16 その先の、真実
「ライ!」
彼女のその悲痛な叫び声だけが、ずっと耳に残っていた。
「……う」
凄まじい激痛に呼び起こされるように、俺は薄っすらと目を開けた。
全身が痛みを訴えていて、見なくても自分の体が酷い有様だということが分かってしまう。
「ここは」
ぼやけた視界に映ったのは夕暮れの公園だった。目だけを動かして軽く周囲を一瞥するが、人っ子一人いない。風で空のブランコが静かに揺れているのが見える。
公園? 確かに俺は元々公園にいたはずだが……。
「っ」
そこまで考えてようやく緩慢に動いていた思考が回り始める。そうだ、一葉は。一葉はどうなったんだ。
痛みを堪えて無理に体を起こした。その所為で腹から血が溢れ、言葉にならない激痛を覚える。なんとか改めてしっかりと周囲を見ると、やはりここは気を失う前に居た公園であることが分かった。……しかし、何か妙な違和感を覚える。
確かあの人形はゴミ箱――世界の存在しない次元のことを差してそう呼ばれている――に送り込むと言っていた。直前で咄嗟に妨害の為にがむしゃらに加護を使ったものの、それが成功したのかも分からずに強い衝撃で気を失ってしまった。
先ほどはまだ朝方だったというのに、しかし今はどう見ても夕暮れが広がっている。気絶したままそれだけの時間が経った? ならば何故俺は止めを刺されずに生きているんだ。
そして、姿が見えない一葉は無事なのか。
「くそ……」
右手を血だまりが広がる地面に叩きつける。もし一葉が無事ではなかったら、俺はどうすればいい。
この世界から去る。その理由として一葉に告げた言葉は半分嘘だった。通信機が直ったのは事実で、だから留まる理由を失ったのは本当のこと。
しかし、ここに居てはならないと強く思ったのは、これ以上一葉を巻き込む訳にはいかないと思ったからだ。昨日のようにまた追手が来て、それが今度は一葉を狙ったとしたら。俺と一緒にいる以上そんな日が来ないとは決して言えない。
あいつは平和ボケした呑気な顔をしているのが一番だ。だからこそ関係を断ち切ろうとしたというのに、俺は結局一葉を巻き込んだ。
昨日の時点で気付くべきだったのだ。どうしても必要なパーツが無くて直らなかった通信機。それにぴたりと当てはまるパーツがどうしてあの人形に内蔵されていたのか。俺の世界のものと全く同じパーツが、何故敵方の追手の人形の中にあったのかということをもっとよく考えるべきだったのだ。
これで一葉をこれ以上危険に晒すことは無くなる。そう焦った結果がこれだ。
「一葉……」
とにかくこのまま呆然としている訳にはいかない。撃たれた腹を押さえながらなんとか立ち上がってずるずると歩き出そうとすると、不意に足元に何かが転がって来た。
それは何という事もない、ただの水色のボールだった。
「あ……」
反射的にボールが転がって来た方向に視線を向けると、それと同時に小さな声が聞こえた。
三歳くらいだろうか、恐らくボールを追いかけていたらしい幼い少女がこちらを見て目を見開いていた。そして、俺も同じように少女を目に留めた瞬間思わず目を疑うように凝視してしまう。
痛みで目の前が霞んでいる。だからこそ見間違いだと思いたかった。その少女の顔は一度だけ見たことのあるものだったのだから。
「一、葉?」
「ひっ……」
反射的に手を伸ばすと、少女は怯えたように目を潤ませて後ずさった。その表情に気絶する前に見た彼女の表情が重なってしまう。
この少女の顔は、少し前に見た写真の中にいた一葉の幼い頃にそっくりだったのだ。
どういうことなんだ。この少女は一体何者なのか。
「本当に、一葉なのか……?」
足元に転がって来たボールに、曲がった字で書かれていたのは”いちは”という名前だった。このボールも、同じく俺はあの時写真で見たのだ。
ならばここは……その頃、過去だとでもいうのか。無茶苦茶に加護を発動させた結果、転移の効果が捻じ曲がり次元が歪んでしまった、ということだろうか。
「そんな、こと」
ある訳がないと言ってしまいたい。もしくはこれは、ただの俺の夢なのではないかと。
けれど意識を飛ばしてしまいそうな程の全身を貫く痛みは間違いなく本物だ。非現実過ぎる、けれど転移で次元に干渉している以上、絶対にありえないと笑うことも出来ない。
そしてそう考えた時、この公園の違和感の正体も理解した。今朝この場所に来た時と何かが違うと思ったが、よくよく見れば分かる。遊具が綺麗過ぎるのだ。確かに錆び付いていたと記憶していたそれらは、まるで新品のように夕日に照らされている。
俺は再度目の前の少女――一葉に視線を移し、足を引き摺って彼女に近付いた。ここが本当に過去かは分からない。だが、もしそうならば。
「一葉」
「や、やだ……」
ずるずると逃げるように後ろに下がった一葉がバランスを崩して倒れる。
「真っ赤……」
「……あ」
そう、か。彼女の小さな声にようやく理解して自分の体を見下ろした。いくつもの銃弾と転移の妨害で発生した衝撃で満身創痍の体は、よく見なくなって血塗れだった。普通の人間でもそうだろうに、血が苦手な一葉が怯えないはずがなかったのだ。
しかしそれでも、彼女を恐怖させてでも俺にはどうしてもやらなければならないことがある。
ここは過去だとしたら、まだ一葉が俺に出会っていない。……あの人形に命を狙われていない。だからこそ、今ならまだ間に合う。一葉を、守れる。
俺は歯を噛みしめて痛みを耐える。そして尻餅を付いた一葉の傍まで足を引き摺ると、怯える彼女に向かって手を翳した。
「加護、を」
「い、いや」
彼女に向けて、貯蔵しているありったけの元素を使って加護を掛ける。彼女の未来で俺が消えた後も一葉があの人形に傷付けられないように、何重にも何重にも強く。
一葉をこの先全てのものから守るように、どんな悪意やどんな暗示から、も――
「――あ」
……暗示。
とうとう泣き出した一葉を見ながら、俺は不意に頭の中が真っ白になった。いや少し違う、靄が掛かっていた全てが一気に晴れ、その衝撃に何も考えられなくなったのだ。
「……そう、か」
思わず頭を押さえる。俺は……そうだったんだ。全て、初めから決まっていたことだったのだ。俺がここに来て、こうして加護を掛けたのも、必然だったんだ。
一葉が今まで口にしていた言葉が、一つ一つ鮮明になって蘇って来る。
血が駄目だということ、今まで怪我をしたことがないということ、どうして暗示が効かないのか分からないこと……夢で、昔から俺と似た赤い服を着た人間を見て来たということ。
俺は再び自分の体を見下ろした。確かに、そうだ。血塗れになった今の俺は、真っ赤な服を着ていると言ってよかった。
「はは……」
目の前の一葉は泣いているというのに、俺は気が付けば笑っていた。
あの一葉は覚えていなかった。それはそうだ。まだ幼く、そして血がトラウマになってしまう程の凄惨な光景を心が許容できなかったのだろう。
だというのに、それでもお前は。
「ずっと、忘れないでいてくれたんだな……」
そんな状況でも、たとえ夢の中だとしても一葉はずっと俺を忘れていなかった。何度も何度も夢を見て、ずっとその心に俺を残してくれていた。
忘れないと、そう言われた言葉はずっと昔から果たされていたのだ。
ぐらり、と一葉の頭が揺れて地面に横になる。強力な加護を掛けた所為で体に負担が掛かったのだろう。せめてベンチにでも運ぼうかとも思ったが、血塗れの両手で彼女に触れることを躊躇ってしまう。
「一葉―、どこに行ったのー!」
そうこうしているうちに母親の声が遠くから聞こえて来た。俺は即座に伸ばしていた手を戻し、今走れる全力の速度でその場から逃げ出した。
「っは」
苦しい、痛い。それでも足を止めてはならない。
これ以上俺は彼女に関わってはいけないのだ。関わりを残してはいけない。俺はもう……死ぬのだから。今にも倒れそうになりながらも必死で足を引き摺り、出来るだけ遠くへ。
けれどもう体は限界だった。何とか公園を出て草が生い茂る空き地に足を踏み入れた所で限界が来て、そのまま倒れ込んでしまう。
もう起き上がる気力など残っていなかった。だが、これでいい。やるべきことはやったのだ。彼女の未来を守る布石は打てた。もう思い残すことはない……。
霞んでいた視界がますます濁り、もう終わりなのだと告げて来る。この未来の先で、俺はまた一葉を置いて消えるだろう。だけど残した加護が彼女を守ってくれる。きっと、その後も無事に生きてくれるだろう。両想いであろう、あの教師とでも幸せになってくれれば、それで――。
「……ああ、」
嫌だ、な。
今にも消えそうな思考の中で、それだけを明確に思ってしまった。
一葉を、奪われたくない。
嫌だ。本当は嫌に決まってる。一葉があの男と幸せになるなんて、本当は耐えられない。こんな状況だというのに、口の中に苦いものが広がっていく。
どうして今更気付いてしまったんだ。
馬鹿だ、俺は。一葉にさんざん馬鹿だと言っておきながら、本当に馬鹿なのは俺の方だった。よりにもよって、こんな死に際になってようやく自分の気持ちを理解したのだから。
何もかも遅かったのだ。
「……一葉」
だが、元々俺がそれを望むのは傲慢過ぎたのだろう。
彼女には過酷なトラウマを植え付けてしまった。だがそれでも、一葉はずっとずっと俺を忘れないでいてくれた。誰にも、ただの工作員としてのデータとしてしか他人に認識されていなかった俺を、こんなに離れた世界にいる一葉だけは十年以上も忘れないでいてくれた。
もうそれで十分だ。それ以上など、望めるはずもない。……だけどひとつだけ。お願いだから、あの約束だけは。
ゆっくりと瞼が落ちていく。それでも俺は、一葉に届くはずもない願いを口にした。
「……忘れないで、くれ」
俺の存在を、どうかお前だけはずっと。
「――愛してる」
ふっ、とまるで霧が薄らいでゆくようにゆっくりと意識が覚醒し始める。
低い機械音が静かに耳に入って来るのを聞きながら自然と目が開かれる。すると最初に目に入って来たのは白い天井だった。
「! 目が覚めたんですね!」
ぼんやりと映る天井を見つめていると突如側から女性らしき声が聞こえた。思わずそちらを向こうと首を動かそうとするが、その瞬間体にとんでもない激痛が走った。
「っ」
「動かないで下さい! 今先生を呼んで来ますから!」
痛みに身をよじると視界の端で女性が慌ただしく扉の外へ出ていくのが見えた。その女性が着ていた白い服、そして僅かに眼球を動かして確認した部屋の中の様子から、ここが病室であることは窺えた。低い唸り声を上げていたのは、自分の体に繋がれている何かしらの医療機器らしかった。
病室、どうして俺はここに……。
「気が付きましたか。本当によかった」
病室の中を観察していると、ばたばたと音を立てて先ほどの女性――恐らく看護師と、初老の医者らしき男が部屋に入ってきた。
「調子はどうですか。あなたは一か月もずっと意識不明だったんですよ」
「一か月……」
「持ち物に身分証明書がありませんでしたので、まだご家族にも連絡が取れていないんです。ですから最初にお名前をお聞きたいのですが」
「な、まえ」
医者の男性に尋ねられた俺は言葉に詰まった。俺の、名前――それは何だった?
そもそも俺はどうしてこんな大怪我をしているんだ。俺は今まで何をして、どんな人間だったんだ。
「俺は」
自分のことだというのに、何一つ思い出すことができなかった。
「……誰、だ」
結局俺が分かったのは、自分が複数の銃弾を体に受けて一か月もの間意識不明の重体であったこと。そしてその時のショックか何かで一切の記憶を失っていたということだけだった。
俺の意識が戻った後に警察が来て事情聴取を受けたが勿論何も答えることはできなかった。拳銃が使われていることから何かの事件に巻き込まれたのではないかと言われたが、いくら思い出そうとしても頭の中には空虚しかない。
いや、ただひとつ……自分の名前も何も思い出せないくせに、ひとつだけどうしても心に残っていたものがある。
俺は多分、何かを守ろうとしていた。それが何かも思い出せないというのに”守らなければ”という意識だけが失った記憶の中で欠片を残している。
「失礼します。お加減はいかがですか」
「どちら様、でしょうか」
そうして日々、自分が何者であったかぼんやりと思い出そうとしていた。そんなある日、見知らぬ――と言っても俺が今知っているのは担当の看護師と担当医、そしてこの前来た警察官しかいないのだが――スーツの男が俺を訪ねてきた。
「市役所の者です。我々の方であなたを保護することが決まったので仮の戸籍を用意して来ました」
「それは……ありがとうございました。ご迷惑をおかけします」
「いえ。名前等はこちらで既に決めさせて頂いてます。それで、こちらがその書類になりますのでご確認を」
そう言って男は茶色の封筒から数枚の書類を差し出して来た。それを受け取った俺はひとつひとつ確認しながらじっくりと目を通そうとしたのだが、真っ先に飛び込んで来た文字列を見て無意識のうちに俺は動きを止めていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでも……」
そう言いながらも俺はその文字――自分の新たな名前から目を離せなかった。
「白山……綾人」
何故か、どこかで聞いたことのあるような気がした。