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本を読む悪魔

作者: 幽霊屋敷




私の人生は、愛の告白のようだった-------。









小学四年生の私には秘密の場所があった。

学校に向かう大通りを少しだけ逸れ、小学生にはそれなりに長い距離を歩いて

小高い丘の上、アスファルトで舗装されたそこには小さなベンチが一つあるだけ。

名物らしい名物も無く、道路も狭くアクセスは最悪。

この街の人間も滅多に寄り付かないそこは、私だけの国だった。


子供ながらに大人ぶっていた私は、一人でいるのが好きだった。

喧騒も届かない穏やかな風の吹くこの丘にいると、

まるで世界中でたった一人になったような気になれる。


いや、厳密に言うと一人ではなかった。

それでも私だけの国、と言ったのは

そこにいるようでほとんどいないような彼がいたからだ。

十一月---。 そうたしか十一月だったかな。

秋も更けこみ、少し肌寒いそんな季節に私はこの場所と、彼に出会った。



「あなた、だあれ?」



ベンチに座り本を読む青年が、そこにいた。

彼は私に見向きもせず ただ静かに本を読んでいた。

黒よりも少しだけ明るい髪はただの少しも風になびかず

季節はずれとも取れる半袖のYシャツは白過ぎるほど白い。


まるで銅像のようだった。

一切の音を立てず、一言も喋らない

立ち上がることも無く、いつもそこにいる。

初めこそ彼さえいなければ本当に私だけの国だったのにと思いもしたが

その内、気にならなくなっていった。



中学生になった私はやっと、彼のことが気になり始めた。

一体どうしてここにいるのか? いつ帰宅しているのか?

普段は何をしている人なのか? そんな風に。



「何を読んでるの?」



二年半の沈黙を破ったのはそんな言葉だった。

そんな事も知らなかったのだ、私は。


フョードル・ドストエフスキーの「罪と罰」


まったく反応が無い彼の本を何度か覗き見たりしたが

彼はどうやらこの本しか読んでいない。

延々と同じ本を読み続けているようなのだ。



高校生になった私は少し擦れていた。

不良やらギャルやらになったわけではないが、世間を冷ややかな目で見ていた。

クールに見ているフリをしていた、の方が正しいか。

いわゆるかっこつけ。 思春期の一言で片付けられてしまうような些細な個性だ。



「退屈じゃないの?」



いかにも、って感じでしょう?

あぁ、思い返せば思い返すほど赤面してしまうような青春だった。

もちろん彼は無反応だったが、当時の私はその無反応こそが

最高にクールな返答だと思っていて気をよくしていたのを覚えてる。



「学校、つまんないな」



ふと、愚痴を零した事もあったっけ。

優しくされたかった。なんの努力もしていない私には

不釣合いではっきり言って我が侭だったけど、優しくされたかった。

この動き出せない体を、押してもらいたかったのかもしれない。



大学生になった私にとって秘密の場所は憩いの場所だった。

喧騒も届かない穏やかな風の吹くこの丘にいると、

まるで世界中で二人きりになったような気になれる。

------そうだね。 彼のことが好きになっていた。



「座ってもいい?」



いつも通り返事は無い。

許可を取ったのもはじめだけだ。

きっと彼は何も言わないし、私の事を見てもくれないだろう

おかしいかな。 それでもすごく、居心地がよかったんだよね。



社会に出て英会話の塾講師になった私は、あいも変わらずそこにいた。

仕事上がりの夕暮れ時は秘密の場所に向かうのが私の日課だった。

彼は初めて見たあの日から変わらず、まったく変わらないままそこで本を読んでいた。



「きっと悪魔か何かでしょ?あなた」



冗談めいてそんな事を言った。

自分は、そうだなぁ...十代の頃と比べると、やっぱりちょっと老けたよ。

彼はまったく変わってなくて、羨ましいとも思ったけど

変わらないまま私だけの憩いの場として残っているのが嬉しかった。


おかしい、と思ったことも無くはない。

けど、もう十五年以上こんなところに通い詰めてる私だって十分におかしい。

何もかもがおかしくて、うん。 ここにいると夢の中のようなんだ。

何もかもが現実味帯びてなくて、だから思い切り泣くことだってできたんだ。



四十も近くなった頃、私は交通事故で足が動かなくなった。

幸い貯金はあるし、塾講師は車椅子でも出来るから生活に支障は無かったが。

あの丘を登るのは辛かった。

雨の日以外はほとんど毎日通っていた秘密の場所も毎日行けなくなって

私の体はどんどん憔悴していった。


結婚はしていない。

親にも友人にも何度も何度もいき遅れると言われ

お見合いの誘いもあったし、同僚からプロポーズされた事もあったのだけど。

...思い返せばそうだ、私の人生には彼しかいなかった。



「でも、あなたはやっぱり私を見てはくれないんだよね」



自嘲気味、ほんの少し気付いていた。

もっともっと前から気づいていた事だけど あぁ。

やっぱり彼は人間じゃなかったのだろう。

あの日呟いた言葉どうり、きっと悪魔だったのだろう。


私は悪魔に魅入られたのだ。

彼にそんなつもりは無いだろうから、魅入った と言うべきか。

言葉にするとより鮮明に思い出せる。私自身の人生が。

ほとんどまったくの会話無く、ほんの七回程度しか声をかけた事がないのは

本を読む彼の姿に、見入っていたからだったと。



八十八歳になった私は死期を理解した。

塾講師時代の貯金と年金暮らしをしていた私はわかるものなのだなぁと

素直に感心した、寿命というのは----こう訪れるのか。


ホームヘルパーの方にお願いして連れてきてもらった小高い丘の上。

アスファルトで舗装されたそこには小さなベンチと彼がいる。

名物らしい名物も無いが、道路は舗装され広くなっていた。

それでもやっぱり穏やかな時間が流れるそこは、私と彼の秘密の国。


少し外して貰えるかしら。とホームヘルパーの青年に告げ

彼の元に車椅子を引く、少し震えて、力の入らない腕を必死で押して

彼の元へ-------。


もうお婆ちゃんなのに子供みたいな恋をしている私は、あなたといるのが好きだった。

喧騒も届かない穏やかな風の吹くこの丘も、私の人生も

世界中であなたと、たった二人きりだった。



「好きです。」



どれだけの時間を無駄にしたんだろう。

死ぬ間際になって私は、やっとこの言葉が言えた。

言葉の少ない私達だったけど、伝えたい言葉なんてこれしかなかったのに。



「ごめん」



初めて聴いた、彼の言葉だった。

気付けば彼はしっかりと私の目を見ていた。

あぁ、こんなにも嬉しい。あなたと目が合った、それだけなのに。


彼は口を開かなかった。口を動かさずに

どうやって伝えているのかはわからなかったけど、しっかり伝わった。

彼の言葉だ。



「僕は君とは違う時間で生きてる。君よりもずっとずっと長い時間を

君の生きている時間よりも、もっとゆっくりした時間の中にいる。

君が僕に何を言っているのかはまるで早送りのようでまったくわからない。

けど、なぜか「あなたが好きです」と聞こえたような気がして

だから、ごめん。 君とは一緒になれない。同じ時間を生きられない。」



あぁ・・・。よかった。

ちゃんと伝わっていた、私の人生は、私の時間は、決して無駄ではなかった。

すべてを振り返った私は、彼に伝えた八つの言葉の意味を知った。

なんだ、私はずっと前から彼に伝えようとしていたんじゃないか。



私の人生は、愛の告白のようだった。



きっと彼がたった今死ぬ私に気づくのは、また数年後の事だろう。

彼は本を読む悪魔。きっとまたこの場所で本を読み続ける。

フョードル・ドストエフスキーの「罪と罰」を。


もし生まれ変われるのなら、もしもう一度私に人生があるなら

彼に伝えに行かなければならない。自分を責めないで欲しいと

私は幸せだったと あなたに返事をもらえただけで十分だったと


あの丘の上 彼の元へ

私のすべてで「ありがとう」と伝えに行こう。


どうか次の私の人生は、感謝のようであるように--------。





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― 新着の感想 ―
[一言]  葵枝燕と申します。  「本を読む悪魔」、読ませていただきました。  さいごにようやく、想いは伝わったんですね。ずっと、主人公の言葉を無視しているのかと思って、酷い奴だなと思ってたんです。時…
[一言] 最後まで澱むことなく読めました。 リアルに泣きました。
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