閑話1 ルシファー降臨
(……来たか)
彼は、地球に強大な力を持つもの――慣れ親しんだ地獄の王侯の気配を敏感に察知していた。
彼はその身に内包する強大な悪魔の気配を消して夜空へ舞い上がり、三日に亘って行っていた裕翔の観察を再開した。序列で言えば上位半分に入るアスタロトであっても、彼が本気で気配を絶ち隠れてしまえば、見つけることなどできはしない。それほどの力を有するものが今、地球に降臨しているのだ。
(激情屋のエリゴスかパイモンあたりが来ると思っていたが……アスタロトとはな。彼女には悪いが、私はもう地獄へは戻れぬ。あの少年を見よ。ああ……なんと、自由な生活であろうか)
夜中に起き出して、家人を起こすのも気に留めず床板を踏み鳴らし、冷蔵庫の前で憤懣を爆発させて家を飛び出してきた裕翔を見て、彼はため息をついた。その影響で地上に生温かい風が起こり、裕翔の衣服と髪を撫でていった。
(ここには天使も悪魔もいない……神すらも。私は人間に殺されることも、病に倒れることもない。事故に遭っても死ぬことはなかろう。私はこの地獄そっくりの地球で、彼の地で起きた喧騒の数々を忘れ、穏やかに生きていくのだ――)
この三日間で、裕翔と周囲の人物を含めてよく観察していた彼は、地球で暮らしていくには困らないだけの常識を身に付けていた。彼は悪魔であるからして、人の心を読み、場合によっては操り、憑依することさえ可能なのだ。実のところ彼が地球に降臨した初日には、裕翔とまったく同じ容姿をした悪魔――ルシファーと裕翔が入れ替わる準備は整っていたのだが、すぐにはそれをせず慎重に観察を続けていたのにはある理由があった。
(あの妹だけは、注意せねばならんな……)
地獄においても天の国においても、並ぶもののない実力者であるルシファーをして、計画の実行を踏みとどまらせていたのは、裕翔の妹、麻衣子の存在であった。
(よりにもよって、あの熾天使が顕現した姿を持つ者が家族にいようとは思わなんだ。これも神の嫌がらせか何かなのだろうか……まさか、予防策ということはあるまいな)
悪魔の総帥とて神ではない。故に全知でもなければ全能でもない。人間においても精神修行の極致にたどり着いた者であれば、悪魔の誘惑に惑わされることも、心を読まれ、操られることもない。Spiritual state of nothing――無の境地と呼ばれるそれに達した者であれば。
(わずか十六歳にして、無の境地に達しているとでもいうのか。この心が読めない少女……その名がマイコとはな)
ルシファーはまず裕翔の妹の見た目に驚愕し、名前が麻衣子――マイコ――Michaelの発音に酷似したそれであると、裕翔とその父母の記憶から読み取った彼は、彼女の心がまったく読み取れないことにさらに愕然とした。
Michael――ミカエル。天の国において最高位の熾天使であり、天使の軍勢を率いて戦ったかつての大天使。ルシファーたち地獄の軍勢にとっては大敵にほかならず、もしも地上でルシファーと彼女が邂逅を果たせば、争いは避けられまい。
もちろん、本気で地球に天使が降臨し、人間として暮らしているなどとはルシファーも思わないが、自分が為そうとしていることは誰かがやっていてもおかしくない――そんな不安がまったくなかったわけでもない。一度堕天して天に戻った熾天使――ガブリエルの例もある。麻衣子の見た目と心が読めなかったことで、その不安は大きなものとなり、彼に計画の実行を渋らせていたのだった。
しかし、麻衣子の行動を見ている限りは、特に異常はなかった。彼女の行動は実に模範的な人間のそれであった。他人にも、無意味に毛嫌いされている兄に対しても、慈愛をもって丁寧に接している彼女は、ある意味天使と言えなくもなかったが。
ルシファーが裕翔の妹について思索していると、裕翔とアスタロトが邂逅を果たした。裕翔はアスタロトをゴールドマンと称して何やら話しかけていたが、警官が彼らに直接接触する前に、アスタロトが裕翔を連れて地獄へ向かったのは僥倖だった。
(自ら手を汚さずとも、佐久間少年が消えてくれたか。この機を逃す手は無かろう)
最強の悪魔は口角を吊り上げると、今度こそ地上へ降臨したのだった。
成り代わりルシファー様の反則人生ww