い。ご飯が食べられなかったのも、早朝から無駄に体力を減らされたのも、財布も中身がないもの全部あいつの所為だ……。
「凪野? 早いな、どうしたんだ?」
しかし神様がいるとしたらまだ私を見捨てていなかったようだ。
体育館の前でしゃがみ込んでいた私は、聞こえて来た自分の名前に……いや、声に反応してがばりと勢いよく顔を上げた。
「先生!」
「何かあったのか?」
動きやすいジャージ姿でこちらに歩いて来るのは私が所属する剣道部の顧問、もといクラス担任の数学教師だ。年は三十、優しげな顔に眼鏡を掛けたその男は白山綾人という。
「えっと……ちょっと色々ありまして」
ぐう。
事情を話そうにも話せない為に曖昧に笑っていた私を嘲笑うかのようなタイミングでお腹が悲鳴を上げる。
うわあああ、なんで今先生の前で鳴るかな!? ちょっとは空気読んで!
そう自分に言ったところで鳴ってしまったものはどうしようもない。恥ずかしさで一気に顔に熱が集まるのを感じながら、私はせめて顔が見られないように大きく俯いた。
しかし先生は笑うことも馬鹿にすることもなかった。
「もしかして朝食食べないで来たのか?」
「……はい」
「育ち盛りの高校生がそれじゃあ駄目だぞ。まだ時間もあるし、これでも食べるか?」
心配そうにそう言った先生は鞄を開けるとそこから四角い箱……お弁当らしきものを取り出してそれを私に差し出した。
「え、でも先生のが」
「また昼に買うから大丈夫だ。そんな状態で朝練なんてしたらすぐに倒れるだろう、遠慮せずに食べていいぞ」
「……本当にいいんですか」
「ああ、口に合うかは保証できないけど」
先生の言葉にぶんぶんと頭を横に振る。そして恐る恐る弁当箱を受け取ると、先生はふっと安心したように笑ったのだ。
……さっきとは違う意味で顔が赤くなりながら、私は促されて食堂へと歩き出した。
「いただきます!」
誰もいない食堂で、私は先生と向き合いながら座り手を合わせた。
蓋を開けた弁当の中身は白米と中心にちょこんと乗った梅干し、そしておかずがほうれん草のお浸しから始まり、きんぴらごぼうや鮭の切り身などが詰め込まれている。パッと見て色とりどりの華やかな弁当、という感じではないが和食中心で栄養に気を遣っているように見える。
最初にほうれん草を口に入れるとひたりと舌に味が広がって美味しい。
「美味しいです!」
「殆ど昨日の夕飯の残りだったんだが、口に合ってよかった」
にこりと微笑む先生を見て視線を泳がせながら、私はつい気になることを尋ねてしまう。
「……ところでこれって、先生が作ったんですか?」
「ん? ああ、そうだが。何かおかしかったか?」
「いやその……他に作ってくれる人とかいるのかなーって……例えば、彼女さんとか」
恐る恐る先生の表情を窺いながらそう言うと、彼はきょとんと目を瞬かせた後苦笑した。
「生憎そういう人には縁が無くてね、独り身だからいつも自分でやってるんだ」
「ほ、本当ですか!?」
思いの外大きな声が出てしまった。慌てて誤魔化すように焼鮭を口に放り込んで咀嚼していると、先生は何も言うことなく穏やかに微笑みながら弁当を食べる私を静かに眺めた。
……緊張してだんだん味が分からなくなってきた。
白山綾人先生。私は……先生のことが好きだ。
入学して早々、担任として教壇に立った先生を見て一目惚れしてしまった。十五歳も離れているというのに、そんなことは気にならないくらい先生のことばかり考えるようになってしまっていたのだ。……先生に一目惚れした理由は、少し不純なものではあったけど。
私はちらりと先生の表情を窺う。相変わらず静かに私を見ている先生の顔を見て、私は再び慌ててお弁当へと視線を動かした。
「どうした?」
「なんでもないです……」
先生を最初に見た時に私が思ったのは、なんとなく初恋のあの人に似ているということだった。穏やかな雰囲気や優しげな顔、そしてその眼鏡の奥に見える慈しむような目。それらから目が離せなくなった。
初恋だけあってあの人は私の心の中で酷く大きな割合を占めている。けれど勿論彼の代わりという訳ではない。きっかけは確かにそうだが、生徒に真摯に向き合っている姿や、こうしてわざわざ心配して世話を焼いてくれる所を何度も見て、気が付いたら後戻りできない所まで来ていた。
「……はあ」
そこまで考えて嫌なことを思い出した。先生を好きになったきっかけは“彼”に似ていたからだ。そうだというのにそれ以上にそっくりな男が現れてしまったのだから溜息しか出ない。ましてその男が最低な部類の人間なのだから冗談ではない。
「いや、あんなやつちょっと似てるだけの別人だ。全然気にしない……」
「凪野?」
「いえ、なんでも」
「本当に大丈夫か? 私に話せることだったら聞くが」
本当に心配そうに尋ねられるが、私は曖昧に首を振るしかない。本当は話したくて仕方がないけど、額に押し付けられた銃口が忘れられない。
「……凪野、それどうしたんだ」
「え?」
「手首、真っ赤になってるじゃないか」
先生に言われてようやく思い出した。先ほどライに掴まれていた手首に目を落とすと、大きな手が伸びて来てそっと痣に触れた。
「痛そうだな……本当に何が」
「何でもないですって! 本当に!」
「……そうか」
何か言いたげにしながらも触れていた手が離れていく。ほんの一瞬だけ悲しげな表情が見えた気がして、私は取り繕うように他の話題を探した。
「あの、ご馳走様でした! すごく美味しかったです!」
「あ、ああ。ありがとう」
「あの、何かお礼がしたいんですけど何がいいですか?」
「いや、別に気にしなくていいよ」
「そういう訳には……先生って何か好きな食べ物とかあります?」
そんなに気を遣わなくていいという先生に、私はここぞとばかりに引き下がらずに何度も尋ねた。先生の好きな物も知りたいし、あわよくばそれを上げられたらと思ったのだ。
「何が好きなんですか!」
「あー、と……そうだな」
思わず身を乗り出して聞いていると、先生は勢いに押されるように僅かにずれた眼鏡を軽く押し上げて苦笑した。
「甘いものは……好きかな」
「いち、何かあったの?」
「朝から機嫌良さそうだったよね」
その日の最後の授業が終わり教科書を鞄に詰めていると、友人である二人――莉子とさやかが声を掛けて来た。莉子は気が強い女の子で、反対にさやかは少々大人しいお嬢様タイプ。性格はそれぞれ違うけど何故か馬が合うのがこの二人だ。
「え、よく分かったね」
「いっちゃんは分かりやすいから」
「そうかな」
さやかに言われて思い返すがあまり自分が分かりやすいという自覚はない。
私は教室の前方で授業の片付けをしている白山先生を窺った後に二人に向き直り、少し声を落として話し始めた。
「実はね、今日の朝いろいろあってご飯食べずに学校来たんだけど、先生が手作りのお弁当をくれたの!」
「え、よかったね! しかも手作りなんだ」
「美味しかったよ!」
朝ご飯を食べられなかったのはライの所為だが、こればかりは少し感謝してもいいと思うくらいには浮かれている。
「先生って、いちにはちょっと特別優しい気がする」
「やっぱり? 私もそんな気がしてたんだ」
「……いや、それは気のせいだと思うよ?」
二人は私が先生のことを好きだということを知っている。だからこそ少し意識して見てしまう為、そう勘違いしているだけだろう。
先生は優しいが、それは生徒皆に対してだ。
「そうかな?」
「そうだって。私は勿論好きだけど……正直、相手にされる確率なんてたかが知れてるし」
まず年が離れすぎている。なにせ一回り以上だ。先生が今の私ぐらいの年の頃に生まれた訳で、そんな先生が私を恋愛対象に見てくれる訳もない。
そして更にそれを後押ししているのは、生徒と教師という私達の関係だ。白山先生は真面目な人で、生徒に対しても公平で優しい理想の先生と言っていい。そんな人が生徒にそういう感情を抱くとも思えないのだ。
……しかしだからと言ってすっぱり諦められるものでもないわけで、私は先生の行動に一喜一憂しながら毎日を過ごしている。
「そういえばさ、最近噂になってるんだけど、すごくよく当たる占い師がいるんだって」
「占い?」
「さや、あんたホントそういうの好きだよね」
「うん、大好き」
さやかがにっこりと笑う。相変わらず可愛いなあ。この笑顔にやられた男子が何人もいるのを私は知っている。
「特に恋愛運がよく当たるって話なの。今度一緒に行っていっちゃんも先生のこと占ってもらおうよ」
「占いかー」
うーん、と唸って考え込む。占いを信じているかと聞かれればその時の気分としか言いようがないが、気にならないわけではない。ただその手のちゃんとした占い師に個人的に見てもらったことはないので、いまいち相場が分からない。
「一葉」
ぼったくられたらどうしようと考えていると、誰かが私の名前を呼んだ。顔を上げて二人を見るものの、しかし彼女達は私を見ておらず何故か廊下に顔を向けていた。
つられて私もその視線を追う。
「げ」
廊下を見た瞬間、私は反射的にそう口にしていた。
「げ、とは何だ? 傷付くんだが」
そいつは優しげな笑顔を張り付けて教室の中に入って来た。さやかとは違う、私から見れば邪悪でしかないその笑みに私の顔が引きつった。
悠々と一年の教室に入って来た制服姿の男、ライは外面の良い表情で迷いなく私の元へとやって来た。突然のやつの登場に固まる私とは裏腹に、莉子やさやか、それにクラスメイト達が興味津々にライを見ている。
「いち、誰?」
「えーと……何というか」
兄だと認めたくない一心でつい言葉を濁すと、クラスメイトの誰かが「凪野さんの彼氏かな」と小さな声で言ったのが聞こえて来た。
そして同じようにそれを聞いた莉子が驚いたように私の両肩を掴んでぐらぐらと揺らしだしたのだ。
「本当なの!?」
「ち、ちが、違う! 本当に違う! 全く違いますっ!」
大体私は先生が好きだってさっき言ったばかりなのに! 助けを求めるようにライを見ると、やつは楽しそうに笑ってこちらを見ているだけだった。
……こいつに助けてもらおうと思うのが間違いだった!
莉子の声に先生まで私を見ているのに気付き、観念して私は叫んだ。
「兄! 兄です!」
「お兄さん? いっちゃんって兄弟いたんだ。初めて聞いた」
私も初めて知ったよ、本当に……。
「凪野雷です。“妹”がお世話になってます」
「こちらこそ……」
わざわざ妹を強調して言ったライは、そのままの笑顔で私の手を掴んだ。今朝強く掴まれたのと同じ場所を強く握られて思わず眉を顰めてしまう。
「ちょっと、何なのよ……」
「もう授業終わっただろう。これから俺に付き合ってくれないか?」
「はあ? 何であんたに……」
反論を封じるように手首に込められる力が強くなる。口を噤むとライは「すみませんが一葉を借りますね」とさやか達に告げて私を連れ出した。
「ちょ、待って! 先生! すみません今日部活休みますー!」
「あ、ああ。分かった」
何とか先生にそれだけ言い残し、私は悪魔のような男に拉致されたのだった。