第二話:ダンタリオンによる病気認定
ナターシャもといアスタロトの手を取った直後、突然視界が真っ黒に塗りつぶされた裕翔は今、見知らぬ部屋に立っている。そこは、漆喰を塗り固めたような灰色の壁紙に囲まれ、窓一つない部屋であった。裕翔の足元には、真っ赤なペンキと思しきもので、複雑な模様が描かれていた。そして部屋には、アスタロト以外に三人の悪魔が待ち構えていた。
一人は背の高い男性の姿をしていた。百九十センチメートルほどあるだろうと裕翔は思った。豊かな黒髪を左右に分けて後方へなでつけ、やや狭い額の下に高い眉陵の下にはナターシャのそれよりも群青に近い青い瞳が輝いていた。
彼は、畏敬の籠った目で裕翔を見つめていた。
また彼が着用しているのはいい具合に色が落ちたジーンズと、身体にぴたりとフィットした黒いシャツであった。その上からでも、彼が鍛上げえられた筋肉の持ち主であることがわかった。
もう一人は、女性というよりは少女であった。男性とは対照的に背が低く、子供の様な見た目だった。栗色の髪を肩の上くらいまで伸ばし、前髪は細い眉毛の上で切り揃えられていた。大きな茶色の目がくりくりと動き、裕翔の服装を物珍しそうに見る彼女は、裕翔が通っていた高校の制服を着ていた。
二人は、アスタロトと共に出現した裕翔を観察し終えると、その足元に跪き、頭を垂れた。彼らも見た目は人間であったが、中身は裕翔が暮らしていた世界では出会ったことがない人のそれ――すなわち少女がパイモンで、背の高い男がエリゴスである。
中肉中背で、黒髪を七三にぴっちりと分けたダンタリオンは、裕翔の周りをグルグルと回っていた。眼鏡の向こうの小さな目を何度も目をしばたたかせている彼もまた、裕翔と同じ高校の制服を着ていた。
「ルシファー様……?」
何が起こったのかわかるはずもなく、狭い部屋に集合した悪魔たちを見回している裕翔に、アスタロトが遠慮がちに声をかけた。もちろん裕翔は、自分が呼ばれたとは思っていない。だがアスタロトの声で、ようやく自分が学園のアイドルの手を握ったままであったことには気が付いた。
「あ、ごめん……」
「え? ごめん?」
慌ててアスタロトの手を離した裕翔の言葉に反応したのは、パイモンだった。
「ルシファー様が、アスタロトに謝った……?」
女性の手など、昨年の体育祭で催された強制参加のペアダンスにおいて、男子の人気をナターシャと二分する佐藤茉莉の手を握ってひんしゅくをかって以来、母の手すら握った覚えがない裕翔が、複数の意味で畏れ多くもアスタロトのしなやかな肢体の一部に長時間触れてしまったことを謝罪したのは無理もないことだった。
しかし、地獄の軍団の総帥であるルシファーが、下位の悪魔に謝ることなどあり得ない。たとえこの場で気まぐれに裸に剝かれ犯されようとも、アスタロトやパイモンはなんとも思わないし、ルシファーがそれを謝る必要もない。そのような認識のパイモンが、裕翔の謝罪に敏感に反応したのもまた仕方のないことだった。
(これは……どうしたらいいんだ?)
裕翔は少女の訝しげな視線を感じ、さらに困惑していた。現状を把握し、適切な対応を取ろうと彼の脳はフル回転していたが、いかんせん交感神経が興奮しすぎているために、うまく考えがまとまらなかった。しかし仮に、裕翔の自律神経がベストの状態で考察に挑んだとしても、それが真実にたどり着くことはなかったであろうことは言うまでもない。
いったい日本のどこに、同級生とそっくり同じ姿の悪魔が実在し、それに導かれて地獄にやって来たなどと考える高校生がいるだろうか。
裕翔が悩んでいる間に、跪いていた悪魔たちが立ち上がった。エリゴスは黙礼したまま三歩後退し、パイモンは一歩下がって裕翔を見ていた。敬愛どころか魂の底からルシファーに愛を捧げてきた彼女は、裕翔の細い腰に抱き付きたい衝動が湧き上がってどうしようもなかった。しかし長い地獄の歴史の中で、初めてルシファーの謝罪を聞いたことから生じた違和感が、それを抑えていた。
パイモンほどではないにしても、ルシファーの謝罪という珍事に全員が違和感を覚えており、訝る態度の彼女を諌める者はいなかった。
「……ルシファー様。どこかお変わりはございませんか?」パイモンが静かな口調で訊ねた。
地獄において並ぶもののない絶対権力者であるルシファーを前にしても、本来は見た目通り子供の様な口調と大声で話していたパイモンの、淑女のようなしおらしい態度が、逆に彼女の強い不信感を表していたのだが、裕翔はそんなことに気が付くはずもない。彼は、同じ高校の制服を着た少女はお育ちのいい娘なのだろうなどと、的を大きく外したことを考えていた。
そもそも、現代日本において「ルシファー様」と呼ばれて自分のことだと認識できる人間など、いたとしても多数派ではないだろう。裕翔は自分のことを悪魔であるなどとは微塵も思っていない。眼前の少女は、二歩下がった背の高い男性にでも話しかけているのだろうと思っていた。
そして、パイモンの口調に安心感をすら覚えた裕翔は、思考を再開する心の余裕を取り戻していた。
(……まず、ここはどこなんだ?)裕翔はパイモンを無視して、再び狭い部屋を見渡した。壁掛けの丸い時計は三時五十分を指していた。あとは出入り口が一つだけで壁に窓はなく、天上から吊るされた一つの裸電球が部屋の光源となっていた。
(コンビニの前にいたはずなんだが……まさか、拘置所か?)
アスタロトの手を握る直前、警官が現れていたことを思い出した裕翔は、自分の経歴に大きな傷がついたかと勘違いし、先ほどとは違った意味で目の前が真っ暗になった。
(相馬たちを殴ったのは俺じゃないんだ。ちゃんと調べてくれればわかることさ。ったく。ゴールドマンの令嬢にとんでもない形でかかわることになっちまったな……あ、待てよ。このままじゃ、ゴールドマンの娘に前科が付くことになるのか?)
裕翔は、左に控えているアスタロトをチラリと見た。彼女はパイモンと裕翔を交互に見ながら、両手を胸の前で組んで心配そうな顔をしていた。
(最悪だ……! これってもしかして、ご令嬢の経歴を守るために一般人の俺が罪を被るパターンのやつじゃないか? そして、俺の家は莫大な口止め料を支払われ、俺は将来ゴールドマンに雇われるんだ。成長した俺は企業でのし上がるが、過去の経歴をライバルに暴かれて窮地に陥る。そこへ良心の呵責に耐えられなくなったナターシャが、罪と共に俺への愛を告白して――)
「――な~んてこと、あるわけないか。ははは」
思わず自分で口に出してしまうほどに、滑稽な妄想を展開し始めた裕翔。その光景は、突然脈絡のないことを言い、笑い出した彼を見つめる四人の悪魔の王侯たちをして、その視線を気味が悪いものでも見るようなものに変えた。そのおかげで、パイモンの言を無視して、裕翔が思索を続ける時間が与えられたのだが、裕翔は自分の独り言が生んだ思わぬ副産物のありがたみに気付かないまま、さらに考え込んだ。
(この小さい娘とメガネ君は、うちの高校の生徒か。メガネ君は三年生で、小さいのは同学年のはずだけど……はて、こんな娘いたかな? こんな夜中に――いやもう明け方か。とにかくこんな時間に拘置所にいるんだから、ろくなやつじゃないな。不良だよ、不良。小さいコはルシファーがどうとか言ってたしな。そういえばナターシャもさっきルシファー様って言わなかったか?)
パイモンのスカーフのラインと、ダンタリオンのネクタイの色から学年を判断した裕翔は心の中で、彼らに『不良』と『悪魔崇拝者』という称号を与えた。悪魔崇拝と言えば九十年代にヨーロッパ中を震撼させた、インナーサークルという存在が有名だが、現代の著名人にも悪魔崇拝者は存在し、若者を取り込もうと暗躍しているという噂もある。とある女性歌手がその一人であるという都市伝説を知った裕翔は、過去にそれについて調べたことがあった。と言っても、インターネット上に転がる記事を二~三件流し読みしただけだが。
裕翔は、アスタロトによって男子が三人打ち倒されたことも思い出した。彼女にしてみれば人間を気絶させるなど造作もないことであり、むしろルシファーに対して不遜な態度をとったことで、殺されなかっただけマシだと思っていた。
しかしそんなことを知る由もない裕翔は、酔っていたとはいえ男子を一撃で沈めたアスタロトが、格闘技でも会得しているのではと考えていた。それを、裕翔が彼女の手を握った直後に視界がブラックアウトしたとことと無理やり関連付けた彼は、鳩尾の辺りに拳を打ち込まれて気絶するという、マンガにはよくありそうなシーンを脳裏に浮かべていた。
(腹は痛くないな……)
臍の下あたりを撫でて痛む箇所がないことを確認し、ならば延髄切りかと首筋に手をやりつつ、裕翔は意図的にアスタロトから距離を取った。
(気絶させられて、一緒に拘置所ってことはないよな? そんなことしたら警官が黙ってないだろうし。背の高いイケメンマッチョの人は……大人だよな。ルシファーなんて呼ばれてたから……刑事ってこともないよな。つーか、なんで誰もしゃべらなくなったんだ?)
先ほどの不気味な笑いを見て以降、悪魔たちは沈黙していた。彼らはルシファーが笑ったところなど見たことがないからだ。
天の国を追放されて以来、嘆き、悲しみ、怒り、戦いに明け暮れる日々を送っていた彼の顔に、微笑みが浮かぶことはなかった。それが、突然地獄を出奔し、帰ってきたと思ったら突然笑ったのだ。悪魔のくせにと笑われるかもしれないが、彼らは不気味なルシファーを見てわずかに恐怖していた。
(参ったなあ……結局今の状況がさっぱりわからないぞ。ゴールドマンとは関わり合いになりたくないが、名前も知らない同学に話しかけるのもなんだよな。この娘、態度は丁寧だけど不良だし……)
同じレッテルを貼られているならば、少しでも会話をした覚えのあるナターシャにしようと思い、裕翔は左を向いてアスタロトに話しかけた。
「ええと、ミズ・ゴールドマン? 大変申し訳ないのだけれど、ここがどこだか教えてくれませんか?」
「……」
(無視された……)
精いっぱいの愛想笑いと、丁寧な口調で話しかけた裕翔だったが、アスタロトは言葉を返してはくれなかった。
裕翔がルシファーと呼ばれても反応できないのと同じで、アスタロトは見た目が地球に住むナターシャと同じなだけであり、自分を「ミズ・ゴールドマン」と呼ぶルシファーに、どう対応してよいかわからないのであった。
地球で裕翔と出会ったときは興奮のあまり気にならなかったが、アスタロトは話しかけられたことをきっかけに、改めてルシファーであるはずの少年を観察してみた。
自分を全く違う名で呼び、住み慣れた秘密基地を見て、ここはどこと尋ねてきた総帥の目に以前の力は感じられなかった。いつも悲哀と憎悪を湛えていた赤黒い瞳を持つ目を細め、無理やり口角を上げてへらへらと笑う少年の姿を見て、アスタロトの心には悲しみが満ちていった。
ダンタリオンが解読した手記には、ルシファーの傷ついた心の叫びがつづられていたという。悲しみのあまり、ルシファーは地獄を捨ててしまった。きっと、心の傷のせいで病を得たに違いないのだと、アスタロトは考えていた。
「もしやルシファー様は……ご記憶が……?」
アスタロトの考えを後押しするかのように、ダンタリオンが呟いた。
「どういうこと?」
ダンタリオンの発言に反応したのは、またしてもパイモンであった。アスタロトと違い、裕翔に強い不信を抱いていた彼女であったが、不気味に笑う裕翔を見て、不信感よりは恐怖の方が現在は勝っていたおかげで、その声量は人間である裕翔が耳にしても問題ない程度に抑えられていた。
「深い精神の損耗によって一時的に記憶を喪失したり、ストレスから逃れるために別人のように性格が変わることがあるそうです」
「そんな……」
「やはり……」
「ウソだろ……ルシファー様」
パイモンは床にぺたりと座り込んでしまい、アスタロトは沈痛な面持ちで唇を噛みしめ、エリゴスは今度こそ床に崩れ落ちた。狂信的な性格のパイモンとエリゴスには、ルシファーの記憶喪失並びに精神疾患にり患しているという現実は、受け入れがたいものであったようだ。
「ええと……みなさん、大丈夫ですか?」
「重症ですねぇ」
「ルシファー様が……ルシファー様がぁ……えーん」
「おいたわしい。ルシファー様……」
「うおおおお! 畜生!! ルシファー様! お気を確かに!!」
突然乱れ始めた場の空気と、どうやら自分がルシファー様と呼ばれているらしいことと、勝手に病気認定されたことに困惑しつつ、崩れ落ちた面々を気遣って声をかけた裕翔であったが、彼らの悲壮感は増すばかりであった。
「ダンタリオン!」
やおら立ち上がり、パイモンがダンタリオンをビシッ! と指差して大声を上げた。彼がパイモンの横にいたおかげで助かったが、もし裕翔と同線上にいたならば、裕翔は壁まで吹っ飛ばされていただろう。その証拠に、ダンタリオンの後ろでは重い鉄製のドアが軋んだ音を立てて少し開いた。それに気付いた裕翔は目を剥いたが、ダンタリオンは涼しい顔だ。
「お前はルシファー様の治療法を探すんだ! アスタロトは付ききりで看病しろ! エリゴス! 王侯たちに連絡を取って応援をよこしてもらえ! 序列など気にするな!」
この場にいる中でもっとも高い序列である悪魔らしく、威厳をもってパイモンが矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「本来最終戦争で人間を滅ぼすはずだったルシファー様が、人間の住む地獄に行って、人間のような病にかかるなんて……皮肉ですねぇ」
ダンタリオンはふぅ、とため息を残して部屋を出て行った。
「ああ。ベルゼブブ様に、応援を頼もう」
エリゴスは立ち上がり、目元をグイとこすってから裕翔の眼前に迫ってきた。「……ルシファー様。地獄は、俺たちが守りますから!」と言って裕翔に抱き付こうとしたが、裕翔が本気で「ひいっ」と悲鳴を上げたのを聞いてぴたりと制止した。しばらく呆然としたのち、「うぐぅっ!」と叫んで部屋を出て行った。彼の両頬は涙に濡れていた。
「ルシファー様。早く元気になってね!!」
駆け寄ってきたパイモンがぴょんと跳ねて裕翔の頬に口づけした。彼女の行動と唇の感触に驚いた裕翔が「え?」と言ったときにはもう、パイモンの姿は裕翔の視界から消えていた。
「いったい何がどうなったんだ……?」
悪魔たちが去り、一気に殺風景となった部屋で裕翔は呆然と立っていた。
「ルシファー様……」
背中から声がかかり、裕翔の左腕に細いが暖かい腕が絡められた。それはアスタロトの腕であり、右半身が裕翔の身体に密着していた。おかげで押し付けられる膨らみの感触と甘い香水の香りによって、裕翔の思考回路は一時停止した。
「寝所へ……参りましょう?」
「は、はい」
カクカクと頷き、アスタロトに伴われた裕翔は部屋を出た。時計の針は、午前四時を指していた。
ハーレムなんて作らせません。作らせませんとも。ええ。