17 守りたかったもの
「白山先生、何を見ているんですか?」
窓の外を眺めていると、不意に背後から同僚の男性教師に話しかけられた。答える前に同じように窓の外を覗き込んだ彼はすぐに納得したように「ああ」と呟く。
「合格発表、もう始まってたんですね」
「はい。今年はどんな生徒が入って来るかと思いまして」
「そういえば先生は来年度一年生の担当でしたね」
高校の職員室の窓から見えるのは入試の合格発表に喜んだり、はたまたがっくりと頭を落としている子供達だ。毎年毎年のことだが、元気な彼らを見ているとこちらまで気分が上昇する。
俺が……私が、“白山綾人”になってからもう十数年の時が経っていた。これだけ時間が経っても相変わらず記憶が戻ることもなく、自分を知る人間が現れることもなかった。記憶を取り戻すことはもう、殆ど諦めているようなものだけれど。
記憶を失って右も左も分からなかった頃、それでもどうにかなったのは周囲の人々が本当に親切な人達ばかりだったからだ。分からないことを一から全て教えてくれて、随分迷惑を掛けたというのに何てことないように笑ってくれた。本当に感謝してもしきれない程だ。
だからこそ私は教師になる道を選んだ。今度は私が誰かを助け導くことが出来たらと、そう思って。
たくさんのことを学んでいく中、ずば抜けて得意だったのが数学だった。プログラミングも同じくらい興味を惹かれたが、結局私は数学教師になることにした。恐らく記憶が失われる前も理系だったのだろうと、そこにだけは過去の自分を垣間見た気がして僅かに嬉しくなった。
何年も教師をやって来て随分板について来た。今年は一体どんな生徒の担任になるのだろうと考えながら仕事の休憩がてら外を眺め続ける。
合格発表の場所からは少々距離があるため生徒の顔はよく見なければはっきりしない。もう少し視力が良ければいいのだが、あの事件の後遺症か元々目が悪かったのか、今の私は眼鏡が常時必要な程度には視力が低かった。
「……え?」
もう一度言う、生徒の顔はよく見なければはっきりしない……はずだった。
「白山先生?」
がたり、と椅子を鳴らして勢いよく立ち上がると、私は身を乗り出すようにして窓の外を見つめた。僅かにぼやけた視界の中で、私は不意にどうしようもなくある一点に目を奪われたのだ。
ピントが合うように目を細め、たくさんの人の中からその一人を――彼女を見つけ出す。合格したのか友人と嬉しそうに笑い合っているその少女をはっきりと視界に捉えた瞬間、私は一瞬何も考えられなくなった。
――あの子だ。
自分でも訳の分からないまま、謎の確信が心の中に強く残った。
「先生、どうしたんですか? 知ってるやつでもいたんですか」
「あ……ええまあ、そんな感じです」
「それともあれですか? もしかしてどの子かに一目惚れしたとか!」
「……はは」
思わず乾いた笑いを漏らすと「ま、そんなことあるわけないですよねえ」と完全に冗談だったらしくそのまま話は終わった。
……まさか、本当に一目惚れだとでもいうのか。
今までに感じたことのないほどの高揚感がじわじわと体中に広がっていく。いやまさか本当に、そんなことあるはずが……。
「……」
どれだけ自分の中で馬鹿馬鹿しいと否定しようが、私は結局彼女がいなくなるまであの子から目を離すことが出来なかった。
「先生!」
担当する数学の授業が終わると共に、教科書を抱えた一人の女子生徒が私の元へと急ぎ足でやって来る。
「どうした凪野」
「この問題がよく分からなくて……」
そう言って教科書を開く彼女は凪野一葉という、ごく普通の女子生徒だ。……ごく普通な、はずなのだ。
しかし合格発表の時に彼女の姿を見つけてから、私は気が付けば凪野のことばかり考えるようになっていた。家に帰っても、彼女は元気だろうか、怪我はしていないだろうか、笑っているだろうかとそんなことばかりが頭を過ぎる。
どうしてこんなに凪野を気にしてしまうのか。そう悩む度に同僚に冗談で言われた“一目惚れ”という言葉が嫌でも思い浮かんでしまう。そんなはずはない。凪野は私の生徒で、それに年だって一回り以上離れているというのに。
しかしそうやって否定しても、その言葉は何度も何度も蘇って来る。その原因の一因が、彼女にもあった。
「――という訳なんだが」
「あ、この式そうやって解けばいいんですね。ありがとうございました!」
「……ああ」
凪野が分からないと言った問題を解説すると、彼女は嬉しそうにお礼を言う。……尻尾があったら千切れんばかりにぶんぶん振られているだろうと容易に想像が付くくらい、本当に嬉しそうに。
彼女の……好意は分かりやす過ぎる。そこまで他人の感情に疎いとは思っていないがそれにしたってあからさまだ。好意を向けられると無碍には出来ないし、余計に彼女を意識してしまう。
そうして自分の気持ちを認めることも出来ず、かと言って凪野を突き放すことも出来ずに日常は回っていく。そんな悶々とした日々に転機が訪れたのは、それから少し経った頃だった。
朝ごはんを食べていないという凪野に弁当を上げた、その日の授業終わりにそれは起こった。
「一葉」
教室で授業の跡片付けをしている時にその声は聞こえて来た。
「げ」
「げ、とは何だ? 傷付くんだが」
教室の外から凪野に声を掛けたその男は、真っすぐに顔を引きつらせた彼女目指して教室の中に入って来る。彼の顔を見た瞬間、私は思わず目を疑うことになった。
何故彼は、記憶喪失になった頃の私と同じ顔をしているんだ。
驚愕で彼を凝視してしまう。見れば見るほど昔の自分にそっくりで、他人の空似だと割り切るのも難しい。
凪野の言葉で彼女の兄らしい――直前に他の生徒の声で彼氏だと思いかけて動揺してしまったなど言えない――ということが分かったが……もしかして、彼は私と何か関係があったりするのだろうか。今だに見つからない、記憶を失う前の自分の縁者である可能性は決してないとは言えない。……そうなると彼の妹である凪野とも血縁関係になってしまうのだが。
ともかく少し話をしてみたい。彼が私に関係する人物なのか、そうでないのか。過去の自分を知る手掛かりがようやく見つかったかもしれないのだ。彼に引きずられていった凪野を見送りながら、私はその姿が見えなくなるまで彼のことをじっと見ていた。
結局その後彼女の兄――凪野雷とは少し会話する機会があったが途中で話を逸らされてしまった。確信があるならともかく、似ているだけという曖昧な状態で碌に話したことのない人物に記憶喪失であることを打ち明ける気にはなれず、遠回しに尋ねたのが駄目だったのか。何の手掛かりも得られなかった。
それに他の話題ならばともかく、狙いすましたかのように凪野のことを尋ねられて思わず言葉に詰まってしまったのだ。彼には私の気持ちが見抜かれているのだろうか……。
ならばと今度は凪野に尋ねてみようと、ちょうど二者面談の時期が重なった為尋ねてみることにした。
……のだが、何故か今度も逆に問い詰められる結果になるとは。
「先生! その人のこと教えてもらえませんか!?」
「え?」
「お願いします!」
真剣な表情で凪野にそう言われ、まず返答に困った。まさかこの状況でそれが自分だなんて言い出せない。
誤魔化そうとしても食い下がる彼女にどうしたものかと頭を悩ませていると、不意に彼女の背後にある窓が目に入った。それは偶然だったのだが、その窓――そして延長線上にいる凪野目がけて飛んでくる野球ボールを見た瞬間、私は危ないだとか避けようだとかそんなことを考える間もなく目の前の凪野を思い切り突き飛ばしていた。
一瞬の後、窓ガラスが割れると共に頭に衝撃が走る。そしてすぐ間を置かずに割れたガラスが私目がけて大量に降り注いだのだ。
味わったことのないような激痛が――いや、昔感じたかもしれない痛みが頭を貫いた。その瞬間、頭が真っ白になった。
――
――!
何かが、聞こえる。どこか懐かしいような、悲しいような。そんな声……悲鳴だった。
……あの子が。そうだ、あの子がまた泣いているんだ。早く守らないと、傍に行かないと。
俺があの子を……一葉を、守るんだ。
「……い、ち……は」
薄っすらと目を開けた先に居たのは、酷く動揺し取り乱していた一葉だった。ああ、そうだ。俺が守りたかったのは。
「先生!」
その声に咄嗟に我に返った。俺は誰だ。俺は……私は、白山綾人で、“先生”で、だけど――。
一気に流れ込んでくる記憶の波に呑まれそうになる。混乱して何が何だか分からない。
……だが目の前の彼女を見て、今はそれどころじゃないと思った。
「怪我はないな?」
「……はい」
「それならいいんだ。凪野が無事なら、それで十分だよ」
この子を安心させることが俺にとっても私にとっても、何よりの最優先事項だったのだ。
「……」
病院から自宅へ戻り玄関の鍵を閉めた瞬間、それまで耐えていたものがいとも容易く崩れ去り、私は膝を着いて片手で額に手を当てた。
全て、思い出した。白山綾人になる前のライとして生きた日々を、一葉と共に過ごしたあの時を。凪野雷が自分に似てるなんて当然のことだったのだ。
「本当に馬鹿だな、私は」
記憶の整理が終わり冷静になった今、色々と思い返してみると本当に笑えて来る。記憶が無くなっても一目で見つけるとか、どれだけ一葉のこと好きなんだ。ましてや死に際に嫉妬した相手が自分自身だったなんて、本当にありえない。
「……」
私はふらりと立ち上がってのろのろとした足取りでリビングの中へ入る。そしてタンスの引き出しを開けてその中にしまっておいた小箱を取り出すと、私は久しぶりのその蓋を開けて中に入っていたものを取り出した。
手の平に転がるのは、小さな透明なピアスだ。ライとして残していた唯一の所持品。付着していた血はしっかりと拭い取られていてただ照明に反射するようにキラキラと光っている。
目を細めてそのピアスを覗き込むと、液体状になって入っていた燃料はほぼ無くなっていた。……それでも、ほんの少しでも残されていればそれでいい。
「さて……色々と準備しないとな」
まだやらなければならないことは残っているのだから。
記憶が戻ってから見る現実は、やはりというべきか以前とは全く違って映った。戸惑っていた自分の気持ちも正直に受け入れることが出来たし、“凪野雷”の考えていることも当たり前だが手に取るように分かる。
一葉の見舞いに行った時に、つい調子に乗って過去の自分を揶揄ってしまったのは余談だ。許せ、どうせお前もそのうち同じことをやるんだからな。
そんな出来事も挟みながらもやるべきことはちゃんと進める。そして、とうとうあの日が来たのだ。
「……」
早朝、私は全ての準備を終えて外に居た。確かに今日だったはずだ、凪野雷が消える日は。まもなく過去の自分は敵の……いや、味方だった者の攻撃を受けてこの時代から消滅する。
大体の逃走経路からこの辺りの世界にいることは把握されていたはずだ。先日起こったコンビニ強盗、その時にネット上に上がった動画でライの姿を見つけた為、先んじて襲撃は起こったのだろう。
勿論一葉をコンビニに行かせずに人質にさせない方法もあった。けれどそうしてもいつかはやつらに見つかっただろう。だったら動きが分かる過去と同じ状況の方がいいのだ。むしろあのタイミングでなければライが確実に過去に行くかなど分からないのだから。
ライには必ず俺と同じようにあの過去へ行ってもらわないといけない。そうしなければ一葉に加護が掛かることがなくなり過去が改変されてしまう。そうなれば、きっと。
ずっと昔に一葉が言っていた言葉を思い出す。“一度も怪我をしたことがない”、“トラックに轢かれても鉄骨が降って来ても無傷だった”と。それはどう考えても加護の力で一葉が守られていたからだろう。だとすればそれが無くなれば……彼女はきっと、私に出会う前に死んでいたかもしれない。
「久しぶりに使うな」
小さく呟いてピアスに触れる。少しでも燃料が残っていればいいと思ったが本当に僅かしか残っていない。むしろ使い切るつもりで一葉に加護を掛けたのだから僅かでも残っているだけ幸いか。
これから私はあの公園へ行く。その為に人避けの暗示を跳ね除けるだけの加護が必要なのだ。
無我夢中で一葉に加護を掛けた時はとにかく守るということしか考えていなかったが、冷静に考えられる今なら攻撃から身を守るだけではどうしようもないと分かる。あの人形の思考データから一葉のことを消去しなければ、彼女は一生つけ狙われることになるのだから。絶対にどうにかしなければならない。
腕時計に目を落とす。チャンスは一回だけだ。加護が効いているうちに公園へ侵入し、そしてライが消えたのを確認してから動く。残り燃料と加護の継続時間を考えるとシビアだが、やるしかない。
「……今だ!」
ライが公園へ来た時間、一葉が追いかけて来た時間、会話していた時間、そして人形が現れた時間。全てを必死に思い出しながらあらかじめ念入りにタイミングを計算していた。それが、今だ。
加護を掛けて走り出す。すると今までは全く聞こえていなかった騒音が耳に入って来た。
「一葉っ……!」
あの公園が見えて来ると共にどんどん音は大きくなる。銃声と、一葉の声。全力で公園の入り口へ駆け込むと、私の目に映ったのは大きなナイフを一葉に振りかざす人形だった。
「再試行再試行再試行――」
頭が真っ白になった。そのくせ、体は何度もシミュレートしたように動き出す。
即座に人形の背後に迫り、回路が集中している首の後ろをナイフで切断する。ゆっくりと動きと止めて崩れ落ちる人形の先に驚いた顔をした一葉を見て、思わず小さく笑ってしまった。
――やっと、“ここ”に戻って来られたのだと。
私は修復プログラムが起動する僅かの時間を使って人形のメインコンピュータにハッキングを仕掛ける。工作員であったライが何より得意としていたこと、それがこうして役に立つなんて。
記憶が戻ってから今まで時間を縫って何とか完成させたプログラム。最後にそれが入ったメモリを読み込ませれば全てが完成した。ライと、ライに関わったとされる一葉に関するデータの改ざん、皮肉だが内部のシステムを把握している元居た世界の人形にだからこそそれが出来たのだ。
目を見開いたまま動かない一葉の前で、人形の修復プログラムが起動し始める。がたがたと音を立てて回路を繋げた人形が低い機械音を発しながら起き上がった。
「――再起動確認。修復率85%、任務……全て、完了しています。只今より帰還準備を――」
目の前の人形には一葉も私も映っては居ないようで、一人勝手に喋り転移の準備を始める。任務達成以外の役割を持たない人形だからこそ助かった。
光が収束する。そして人形が粒子になって完全にこの世界から去ると、私は今まで体に入れていた力が全て抜け落ちたように膝を着いた。終わった。全部、終わったのだ。
「先生……」
一葉が困惑した様子で私の目の前に来る。私はそれを見て少しだけ彼女に微笑み掛けると、力を振り絞って一葉の腕を引きそのまま抱きしめた。
目の奥が、熱い。