18 忘れない
目の前で何が起こったか全然理解出来ていなかった。ナイフを振り下ろしていた男が突然倒れたかと思うと、その奥に立っていたのはどうしてか白山先生だった。
そして困惑している間に先生が何かをして男は“任務は完了した”と告げて居なくなったのだ。
「先生……」
助けられた。それだけは理解したものの、本当にどうして先生がここにいるのか。それを尋ねたくて彼の傍へと行くと、先生は私に向けて小さく笑いかけた後唐突に私の腕を引いた。
「え」
バランスを崩して前かがみに倒れ込む。しかしその前に私は先生に受け止められていた。
痛いほど強く、抱きしめられたのだ。
「先生」
「一葉、ごめん。巻き込んで、怖い思いをさせて、トラウマを作らせて……一」
一体何を、と言いたかった。しかし顔を埋められた肩が熱くなるのを感じて言葉を詰まらせてしまう。先生が、泣いている。
「一葉が無事で、生きていて本当によかった」
何度も何度もごめん、と無事でよかった、という言葉が繰り返される。抱きしめられる腕の力は全く緩まない。先生のことが分からなくて、私は彼の顔を覗き込もうと顔を動かした。
僅かに顔を動かした瞬間、私の目に小さく光る何かが見えた。
「この、ピアスは」
どくん、と大きく心臓が脈打った。先生の耳にある、小さく透明なピアス。以前見たことのあるそれは勿論、ライが身に着けていたものとそっくりだった。
見間違いかもしれない。ただ似ているだけかもしれない。だけど私は、気が付けば先生に向かって縋るようにその名前を口にしていた。
「ライ……?」
「……ああ」
そんな訳がない。それなのに肩口から聞こえて来た言葉は肯定だった。ゆっくりと体を離した彼は一度その顔を腕で拭うと、眉を下げて自嘲するように僅かに口角を上げた。
「ここで転移の攻撃を受けた私は、気が付いたらこの世界の過去にいた。怪我の所為かそこで記憶を失って……長い間白山綾人として生きて来たんだ」
「過去……」
「幼い頃のお前に会った。……一葉に暗示が効かなかったのは、その時に掛けた加護の所為だったんだ。その所為でお前を巻き込んで、血のトラウマを作ってしまった」
先生、いやライが過去の私と会った? そこで加護を掛けた?
血の、トラウマ……私が血が怖いのは、そのきっかけは。
「――あ」
過去、ライ、この公園、血……赤。何かがフラッシュバックする。
夕暮れの公園。ボールを追いかけて入ったそこで、私は――。
出会ったのだ、この人に。
「あ、あああ……」
あの人は、ずっと夢に出て来た彼は――思い出した。
怖かった、満身創痍で血塗れになりながらも手を伸ばして来る彼が。でも同じくらい惹かれた。大切なものを見るような優しいその目だけはずっと忘れなかったくらいに。
私が恋した人は、彼だったんだ。
「ライ……ライ!」
今度は私が抱きしめる。またどこかへ行かないように、強く抱きしめる。
「一葉……」
「馬鹿、馬鹿ライっ! 一体何度居なくなれば気が済むのよ! 私は、その度に何度あんたを好きになればいいのよ……」
初恋も、その次も……その次も。私が恋をしたのはライだった。出会う度に惹かれて行った。
「もう勝手に居なくなるなんて絶対に許さないから」
「……ああ、約束する。だから泣くな」
「誰の所為よ誰の!」
ボロボロと泣きながらライにしがみついて声を上げる。姿は先生だ。先生で、ライなんだ。私の目元を拭う手は優しくて余計に涙が出て来る。
「ライ」
涙を拭ってくれる手に触れる。脅されたり頬を引っ張られたり、何度も頭を撫でられたこの手は、私を――
「ずっと、ずっと守ってくれてたんだね」
どんな時も、私を守ってくれていたのはライだった。
「……ありがとう」
私は泣きながら、ずっとその手を強く握りしめていた。
た、た、と軽快な足取りで階段を上る。だけど手の中にあるそれを決して崩さないように慎重に。
ようやく待ちに待った放課後になったのだ。おかげで今日一日ずっとそわそわしっ放しだった。部活もない今日、莉子とさやかと別れて私は一人とある教室を目指していた。
三階の廊下の奥の小さな一室……数学準備室。その扉の前に来た私は呼吸を整えるとノックをして、返事が聞こえる前にその扉を開いた。
「先生―」
「勝手に入るなと何度言ったことかな」
扉を開けた先にいるのは、少々呆れた表情で微笑んだ白山先生だ。ごちゃごちゃと数学の本や資料に囲まれている部屋の中で、私は机に座る彼の隣まで椅子を引っ張って来て腰掛けた。
二年に上がった私は文系に進み、部活以外では中々先生に会えない日が続いていた。
「それで凪野、今日はどうしたんだ?」
「先生問題です、今日は何の日でしょうか!」
「今日? 何かあったか?」
先生が少し考えるように目を伏せる。けれど待ちきれなかった私は手に持っていた白い箱を机の上に置いて彼に差し出した。
「これは」
「思い出した?」
学校では出来るだけ敬語を使っているけど、今日はあえて普通に喋る。
「今日は、ライの誕生日でしょ」
箱を開けると中にはケーキが入っている。それを見た先生――ライは目を瞬かせてケーキと私を交互に見た。
今日から一年前、ライがこの世界に来た。そしてこの日をライの誕生日にすると言ったのだ。プレゼントは以前彼が言った通り手作りのケーキである。昨日頑張って作ったそれは家庭科部の友達に頼んで放課後まで冷蔵庫に入れさせてもらっていた。
「結局、ライにとっては十年以上も待たせちゃったね」
紙皿やプラスチックのフォークを用意していると、彼は「……そういえば今日、だったな」とぽつりと呟いた。
「変なの、いつもはどうでもいいことだって覚えてるのに」
「白山綾人としての誕生日は別にあるから忘れてたんだ。……それに今まではずっと記憶を失っていたしな」
「……」
さらりとそう言った彼が紙皿にケーキを移し替える。二人分を取り出すとその一つを私の前に置き、早速フォークを手に取った。
「もらうぞ……一葉?」
「う、うん。どうぞ」
ぼんやりとしていた私が慌てて返事をすると、不思議そうに首を傾げられた。ライとして話すこの人は、見掛けだけなら白山先生でしかない。ライと話していた友達や付き合ってと告白した女の子だって、彼を見てライを結びつけることは決してないだろう。
「まあまあだ。これなら合格で……」
「ねえ、ライ」
淡々とした口振りの癖に嬉しそうにケーキを頬張った彼をライ、と呼ぶ。彼をそんな風に呼ぶ人は私以外に居ない。
あの人形のデータを書き換え“ライ”という人間の存在を抹消した。と、彼はそう私に言った。覚えているのはもう、私と本人しかいないのだ。
「私、忘れないからね。ライっていう人間のこと、またあんた自身が忘れたって絶対に忘れない」
忘れられる訳がない。一緒にいたのはたった数か月だったけど本当に大切な時間だった。もう二度と忘れたりしない。
「甘党で非常識で無神経で腹立たしくて大馬鹿だったライのこと、忘れてやるもんか」
「……相変わらず生意気な小娘だ」
頬を引っ張られる。容赦なく引っ張られて痛いというのに、私はどうしても口元が緩むのを押さえられなかった。
手を放された瞬間、私は思い切りライに抱き着いた。
「ライ、誕生日おめでとう! ――ずっと、ずっと好きだから」
「……ばーか」
背中に暖かい体温を感じるのと同時に、本当に優しい声でその軽口は叩かれた。
「俺だって、好きに決まってる……ずっと、な」