第四話 慈極高校≠地獄高校
(……夢じゃなかったのか)
わずか二時間ほどの睡眠から覚めた裕翔は、眠る直前目にした、ひしゃげたパイプベッドが変わらずそこに鎮座しているのを見て思った。
若さのおかげで短い睡眠でもそれなりに体力が回復したことは間違いないが、その若さは同時に、彼が容易に布団から脱することはできない状況を生み出していた。
二時間ほど前に起こった出来事が夢ではなかったと認識した彼は、同時に背中に感じる人肌の温もりと、すでに嗅ぎ慣れつつある香水の香りに集中を奪われてしまった。
背中に女性の体温を感じて目覚めた経験など皆無であった裕翔は、どうにかその状況から逃れようと、身を捩ってアスタロトから身体を離そうと試みた。
「う……んん……? ルシファー様ぁ……」
その途端、アスタロトが妙に艶っぽく呻いて裕翔の背に再び密着してきた。
(ぐお! 下手に動けば起こしてしまうか!?)
何より自分の下半身の状態を知られたくない裕翔は全身を硬直させ、煩悩から目を背けて現状把握をするために考えることにした。
(まず……俺はルシファーとやらに間違われて、ゴールドマンに連れてこられたってところは……間違いないんだよ……な)
意外にも、裕翔の考察は難なく正解にたどり着いた。勘違いで連れてこられたという一点においてはだが。
(まあ、誤解はどうにかして解くとしよう。その辺の認識は話せばわかるさ。それにしても、ここはいったいどこなんだ? エアコンもないのに、妙にひんやりしているのが不気味だ。窓もないし、空調はあの換気扇だけか……? なんか、地下牢みたいだな)
裕翔の視線の先では、よくある正方形の換気扇が頼りなく回っていた。通常、地下にある施設の壁は厚く、空調の換気能力は地上のそれよりも高いものが求められる。これがおろそかにされていると、カビなどが発生しやすくなるのだ。
もちろん、裕翔にそのような方面の知識はない。牢屋ではないのだが、ここが地下であるという点においては正解だった。なんとなく、窓がないというところと出ていけないという状況から、地下牢というイメージが、彼の脳裏に浮かんだだけに過ぎなかったが。
ちなみに地下施設が建設された当時、それを担当したのは序列三十八位の地獄の伯爵で、名前をハルファスという悪魔であった。彼の力によって、この地下施設は快適な空間を維持できてはいる。しかし、王侯たちが暮らしているにしては、あまりにも調度品が揃っていないのにはある事情があるのだが、それを裕翔が知るのはもう少し後のことだ。
(よし……どうにか下半身も落ち着いてきた。ゴールドマンを起こさないように布団から出なくては)
裕翔の生理現象が落ち着いたところで、彼は行動を再開した。だが一回目に彼が起きようとした際、アスタロトが完全には目覚めなかったことが奇跡であったのだ。地獄の王侯でなくとも、ただの人間に、悪魔というものを欺くことなどできはしない。
「おはようございます。ルシファー様」
「!!」
そっと、アスタロトが寝ていることを確認しようと身じろぎした瞬間、裕翔の背中に、静かな声がかけられたのだった。
「ダンタリオオオン!!!!」
裕翔とアスタロトが粗末な寝所へ消えてから二時間ほど、激高しやすいパイモンに考慮して造られた防音設備と強化された壁に囲まれた部屋――作戦会議室に、この日何度目かの彼女の怒号が響き渡った。わんわんと反響し、凶悪な破壊音波となってダンタリオンを襲った彼女の怒号によって、彼は閉じかけていた眼を半分ほどは開くことに成功した。
「寝るな! 寝るならルシファー様の治療法を見つけてからにしろ! キレるぞ!」
パイモンがキレる――その少女の様な見た目からは想像もつかないが、彼女は序列九位の地獄の王である。かつては二百の悪魔の軍勢を率いていた実力は伊達ではない。ルシファーの書置きを解読し、その行先を探すためすでに三日も徹夜しているダンタリオンは雄々しく自分を奮い立たせ、しかし弱々しく答えた。
「ルシファー様の人格変容と記憶の障害については、できるだけ無理はさせず……可能な範囲で日常生活を送ってもらうところから始めるのがよろしいでしょう。危険な行動や妄想が著しい場合は、人間の場合は薬物が奏功する場合があるようですが、なにぶん彼は悪魔ですからねぇ。我々にできることと言えば……催眠療法ぐらいでしょうか。でも相手がルシファー様ですからねぇ……下手なことをすればこっちが滅ぼされてしまいますよねぇ」
「あっそ! じゃあ伝えてくるから! ――ところで催眠療法って、お前ができるの?」
ダンタリオンの答えを聞いたパイモンはすぐに部屋を飛び出していこうとしたが、直前で振り返って言った。ダンタリオンはすでに目を閉じ、粗末な会議机に突っ伏していたが、寝てはいないことをアピールするのと彼女の質問に答えるために、右手だけを上げて横に振った。
その動作によって「無理、無理」と彼は表現したつもりだったが、パイモンが「そっか! じゃあ、必要な時がきたら頼むから!」と言い残して去って行ったのを、彼は途切れかけた意識の底で確かに聞いた。右手がポトリと突っ伏した頭の上に落ち、彼は悪魔のくせに睡魔に屈服した。
「お……おはようございます」
ツインテールを解き、少々寝癖が付いた長い金髪が彼女の顔の右半分を覆っていた。裸電球の淡い光の下で、スカーフが外されて胸元が少し開いたブラウスを着たアスタロトが半身を起こした。
彼女の後方にはプリーツスカートとスカーフが畳んで置いてあった。裕翔は掛け布団によって彼女の下半身が隠されていたことを神に感謝した。地獄において絶対にやってはならない行為である。
「ルシファー様……ご気分はいかがですか?」
アスタロトが起きているならと布団から這い出た裕翔は、気分だけなら悪くはなかった。しかし、自分の正体がルシファーではなく、病気でも何でもないことを彼女に理解してもらわなければならないという使命感に燃えることで、布団の下の肢体を想像することをやめ、彼女の胸元に行ってしまいそうな目線をその顔――目ではなく額の辺りに固定して裕翔は答えた。
「少し眠れたから大丈夫ですけど……あの、そろそろはっきりさせておきたいことがあるんですけどね」
「はい」
アスタロトはすでに、裕翔の態度をルシファーが病を得たことによって変容したものとして受け入れる覚悟ができていた。裕翔がこれから何を言おうと、アスタロトは真摯に聞くだろう。彼女の澄んだ瞳が裕翔の目を射抜き、それを受けた彼はたじろいだ。
「ま、まず寝る前にも言った通り、俺はルシファーじゃないんです」
「はい」
「佐久間裕翔といって、君と同級生なんです」
「はい」
「証拠だってある。生徒手帳が……」
そこで裕翔は気が付いた。夜中のコンビニに出かけるときまで生徒手帳を持っていく奴はいない。裕翔の黒ジャージのポケットには、高校に上がったお祝いにと祖父が買ってくれた皮の財布が入っているだけだ。
「ルシファー様?」
ポケットをまさぐってから青い顔になった裕翔に、アスタロトはやさしげな微笑みを向けた。悪魔のくせに慈愛に満ちた笑顔を作った彼女は、裕翔の言葉の続きを待っていた。内心では、妄想から発せられた言を裏付ける証拠など出てくはずもないと思っており、案の定それが見つからないことで顔を青ざめさせた裕翔に対して、憐れむ気持ちを抱いていた。それは、彼女が堕天して以来忘れていた気持ちかもしれなかった。
(ルシファー様のご病気は深刻だわ……)
「わわわわ! ちょっと! ミズ・ゴールドマン!」
半身を起こしていたアスタロトはゆっくりと立ち上がった。当然彼女の下半身を隠していた布団は払われている。両手で目を覆い、しっかりと指の隙間からそれを観察しながら、裕翔は入り口の近くまで後退していった。
(まるで、十代の少年のような反応だわ……たかがパンティーを晒したくらいで……)
アスタロトは、青ざめさせていた顔を耳まで赤く染めて右往左往している裕翔を見て、本当に小さくため息をついた。その後、彼女は裕翔に流し目を送り、彼の反応を少しだけ楽しみながらスカートをゆっくりと履いた。さすがは悪魔と言えよう。
生徒手帳が無かったことで、いきなり手詰まりになった裕翔が、アスタロトの着替えシーンを指の隙間からしっかりと堪能したタイミングを見計らったように、鉄製のドアが勢いよく開かれた。
「ルシファー様!! おはようっ!!」
元気よく部屋に怒鳴り込んできたのはパイモンであった。アスタロトは、すでに身支度を整え布団を畳んで収納していた。裕翔はといえば、突然開かれた鉄製の扉の裏で潰されるギリギリのところであったため、パイモンの破壊音波の餌食になることはなかったが、盛大に冷や汗をかいていた。
「……あれ? ルシファー様は?」
「扉の裏ですわ」
部屋に入り、室内をキョロキョロと見回したパイモンに、アスタロトが告げた。できればそっとしておいてほしいなどと思っていた裕翔であったが、無慈悲にも扉は反発力によって戻っていき、静かに閉じられた。
「ルシファー様……病気は治った?」
「だから俺は、ルシファーじゃないって……」
「だめかぁ……」
裕翔の言に、明らかに落胆した様子を見せたパイモンであった。がっくりと肩を落とした、外見は中学生になりたてと言っても通じる彼女と、上背のある裕翔の様子を人間が見ていたならば、構図はいじめのそれである。裕翔は少しばかり罪悪感を覚えた。
突然見知らぬ場所に連れてこられた人間の反応としては、裕翔のそれは穏やかに過ぎるというものだろう。彼の周囲を取り囲む者が目だし帽を被った屈強そうな男であったりしたならば、彼はパニックを起こしていてもおかしくない。なまじ見た目が同じ高校に通う者たちばかりであったことと、男性二人はすぐに去り、二人の女性が概ね友好的に接してくれることで、彼の警戒心は薄れていた。
「ルシファー様、ダンタリオンが、学校に行った方がいいって……」
「学校に行っていいのか!?」
「でも、無理はさせない方がいいって。だから、ルシファー様が辛かったら……基地で休んでても――うわっ!」
パイモンの言葉を聞いた裕翔の目が輝き、彼女に急接近した。
「それって、慈極高校のことか!?」
「そうそう……地獄高校だよ? 行ってみる?」
「行くとも!!」
「よかった……学校のことは、覚えていらしたのですね」
裕翔は、慈極高校に通っていた。そこには当然、教師がおり、彼が佐久間裕翔であると証明できるものがいくらでも転がっているはずだと瞬時に閃いていた。
対するパイモンとアスタロトは、地獄高校という施設へ平日は毎日通っていた。そこは、高校とは名ばかりの、悪魔の巣窟でしかない。邪悪さではルシファーに次ぐと言われるベルゼブブもそこにいるのだが、裕翔がそれを現時点で知るすべはない。
「行こう! 高校へ!」
「ルシファー様、まだ七時ですわ。朝食も摂らなければいけませんし、湯あみをなさいませんと」
「そうだね……。ルシファー様、アスタロトの匂いがぷんぷんするし、お風呂に入った方がいいね。あ、でも、水は節約してね?」
小さな体で母親のようなことを言うパイモンであった。日本でもかつて『水と平和はタダ』などという言葉が流行ったことがあるが、地獄において水は貴重品だ。ちなみにさすがは地獄というべきか、ガス代はタダなのだった。
「ああ、そうだね。風呂に入れるのはありがたいな。ここから高校は近いの?」
「ルシファー様……そういう細かいところは覚えていないんだね……」
「へ? いやそうだね、うん。わからないことだらけで申し訳ない」
「ルシファー様……パイモンやアスタロトに謝ることなんかないよ? あたしたちは、ルシファー様にお仕えするのが務めなんだから」
「そうかい……すまないねぇ」
孫を相手にする好々爺のような口調になってしまった裕翔であった。高校に行きさえすれば、全て解決する。危険人物ナターシャ・ゴールドマンと、幼女のような女子高生による軟禁状態から脱し、大人の保護の下に入れるということの安心感がこれほど大きいものだとはと思い、今頃両親が心配しているだろうなと裕翔は思った。
「ところでルシファー様……朝ごはんなんだけどね……?」
「ああ、そんなことまで気にしなくていいよ。高校の近くに立ち食いソバがあるだろ? そこで食べるから」
裕翔も週に一~二回は利用している、慈極高校生御用達の立ち食いソバ屋『三好庵』である。値段も実に良心的であり、創業から三十年の長きにわたって生徒たちの腹を満たしてきた三好庵の店主は、生徒一人一人の顔を覚えており、常連ともなれば黙っていてもソバが大盛りで出て来るのだ。
「三好庵……ですわね……。パイモン様、先月の収支からしていかがでしょう?」
「ぐぐぐぐ……今月の外食はちょっと控えないと……」
悪魔の王侯たちは、部屋の隅に寄ってボソボソと相談を始めた。かき揚ソバに卵を付けても三百八十円、かけソバ一杯百九十円でネギとワカメ入れ放題の三好庵に行くことすら憚られるほど、地下組織の経済状況はひっ迫していたのだ。
「で、ではルシファー様だけということでは……?」
「そうだな……かけソバで我慢してくれるかな……アスタロト、お前ちょっと聞いてみろ」
「えっ!?」
パイモンは、可愛らしいラクダの小銭入れから硬貨を二枚取り出した。それは銀色に輝く二百円であった。地獄の沙汰も金次第。神が創り上げた世界では、日本と同じ通貨が流通していた。パイモンはそれをアスタロトに渡した。震える手でそれを受け取ったアスタロトは、拳を握りしめ、深呼吸してから裕翔に近づいていった。
「る、ルシファー様……? その、かけソバで……が、我慢していただけますか?」
おずおずと二百円を差し出して、ゴールドマンの令嬢であれば裕翔に対して絶対に見せないであろう表情を浮かべた彼女に対し、裕翔は軽い調子で告げた。
「ん? 朝食代くらい自分で出しますよ。やだなあミズ・ゴールドマン」
そう言って財布の入ったポケットをポンと叩いて見せた裕翔であった。内心では、たかが数百円でゴールドマンに借りを作ったなどと言われたくないという思いが働いていたのだが、そうとは知らない悪魔の王侯たちは愕然としていた。
「そういうわけだから、風呂だけちょっと……お願いします」
「えーっと、うん。じゃあ、アスタロト」
「はあ……はい。ご案内いたしますわ」
三人でぺこりと頭を下げて、アスタロトの案内でに従い、裕翔はシャワーを浴びた。そこにはバスタブも在ったのだが、水を節約してほしいと言われていたので、さっとシャワーだけ浴びることにしたのだ。嫌な汗ばかりかいていた裕翔は実にさっぱりとした気持ちになった。
浴びている途中で着替えがないことに気付いた裕翔であったが、シャワー室を出ると、きちんとたたまれた制服とワイシャツ、ネクタイが置いてあり、サイズがぴったりの下着まで準備されていたのだった。