11 凪野雷という人間
「ねえ二人とも、ちょっといい?」
「どうしたの改まって」
ある日の学校のお昼休み。お弁当を持って集まった私と莉子に、さやかがうきうきとした様子でそう言ったのが始まりだった。
「実は……彼氏が出来たの!」
「……へえー」
「おめでとう、よかったね」
嬉しそうに言ったさやかに対し莉子の反応は薄い。代わりに私がお祝いするものの、それすらも若干適当な声色になったのが分かったのか、少々不満そうにさやかは口を尖らせた。
「もー、二人とも何でそんなにどうでもよさそうなの!」
「だって、ねえ……」
「さやがモテるのなんていつものことじゃん」
莉子の言葉に私はうんうんと同意する。さやかとは高校からの友達でまだ数か月の付き合いだが、それでも彼女がモテるのは嫌というほど知っている。とはいえ高校に入ってから今まで彼氏はいなかったようだが。
「話はそれだけじゃないの! ほら、いっちゃんと一緒に行った占いのお店で言われたでしょ、一か月後に付き合い始めるって!」
「ああ、そういえば……」
「ちょうど一か月! やっぱりあの占い師さん本物だったんだよ!」
「そういえばあんた達行ってたわね」
興奮した様子で捲し立てるさやかを見ながら私は占いで何を言われたか思い出していると、不意にさやかが「そういえば……」と私を見た。
「何?」
「昨日の話なんだけどね、いっちゃんのお兄さんが告白されてる所見ちゃったの」
「……ライが?」
「いちってお兄さんのこと名前呼びなんだね」
「え? ああ、そうだね」
あまりに普通に尋ねられて一瞬動揺した。今まで誰にも指摘されなかったけど可笑しいだろうか。とはいえライのことを兄なんて呼べないけども。
「それで、ライが告白されてたって?」
「そうそう。多分三年の先輩だと思うんだけど、綺麗な人だったよ」
「……ふーん」
ライってモテるのか。
「あれ、いち嫉妬してんの? もしかしてブラコン?」
「まさか、そんな訳ないって!」
「でもお兄さんって確かにモテそうだよね」
「そうか?」
確かに顔は私の好みど真ん中なのは否定しないけど、他の人から見てもそうなのだろうか。
「顔もまあまあいいし、物腰柔らかで大人っぽい感じっていうか」
「あー分かる」
「お、大人っぽい?」
うんうんと頷く二人に思い切り困惑の声を上げてしまう。結構すぐに怒るしパフェなんかの嗜好品には目が無い男だけど。
だけど勿論あいつが猫を被っていることなんて言う訳にはいかない。だからライを褒める二人を前に私は乾いた笑い浮かべることしかできなかった。
「それじゃ、また明日」
「じゃあね」
帰り道、二人と別れた私は一人家への道をのんびりと歩いていた。どこかへ寄って帰ろうかとも思うが、今日からテスト週間なのであまり寄り道するとお母さんに怒られる。
まっすぐ帰ろうと決めていつもよりも早く足を動かしていると、ふと前方に見覚えのある人影がちらついた。
「あれは……」
ライだ。しかし彼の隣には見たことのない女の子がいた。恐らく年上であることが分かり、私は今日さやかが言っていたことを思い出す。
もしかしたらあの人がライに告白したとかいう人かもしれない。
二人が何を話しているかは分からないが女の子の表情は明るい。ということは付き合うことにしたのだろうか。ライの方はといえば、相変わらずの猫かぶりの柔らかな笑みで何を考えているのか読み取ることは出来なかった。
声を掛けるのも憚られ、更に同じ進行方向なので追いつくのも躊躇う。仕方なく歩くペースを落として追い付かない程度に距離を取りながら歩いた。
「……」
二人とも、少なくとも表面上は楽しそうだ。さやかが言っていた通り綺麗な人だし、ライだって取り繕わなくても普通に嬉しいのかもしれない。
別にライが誰と付き合おうと私には関係ない。だけどあの二人を見ていると何でもやもやとしてくるのだろう。……早く帰れなくて苛ついているからかもしれない。少なくとも莉子が言ったようなブラコンなんて理由では決してないのは確かだ。
「雷君、それじゃあ」
「ああ」
僅かに声が聞こえて顔を上げるとちょうど二人が別れる所だった。別の道へと進んでいく女の子の姿をぼうっと眺めていると、立ち止まっていたライが急に歩き出した。
何故か、踵を返してこちらに向かって。
「え」
「視線を感じると思ったらお前か。何をこそこそと付けて来たんだ」
今までの朗らかな微笑みとは全く違う呆れた表情を浮かべたライは、私の目の前まで来ると訝しげにじろじろと私を見下ろした。
「なんか、お邪魔かなって」
「邪魔? ……ああそういうことか。いらん気遣いだ。さっさと帰るぞ」
私の言葉に淡々と返したライはそのまま歩き出す。慌てて追いかけて隣に並んだ私はライを見上げ、つい気になっていたことを尋ねた。
「今の人と付き合ってるの?」
「まさか」
「でも仲良さそうだったから……。友達がね、昨日ライが告白されてるの見たって言ってたけどあの人?」
「……そうだな。まあ断ったが。ただ……」
「ただ?」
「“せめてお友達から”って言われた所為で多少はそれに付き合わなくてはならなくなった。“凪野雷”のイメージを壊す訳にはいかないからな……面倒だが仕方がない」
「普段から猫被ってるのが悪いよ。友達にライが物腰柔らかで大人っぽいって言われて、誰それってなったもん」
「凪野雷はそういう人間だから間違ってない」
「ライ自体は違うけどね。結構子供っぽいところあるし」
そう軽口を言うと横から無言で頬を引っ張られた。そこまで力を込められている訳ではないが若干痛い。
「……でもその人はともかく、ライって誰かと付き合おうとか思わないの? 結構モテるらしいじゃん」
「全く思わない」
別に気になる訳ではないが気が付いたらそう尋ねていた。そして考える間もないくらい即座に否定される。
「何で?」
「そんなことも分からないのか、相変わらず馬鹿だな」
なんでこいつ私にはこんなに容赦がないんだろう。
「はいはい馬鹿でいいから、どうして?」
「お前も分かってるだろうが、俺はそのうちこの世界から居なくなる。それなのに恋人なんて作る必要ないだろうが」
「……あ」
淡々と告げられた言葉に頭から冷水を掛けられたような気分になった。
……そうだ、ライは通信機が直ったらそのうちここから居なくなる。勿論その事実を忘れていた訳じゃない。ただ、それが理由に来ることを想定していなかっただけだ。中々直る気配のない通信機にあまりライ帰るという想像が出来なかったということもある。
そしてはっきりとそのことを口にされて、自分が酷く動揺していることを理解してしまった。
「……」
そしてもうひとつ、私の頭の中に過ぎったことがある。
今日さやか達との会話で思い返していたこと。私の占いの結果だ。たかが占い、それもあれだけ怪しいものだというのにあの時言われた一言が心に突き刺さる。
これから先に訪れるという辛い別れ。それは、もしかして――。
「ただいま」
「あれ、二人とも一緒だなんて珍しいわね」
家に帰ると、リビングでお母さんが珍しくアルバムを広げていた。
「何してるの?」
「ちょっと久しぶりに見たくなってね。ほら、一葉もうすぐ誕生日でしょ。随分大きくなったなーって」
「どれどれ……」
鞄を置いてライと一緒にアルバムを覗き込む。すると三歳の誕生日の時の写真や、ボールを顔にぶつけて泣いている写真、運動会で泥だらけになっている私など色々な写真があった。
「最近は現像しないからね、あるのは随分昔の写真ばかりだわ」
「お前、昔から生意気そうな顔してるな」
「煩い」
お母さんに聞こえないようにこそこそと話していると、ふと写真を見ていたお母さんが「可笑しいわね」と首を傾げた。
「雷の写真が一枚もないなんて……」
「……え、あ、それはあれだよ! ライは昔から撮られるの嫌いだったじゃん!」
「そうだよ母さん。あまり写真は好きじゃないし、むしろ撮る方が好きだったからね。この写真も確か俺が撮ったはずだよ」
「そうだった、かしら」
「そうそう!」
お母さんの言葉に大慌てした私は必死に言い訳を考える。が、当の本人のライは涼しい顔で私の話に繋げるようにさらりと嘘を言った。暗示があるとはいえばれるかもしれないのにこの余裕。憎たらしいほどのポーカーフェイスだった。
「ライ、数学教えて」
そんな少々な波乱もありつつ夕食を終えた私は教科書を持ってライの部屋に突撃した。テストの範囲が発表され、そのあまりの広さと内容に一人で頑張る気力を完全に削がれてしまったのだ。
部屋の扉を開けると、珍しくライも教科書を開いて勉強しているようだった。
「だから勝手に開けるなと」
「ライまでテスト勉強?」
「人の話を聞け。……あまり極端に成績が悪いと目を付けられるからな。目立つことは避けたい」
ライが持っている教科書は歴史だ。確かに別世界の人間であるライには一番大変な所かもしれない。
私がローテーブルに持ってきた教科書を積み上げると、ライは諦めたように大きく溜息を吐いて「どこだ」と聞いて来た。
「問題集のこの辺から全然分かんない」
ぐるりと円を描くように指でページを示すと、ライは数秒それを見た後そのまま答えを口にした。
「え?」
「それで次の答えは――」
「ちょっと待った! 答えだけ言われても分かんないって!」
「じゃあ何を教えればいいんだ」
「普通にどうやって解くか教えてよ」
「どうやってって、そのまま計算すれば分かるだろうが」
「だからその計算が分かんないんだってば!」
「……ちょっと教科書貸してみろ」
頭のいい人間はこれだから、と偏見を爆発させているとライが教科書を開いて似たような問題の解説を読み始めた。……一応教えてくれる気ではあるらしい。
教科書を読んでいるライの横顔をじっと眺めていた私は、不意に思い立ってポケットに入れていた携帯を取り出した。
私はカメラを起動すると、それをライに向けて――
「止めろ」
しかし撮ろうとする直前でライの手がレンズを覆いつくした。有無を言わせないほどの強い言葉で止められて、私は息を呑んで携帯を下ろした。少し怒っているように見える。
「ごめん、ホントに嫌だと思わなくて」
「何で撮ろうとした?」
「……ライがいつかいなくなるなら、写真ぐらい残しておきたいと思っただけ」
「……」
どうにも言い辛くて、もごもごと言葉を濁してそう言うと、ライが驚いたように目を見開いた。何も言うことなく、ただただ私を凝視する。
「……なんか言ってよ」
「いや……そうだな。だがそれは許容できない」
「そんなに写真嫌い?」
「そういう訳じゃない。ただ俺は工作員だ、潜入した世界に自分の痕跡を残しておくわけにはいかない。帰る時は、戸籍は勿論のこと俺に関する記憶も全て消去する」
「……記憶、も」
「全てだ。今までもずっとそうして来た」
今まで仲が良かった人間が自分のことをすっかり忘れてしまう。ライのことを覚えている人間がどんどんいなくなる。そんなの、どうして……。
「なんでそこまで……スパイなんてやってるのよ!」
「……それしか選択肢がなかったからだ」
「それは、どういう」
「捨てられたのか売られたのか、俺は親がいない子供を集めて工作員に仕立て上げる施設で育った。実力がない者は切り捨てられる世界で、ただ工作員になるだけを求められて来た」
他の生き方なんて知らない。とライが小さく呟いた。悲しくも辛そうでもなく、酷く淡々と。
私は、気が付いたら爪が食い込むほど強く手を握りしめていた。
「何よそれ……ばっかじゃないの! 何かっこつけてんのよ!」
ぎり、と音が鳴るくらい歯を噛みしめてライを強く睨み付ける。何も言わないライに腹が立って、苛立ちが全て言葉に変わった。
「他の生き方を知らない? じゃあ凪野雷……普通の人間として暮らしてるあんたは何なのよ! 甘い物に目が無くて、ちょっと口答えすると頬を引っ張って、私のゲームを私より勝手に進めて! あんたどこから見てもごく普通の人間として生きてるじゃないの!」
「……一葉」
「普通に暮らせるなら、いいじゃん別に。スパイなんてやめて、帰らなくてもいいでしょ……」
最初は訳が分からなかった。突然兄なんて言い出して見知らぬ人間が家族の中に入って来て、ふざけるなと思った。
でもいつの間にか、ライがいるのが当たり前になった。血を見てパニック状態になった私を落ち着かせてくれたのは、風邪の時に傍に居てくれたのはライだった。
自覚してしまったのだ。私はライに、いなくなってほしくないのだと。
「……やっぱりお前は馬鹿だ、一葉」
「馬鹿はどっちよ!」
「お前だ。お前だけは俺がスパイだと、本当の家族じゃないと知ってるくせに。それなのに帰らなくてもいいと言い出すなんて」
本当に馬鹿だ、とそう呟いたライは猫を被った外面の良い微笑みでもなく、またいつも私を見る時のような呆れた顔でもなく……その顔に少しだけ悲しみを混ぜて、笑っていた。
「悪い、一葉。でも俺は、いずれここを去ることになる。それは変えられない」