第三話:アスタロトが軟禁する寂しい部屋
案内された部屋は、先ほどの部屋と違って家具が設置してあった。出入り口の扉からもっとも遠い位置――すなわち部屋の右手奥に、簡素な造りのパイプベッドが一つ置かれていた。
それは正確に言えば、パイプベッドであったものだ。それは真ん中の辺りでひしゃげており、マットレスからはスプリングが数本飛び出ていた。誰がどう見ても、そのベッドでに寝転んだところで快適な眠りは提供されないことがわかるだろう。
壊れたベッドの頭側の壁にはなぜか襖があり、コンクリートの壁に色を添えてはいたが、現代日本からやってきた裕翔の感性に照らし合わせると、やはりこの部屋は殺風景なものに感じられた。
しかし裕翔は、左半身に感じるアスタロトのぬくもりのおかげで、真夏であるはずなのに肌寒ささえ感じる地下の一室であっても、頬を上気させていた。
「朝日が昇る前に、少しでもお休みくださいませ……」
アスタロトはそう言うとスッと重さを感じさせない動きで裕翔から離れ、パイプベッドの側まで歩んでいき、無言で襖を開けた。中には敷布団や枕が収納されており、彼女はそれを二組取り出して敷き始めた。
「ちょちょちょ、ミズ・ゴールドマンさん?」
もちろん裕翔はその意味を瞬時に理解し、女性への免疫の無さを晒してしまうのも厭わず、敬称を重ねていることにも気づかず素っ頓狂な声を上げたのだった。
「ルシファー様……何故、わたくしをゴールドマンと?」
見た目は裕翔が知っているナターシャ・ゴールドマンそのものであるアスタロトが、自ら敷いた布団に女の子座りになって、潤んだ瞳を裕翔に向けた。金髪美少女が高校生の制服を着て、布団に座り涙目で裕翔を見ているという状況に、裕翔は欲望――といっても隣に座って手でも握ってみようかというところで、その先の展開を考える前に思考停止に堕ちっていたのだが――を抑えるのに必死であった。
「ルシファー様……? ご気分でも悪いのですか?」
短いスカートから覗く白い太腿に視線を這わせまいと、うつむいて硬直し頬を赤らめている裕翔を気遣うように、アスタロトが小首を傾げて問いかけた。
アスタロトは、人間界で暮らしたかったルシファーを自分が無理やり連れて来てしまったことで今回の事態を招いたのではという考えから、これまで以上にルシファーに尽くさねばならないと考えていた。仮に今、裕翔の理性が吹っ飛び彼女にむしゃぶりついたとしても、それを喜んで受け入れただろう。
当の裕翔はそんなアスタロトの思いなどつゆ知らず、ようやく落ち着いてきたリビドーをさらに抑え込み、リラックスの基本である腹式呼吸を試みていた。何度かそれを繰り返しながら、裕翔は悪魔たちの混乱でうやむやになっていた、彼の身に起きた出来事の顛末を知り、自分がルシファーとやらではないことを説明しなければという使命を思い出した。
「あの、ミズ・ゴールドマン……。聞きたいことがいくつかあるんですけど……聞いてもらえます?」
アスタロトから見れば、またしてもニヤケた顔で半端に丁寧な口調で話し出すルシファーの姿は見るに堪えないものであった。しかし、彼がそうなったのは病を得ているからであり、その原因の一翼を自分が担っていると思い込んだ彼女は、このとき己にさめざめと泣くことさえ禁じ、ルシファーの側仕えとして立派に使命を果たそうと決意していた。
(アスタロト……くじけてはダメよ……!)
自分に言い聞かせた彼女は、無理に明るい笑顔を作って裕翔に答えた。
「なんなりとお尋ねください。ルシファー様」
「うん……じゃあまず聞きますけど、なんで俺のことをルシファー様って呼ぶんですか?」
「!!」
まず、彼女の決意の根幹をなす部分、すなわち目の前の少年が悪魔の総大将――ルシファーであるという前提から崩しにかかってきた裕翔の言葉に、まるで右ストレートでも打ち込まれたかのように上体をのけぞらせたアスタロトであった。
(落ち着いてアスタロト! ルシファー様はご記憶がないのよ! ゆっくりと……冷静に対応するの。時間をかければきっと、ルシファー様も分かってくださるわ……)
アスタロトはひきつりそうな口許を必死で抑え、再び裕翔に笑顔を向けた。先ほどのものよりだいぶ硬くなってはいたが。
「それは、貴方様がルシファー様であらせられるからですわ」
「いや、ミズ・ゴールドマン? 俺と同級生ですよね……佐久間裕翔って知らないですか? まあ、俺なんてクラスで目立つようなキャラじゃないし、今日まで会話もしたことないけどさ。とりあえず、うちのクラスにルシファーなんてやついないですよね。さっきの二年のコと三年の先輩も、あとマッチョなお兄さんも俺のことルシファー様って呼ぶんですけど、何かの間違いだと思うんだよなあ……あ、もしかしてこれ、なにかのドッキリですか?」
悪魔でも……いやあくまでも裕翔は裕翔であってルシファーではない。気が付いたら見知らぬ部屋にいて、今は密室でセクシー美少女と二人きりというシチュエーションに置かれ、隣に座って肩でも抱き寄せた途端、『大成功』と書かれたプラカードを持った派手なスーツの男と、テレビカメラが乱入してくるという、ありそうでなさそうなドッキリに嵌められているのでは――と裕翔は思ったのだが。
(まずい……どうやら的外れだったみたいだ)
裕翔の発言を聞いたアスタロトは彼の方を見てはいたものの、目の焦点が合っておらず、口をぽかんと開けて停止していた。普段はキリリとした表情を崩さない美少女であり、ゴールドマン家令嬢という背景も手伝って、余計に高嶺の花に見える彼女の呆けた表情を少し可愛いと思ってしまった裕翔であった。
「お~い、ミズ・ゴールドマン? 大丈夫ですか?」
まったく動かなくなってしまったアスタロトに恐る恐る近づいた裕翔は、彼女の顔の前で手をヒラヒラと振ってみた。しかし裕翔がいなくなった空間に固定された彼女の目は瞬きもせず、表情が動くこともなかった。
(困ったなあ……。とにかくこんな、どこかもわからない場所でゴールドマンと二人きりで寝るなんて危険すぎるだろ。しかしこのまま放っておくわけにもいかないし……さっきの三年の人はどこへ行ったんだろうか。なんか博識そうな見た目と発言だったし、同じ建物にいるなら助けてもらおう)
裕翔が外にいるかもしれない誰かに助けを求めようと、入り口の方を向いた瞬間であった。
「ルシファー様!!!!」
「うひゃああ!!」
まだドアを振り返っただけであったが、裕翔の目の前にはアスタロトが立ちふさがっていた。目の焦点が合わず、虚ろな様相を呈していた彼女は今、烈火のごとき怒りを顕にしていた。
足元から生温かい風が沸き起こり、彼女のスカートの裾とツインテールがフワフワとなびいていた。
「どちらへ……行かれるのですか……?」
アスタロトは言葉遣いこそ丁寧なままであり、口元には微笑みが浮かんでいた。しかし彼女の見開かれた目の中心で、妖しく光を放つ青い瞳を見て、裕翔はバタバタと手を振りながら後退した。
「あわわわ……ど、どこにも行かないです! 行かないですから!!」
「……そうですか」
裕翔が布団の近くまで後退したのを確認して、アスタロトの様子は元に戻った。
「……もう、お休みにならないと」
「……はい」
平和な日本で暮らしていた凡人であり、天使と悪魔どころか神の存在さえ信じていない裕翔が、今の状況――ルシファーに間違われて地獄に連れてこられたなどという事実を受け入れるのは難しい。
(どうなってるんだ……今のゴールドマンの様子は尋常じゃなかった! なんか、足元からなんか!!)
アスタロトとしては、裕翔の勘違い発言によってもたらされたショックから立ち直った瞬間、彼が自分に背を向けていたことに驚き、大慌てで止めに入ったに過ぎない。
またふらりと自分の前からいなくなってしまうのではという思いが、自然とそんなことは許さないという感情へシフトされたのは、彼女があくまで悪魔であるからなのだが、そんなことは裕翔には関係ない。
彼はこの部屋に軟禁状態になったと思っていた。瞬時に移動したり、急に風を起こしたりと超常現象を操るアスタロトを目の当たりにして、裕翔はある結論に達することで精神の均衡を保とうとした。
(夢だ! これは夢だ!!)
裕翔は、バタバタと履いていたサンダルを脱ぎ捨て、悪魔ティーシャツとジャージのまま敷かれた布団に潜り込んだ。
(夢だ! これは夢だ!!)
壊れたベッドの方を向いて震えながら横になった裕翔の背中に、再びアスタロトの体温が寄り添い、ふわりと香水が香った。裕翔は心の中で何度も同じことを叫びながら、いつしか眠りについた。