第五話:実家消失
七月二十二日火曜日朝七時十五分。
裸で出ていく訳にもいかず、佐久間裕翔は用意されていたサイズがぴったりの下着――黄緑色のブーメランパンツをやや赤面しながら着用し、制服――グレーのスラックスをはいて、半袖の白ワイシャツに袖を通し、濃紺のネクタイを緩くしめた。
ドライヤーが無かったため、髪はタオルドライで我慢するしかなかったが、他人の家――? で贅沢も言っていられない。もともと少し癖のある黒髪は、自然乾燥に任せると生活指導の先生に呼び止められるほどにうねってしまうが、もうすぐ夏休みだ。「休み中に直します!」とでも言っておけば問題ない。
裕翔は、用意されていた制服は眼鏡君あたりのスペアなのだろうと思うことにした。本日はありがたく拝借しておいて、あとでクリーニングに出して返そうと思いつつ、裕翔は脱衣所を出た。
(しっかし、なんでいきなりルシファー様かね。ゴールドマンが悪魔崇拝の変態だったとして、俺が悪魔ティーシャツを着ていたから仲間だと思われたのか? そういうことなのか? ……でもって自宅に軟禁してはみたものの、俺のノリがあまりにも悪いもんで、解放する気になったとか……?)
それだけでは説明がつかないところが多々あるのだが、高校に行きさえすれば身分の証は立ち、実家に連絡もできる。
これまで一人になるチャンスがなかった裕翔は、今更ながら携帯を持ってきていればと思った。これまでにも友人と遊んでいて朝帰りになったことはある裕翔であるし、ゴールドマンに軟禁されていたなどという醜聞は隠しておいた方がいいだろうと彼は判断した。
もろもろの確認と連絡が済めば、授業を受けて午後には実家に帰れると思った裕翔は、深く考えることを止めた。彼は、湯あみが済んだら先ほどの壊れたパイプベッドの部屋に戻ってくるように言われていたため、素直にそちらに向かっていた。
コンクリートが剝き出しの廊下は長く続いており、六~七メートルごとに扉がある。脱衣所からパイプベッドの部屋までだけでも三枚の扉が存在していた。裕翔が目指す寝所の向こうにはさらに三枚の扉が存在し、廊下の突当りには地上へ続く梯子と、さらに深層へ至る階段が存在するのだが、天上の蛍光灯はまばらにしか点灯しておらず、裕翔の目にそれらは映らなかった。
(あ~、それにしても腹減ったな……。かき揚げソバに卵、お稲荷さんもつけるか、いっそミニカレーにしちまうかな)
学校に行けるという安心感のおかげで、裕翔の頭は現在のところ食欲をいかに満たすかという内容でほぼ満たされていた。頭の片隅では、わずかな時間とはいえ学園のアイドルと同じ布団で眠ったという事実が公になったら……という不安と期待がないまぜになった思いもあったのだが、それは生存本能に追いやられて頭をもたげてくることはなかった。
「お帰りなさいませ」
「お帰り! ルシファー様! ちゃんとお風呂の蓋してくれた?」
部屋に戻ると、アスタロトとパイモンが床に座布団を敷いて座っていた。向かい合わせに座る二人は湯呑を持っていた。
コンクリート打ちっぱなしの狭い部屋、壁には場違いな襖と部屋の侘しさを助長する効果しかない壊れたパイプベッド、部屋の中央に座布団を敷いて座っている美少女二人が茶など啜っている光景は、先鋭的な茶室に見えなくもなかった。
それよりもアスタロトの香水に混じって部屋にほんのりと香る緑茶の香りが、裕翔に喉の渇きを思い出させた。
実は女子中学生の従妹がいる裕翔は、少し親しみを込めてパイモンに答えた。
「えっと、パイモンちゃんだっけ? 水を節約しろって言うから、シャワーにしといた。バスタブは使わなかったんだ。貰ってばかりで申し訳ないけれど、お茶を一杯くれないかな」
「パ、パイモン‘ちゃん’……? ルシファー様が良ければまあ、いいんだけど……」
毎月ギリギリの生活をしている地下組織の悪魔たちにとって、水道代の節約は毎月物議を醸すところなのだ。特に、風呂に入る順番や時間帯が議題となる傾向にあった。
最初に入浴するのはルシファーであったが、二番手三番手があまりにも時間が開くと、追い炊きが必要となる。追い炊きにガス代がかからないとは言っても、水を循環させるために新たな注水と排水が必要になるため、水道代及び電気代がかかるのだ。
風呂好きであったルシファーが、風呂に入ると言ったにもかかわらずパイモンの一言でそれを取りやめたことと、『パイモンちゃん』と呼ばれたことに違和感を覚えつつも、アスタロト同様『病気だから仕方がない』という理由で無理やり納得したパイモンであった。
アスタロトが差し出したお茶を飲み干して礼を言うと、濡れ頭をタオルでごしごしやりながら、裕翔は至極リラックスした様子で言った。彼は、話しかけたパイモンに拒絶されなかったことで安心しきっていた。
「さて、三好庵に寄ってからとなると、ちょっと早めに出なきゃいけないよな……パイモンちゃん、一緒に来てくれる?」
「ええっ!?」
丸い目を大きく見開いて、パイモンが驚きの声を上げた。
「でもあの……我が組織の経済状況はその……けっこう危なくて……」
(しまった……)
俯いて、もじもじとし始めたパイモンを見て、裕翔は焦った。裕翔としては、ちょっと建物の外へ一緒に出てもらい、高校までの道のりを説明してくれればそれでよかったのだ。どうやらパイモンは、三好庵に誘われたと勘違いしたらしいと悟った裕翔であった。
(しかも断る理由が、金がないからってどういうことだよ……後輩と行ったら奢るのが礼儀ってもんさ。さっき、ゴールドマンも俺に二百円渡そうとしてたな。俺ってそんなに金もってなさそうかな……?)
裕翔は、丸めて抱えていた悪魔ティーシャツとジャージの感触を確かめて、「確かに金持ちには見えないか」と思った。
「いや、わざわざ三好庵まで付いて来てくれなくても、ここを出て高校までの道順を教えてくれれば大丈夫だよ。まだ早いからね」
「いや、あたしは別に……連れて行ってくれても……その……」
日ごろルシファーの腹を満たすため、ダンタリオンと共に節約に勤しんでいるパイモンとしては、どうやらお金の心配をしていないらしいルシファーが、三好庵に連れて行ってくれるというなら大歓迎なのだ。
そして、日ごろ悪魔の王侯たちが口に糊するためにどれだけ苦労しているか。それを考えると、天の国から追いやっただけでは飽き足らずにこんな生活を強いる神と、それに付き従って襲ってくる天使に対する憎悪の炎が、パイモンの中で燃え上がるのだった。
ぐぅぅぅぅ…
神と天使への怒りのあまり、パイモンがうなり声を上げたのではない。湯気とともに香るかけソバの出汁や、夏限定の『おろしちくわ天ソバ』を想像したパイモンのお腹が鳴っただけのことである。
「……お腹空いてるの?」
「ままままさか! 大丈夫だよ! パイモンは、もう食べたんだから! だから、お茶してるんだから……!」
最後の方は涙声になってしまったパイモンであったが、彼女の泣き面を隠すように、ずいっと前に出た人影があった。
「ルシファー様、でしたらわたくしがご案内いたしますわ」
「んなっ!? アスタロト!?」
「せっかくですから、朝食もご一緒させてくださいませね?」
天使のような微笑みを浮かべた悪魔アスタロト。序列上位のパイモンが、「自分は大丈夫」と言うのを待っていたかのように、裕翔の案内と朝食に同席することを提案するあたり、さすがは悪魔と言えよう。
アスタロトの提案に裕翔は渋面を作ったが、さっさと行かないと三好庵の大人気メニューである『朝カレー』が売り切れてしまう。きっと、三好庵なんて大衆向けの味に興味がわいたのだろうと適当に結論付け、彼はアスタロトの提案を受け入れることにした。
「じゃあ、恐縮ですがミズ・ゴールドマン。お願いします」
「おまかせくださいませ」
「ルシファー様がぁ……パイモンはいらなくて……アスタロトだけ連れて行くなんてぇ……えーん」
「ちょちょちょ……。いきなり泣くなよ! じゃあ、パイモンちゃんも行くかい?」
「行く!!」
パイモンが元気いっぱいに答え、裕翔は突然襲ってきた風に体勢を崩した。
同日 七時三十五分 阿久間市一丁目 路上
「パイモン様……朝食は済んだのでは?」
「何言ってんだアスタロト。パン耳なんて朝食とは言わないって、ルシファー様も言ってただろ」
低い声でボソボソと話し合いながら、裕翔の前を歩いていく二人の悪魔たち。後方にルシファーが控えているからと、笑顔を作りながら険悪な会話をしているのだが、後ろから見ているだけなら、仲の良い先輩と後輩にしか見えない。
「なんで……? なんで実家がないんだ……?」
二人の後ろをおぼつかない足取りで付いていく裕翔には、それを微笑ましく眺めている余裕はなかった。
十分ほど前、三人でまず三好庵へ向かうことが決まり、悪魔においてはどういう行いをそれと言うのかわからないが、善は急げと部屋を飛び出した一向は、パイモンの先導で通路の突当り――地上へ通じる梯子へと移動した。
梯子を軽快に上り、丸い蓋を勢いよくパイモンが開けると、そこから夏の日差しが暗い通路に円柱状の光の柱を形成した。パイモンに続き、アスタロトも梯子を上がって行った。すぐに続けば目の毒だと、しばらく待っていた裕翔に声がかかり、なぜ梯子を上って外に出るのかと不思議に思いながらも、彼は素直に従った。
外に出た彼は、久方ぶりに目にする日の光に目を細めた。
アスタロトに手を引かれ、熱夏の日差しを浴びたアスファルトの熱さに驚きつつ立ち上がった彼は、周囲をフェンスで囲まれた、一見して工事現場と分かる敷地の中央に立っていた。
前後左右を見渡し、フェンスの向こうの景色を確認した裕翔は言葉を失った。そこは、裕翔の実家が建っているはずの敷地だったのだ。
「なんで……? なんで実家がないんだ…?」
裕翔は、ジワジワという蝉しぐれと美少女二人の剣呑な会話をBGMに、ひたすら同じ言葉を呟いていた。