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第六話 ベルゼブブと三好庵にて

「ぇいらっしゃい!!」


 排気ガスにやられてだいぶ色がくすんでしまった暖簾をくぐり、開き戸を開ければまず出迎えるのは、カウンターの向こうで額に汗する親方の声。


 カウンター九席の狭い店内に満ちるのは、ダシと醤油、揚げ油に投入されてはじける衣の香りと、蕎麦やうどんを茹でる大釜が放つ水蒸気、さらには秘伝の出汁と合わせた豚バラカレー鍋から匂い立つスパイスの芳香。


 すべてが学生の、あるいはこれから会社へと向かう企業戦士の胃袋を刺激する。


 ここはそば処、三好庵。


 裕翔が週に二日は通う、立ち食いソバ屋である。少なくとも店の外観や、親方の笑顔は、彼の記憶にあるものと何一つ変わらない。


「こりゃあ、ルシファー様! 毎度ぉ!」


 来店したのが裕翔であると気付き、親方が今一度声をかけてきた。


 三好庵に通い詰めて一年と少し。寒い冬も暑い夏も、成長期の終盤にさしかかった裕翔の食欲を満たしてきた昭和の建物は、高校生の三人組を相手にするにはいささか慇懃な態度で彼を迎え入れた。


「お客さん方! ルシファー様とお仲間の方々がお見えなもんで、もそっと詰めてくんな! ルシファー様、今、場所を作りやす! 狭い店ですいませんねぇ」


「……」


「ほらほら、早くしておくんな! ルシファー様をお待たせする気かい!?」


 ついに女将さんまで出張ってきた。


 実家が消失していたという事態を受け入れられず、パイモンとアスタロトに導かれるまま、直射日光によって熱射病にでもかかったようにフラフラと歩いてきた裕翔は、目の前で繰り広げられるルシファー様ご一行への歓待騒ぎを目にしても、特に反応することはなかった。


 高校に行けば大人が助けてくれる。普段大人など小ばかにして暮らすのが仕事のような高校生であった裕翔であったが、考えてみれば三好庵の親方も、学校の教師同様立派な大人である。むしろ深い皺が刻まれ、歯の本数が明らかに足りない口許からして、裕翔の両親よりもはるかに長い人生を生きてきていることを認識させられる。


 裕翔は、どうにかして証明したかった。実家が無くなったと思ったのは、実によく似たビルや住宅に囲まれたまったく別の土地を見て勘違いしてしまっただけであると。見慣れた四車線道路も、なかなか変わらない信号も、いつものコンビニも、全てがよく似ているだけで、裕翔が通ってきた道は別の道なのだと。


 少なくとも常連である自分が三好庵に入れば、「おぅ! 裕翔!」と威勢のいい親方が迎えてくれて、旨いソバとカレーで腹を満たし、「おっちゃん、ごちそうさま!」といって代金を払い、「裕ちゃんはよう食べるのに太らないから、おばちゃん羨ましいわ!」とか言われて送り出されるのだ。


 ところが、三好庵を切り盛りする初老の夫婦までもが、「ルシファー様」と裕翔を呼んだ。もう高校生の悪ふざけや勘違いでは済まされない。立派な大人が、いくら常連とはいえ客を相手に名前を間違えるだろうか。


 もちろん、日付をまたいでも実行中の手の込んだドッキリを仕掛けられている可能性も残されているが、すでに実家消失という大打撃を受けている裕翔の脳には、そこまで穿った見方、考え方をする余裕はない。


 地獄の三好庵親方夫婦は、もちろん中身は悪魔であるが、七十二柱の悪魔や地獄の支配者たちではなく、一般的な悪魔である。言いかえれば悪魔の軍団の一般兵士でしかないのである。そこへ総大将ルシファーがやってきたとあれば、親方夫婦はもろ手を上げて歓迎するし、先客達は言わずもがな。場所を空けるどころか、求められれば自分のソバだって喜んで差し出すだろう。


「ルシファー様! 早く早く!」


 コの時に曲がったカウンターの両端に客が詰め、空いたスペースにはパイモンがすでに陣取っていた。


「参りましょう……?」


 アスタロトが裕翔の手を引き、二人に挟まれる格好で、裕翔はカウンターの前までやってきた。


「ぇいらっしゃい! ルシファー様、今日は何にいたしやしょう!?」


 裕翔は、親方の声が妙に遠くから聞こえているような気がしていた。空腹であることは間違いない。それは彼にもよくわかっていたが、人はパニックを通り過ぎると、外界から新たな情報を入力しても、あたかも聞こえていないかのように振る舞うことができる。それは、正常な防御反応であるが、ときには最低限の応答を無意識に行うこともある。


「……天玉ソバ……朝カレー」


 ボソリと、裕翔の口から言葉が発せられた。親方の質問に対して、先ほどまで思い浮かべていたメニューが反射的に口をついて出て来たのだ。非常に小さな、呟き程度のものであったが、客の話し声やソバを啜る音で騒がしい中にあっても、左右の二人は聞き逃さなかった。


「るっ、ルシファー様!? カレーもですか!?」


「だだだだ、大丈夫なの……?」


 囁きながら、裕翔の顔を覗き込むアスタロトとパイモンであったが、裕翔はそれには答えなかった。ただ無言で頷いただけだ。


 それは一見すると頼もしく頷いたように見えただろうか。裕翔は「俺に任せろ」とか「金のことは心配するな」と言ったわけではなかった。生乾きの髪はきついパーマがかかっているようにうねり、うつむいた裕翔の額に海藻のように張り付いている。ちょうど店の照明の真下に立っていたおかげで、裕翔の目元には影ができており、虚ろな目は隠されていた。おかげで表情が伺えず、パイモンとアスタロトは困惑していた。


「へい! ルシファー様、御注文頂きましたぁ! 天玉ソバ、朝カレー入ります!」


「はい、喜んでぇ!」


 パイモンとアスタロトの不安をよそに、一昔前の居酒屋のような返しで注文が通ってしまった。


「パイモン様とアスタロト様は、何にいたしやしょう!?」


「ルシファー様と、一緒!」


「わたくしも……同じものを」


「あいよぉ!」


 親方の問いに、パイモンは元気よく、アスタロトは遠慮がちに答えた。しかし、裕翔の右に立つパイモンの右手はスカートのポケットに入れられており、ラクダの小銭入れを握りしめた手には汗が滲んでいた。


 大天使(アークエンジェル)の大軍を前にしても、不敵に笑って戦場へと突っ込んで行くパイモンをして、手に汗させる『天玉ソバと朝カレーのセット』は、一人前五百三十円である。高校生の朝ごはんにしては、確かに少々豪華といえよう。




「ぇい! お待ち!」


 ほどなくして、三人の前には『天玉ソバと朝カレーのセット』が並べられた。


 暑い夏、失われがちな塩分をしっかりと補う濃い目のツユ、その中に沈んだソバはやや太めに切り揃えられた二八ソバだ。

 

 丼を覆い隠さんばかりに盛られているのは、揚げたてのかき揚げである。具は玉ねぎ、青ネギ、大葉、海苔、ニンジンであるが、実はホタテの乾物を戻しただし汁が天ぷら粉に加えられているために、貝柱の食感は無くとも風味だけはたっぷりと感じられる仕様となっている。その中央に鎮座するのは、色鮮やかな生卵だ。箸で黄身を掴めば、十中八九砕ける。


 さらに、食欲をそそる豚バラカレーには、福神漬けではなく沢庵が添えられている。不自然な黄色が、生存欲求をさらに掻き立てるのだ。


「……」


「いただきます!」


「……頂きます」


 裕翔は黙って蕎麦を啜り、パイモンはまず生卵を崩し、アスタロトはツユを一口飲んだ。


 立ち食いソバの食べ方にルールなど無い。三者三様に食べ始めた一人の人間と二人の悪魔であった。


「……」


「おいしいなぁ……朝から外食なんて、なんてリッチなんだ!」


「ルシファー様……大変おいしゅうございますわ」


 普段の三好庵であれば、地獄の王侯が相手であっても「あたぼうよ! うちのソバが不味いなんてぬかしやがってみろ! 表へ叩きだしてやっからな!」くらいのことは言ってのけるのだが、その時三好庵に迫る巨大な悪魔の気配を敏感に察知していた親方夫婦と、その他のお客――悪魔は完全に息を殺し、ガラガラと引き戸を開けた存在に目を付けられまいと、隅の方で萎縮していた。




「よおお! ルシファー!」


「……石森?」


 三好庵に現れたのは、裕翔と同じ格好をした少年だった。


 やや茶色の髪を短く刈り込み、背中には校則違反のリュックサック、右手に剝き出しの竹刀、左手で引き戸をバアン! と音を立てて閉めた少年は、日本であればその名を石森 剛。慈極高校二年にして剣道部のエース・珍しい二刀流の剣道家にして裕翔の親友に他ならないが、地獄に住まう彼は、そのような名前ではなかった。


「い・いらっしゃい……ベルゼブブ様」


 彼の名はベルゼブブ。力と邪悪さにおいて、ルシファーに次ぐと言われた地獄の支配者であった。




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