第一話:アスタロトが誘う地獄の阿久間市一丁目
七月二十一日、月曜日の深夜。
ここは地獄の阿久間市一丁目。万年工事中のマンホール下に造られた『秘密基地』の一室。
秘密基地の中で唯一壁紙が張られた部屋に佐久間裕翔は立っている。壁掛けの丸い時計の針は深夜三時半を指していた。
裕翔は四人の男女に取り囲まれており、改めてその面々の顔を観察した。見知った顔が一つと知らない顔が三つ。
どうしてこんなことになったと、裕翔は首を捻った。
一時間半ほど前のこと。
夜中の二時に目覚めた裕翔は冷房の電源を入れた。
その夜も気温は三十度近くの熱帯夜であった。冷房の風に当たったまま眠ると喉が痛くなるため、エアコンの切タイマーを二時間に設定するのだが、エアコンが止まって室温が上昇し始めると身体が敏感に反応し、冷房が止まってからぴたりと一時間で目が覚めてしまっていた。
熱帯夜が一週間続いたこの夜、裕翔の睡眠不足からくるストレスは最高潮に達していた。再び冷房が効いてくるまでは眠ろうと思っても眠れない。寝間着替わりに着ている悪魔がプリントされたティーシャツが身体に張り付き、寝返りを打つたびに不快感は増すばかりだった。
「ああああ! あっちーなもう!」誰にともなく怒声を発し自室を出た裕翔は、廊下の暑さに閉口し、さらにいら立ちを増した。そして家族に聞かれるのも厭わず、フローリングの床を踏み鳴らして台所へ向かった。
裕翔が冷蔵庫を開けると、いつもそこにあるはずの炭酸飲料もスポーツドリンクの姿もなかった。
流しには、空になったペットボトルが二つ。丁寧に洗ってラベルをはがしてあるのは、妹がそうしたのだろう。
兄と違って品行方正、清廉潔白。そこに彩色兼備と文武両道まで加わった、まさに完璧超人の妹が、なぜペットボトルを洗ったままでダストボックスに入れないのか。それはもちろん、乾いていないからである。
『ペットボトルはラベルを剥がして洗い、乾かしてから潰して捨てましょう』という自治体の指導をしっかりと守っているのだ。夜中に眠い目を擦りながらでも、細かいところに手を抜かない女なのだ。
ちなみにもう一つの空のペットボトルは、ラベルも剥がしておらず、蓋はシンクに転がされていた。中身など当然洗っていない。これは父の仕業に違いなかった。炭酸飲料は父が、スポーツドリンクは妹が飲み干したのだ。
「……」
冷蔵庫にはまだ、天然水と麦茶が入っていた。裕翔はしかし、目当ての飲み物が飲み干されていたことに加え、こんな夜中にまで完璧超人である肉親のそつのない所作を見せつけられ、さらにイライラを募らせてしまった。
これはもう寝られまいと判断した彼は、悪魔ティーシャツに黒ジャージという出で立ちで家を出た。まさか深夜三時に、同級生と遭遇することもあるまいと高を括っていたのだ。
裕翔は当時の自分の軽率さと、狭小さを呪った。あのとき麦茶で我慢していれば、現在の不可解な状況に陥ることはなかったのだ。
裕翔はコンビニエンスストアを目指して歩いていた。外は涼しいどころか蒸し暑いだけだったが、裕翔の外出を待っていたかのように吹き始めた風のおかげで、少しはましな道程になっていた。
目指すコンビニの建物が見えてくると、裕翔は歓喜した。冷房が効いている証拠に、ガラス張りの店内の様子が分からないほど激しく結露が付着していたからだ。だがそれ以上に裕翔の目を引いたのは、コンビニの前にできた小さな人だかりであった。
コンビニなどの二十四時間営業を行う店が増加したことで、自然と眠れぬ夜を過ごす若者たちがそこに集まる。このコンビニに集まってくるのはガラが悪い連中ばかりだ。裕翔はそういった類の連中とは親交がない。普段ならなるべくからまれたりしないよう、携帯画面に集中している振りでもして通り過ぎるのだが、そのときはつい注視してしまった。
その理由は、三人の若者に囲まれている美少女の存在であった。裕翔が通う市立高校の制服を着た見事な金髪をツインテールにした青い目の少女。すらりと伸びた長い肢体、制服の上からでもはっきりとわかる、日本人離れした肉感的身体。まさしく彼女は、見かけだけは高校のアイドル『ナターシャ・ゴールドマン』であった。
外国人のセクシータレントがコスプレでもしているのでは、という見た目の美少女が夜中にうろうろしていれば、不良たちだって絡みたくもなるというもの。しかし、今回は相手が悪い。ゴールドマン財閥の令嬢に万が一のことがあれば、日本の関連企業が被る損害はどれほどだろうか。ほとんどの住民が、ゴールドマングループの子会社に雇われているこの町で、ナターシャの名を知らないものなど居るはずがない。
本来ありえない光景に目を奪われ、裕翔が呆然となったのは無理もないことだった。その時間が長すぎたのだろう。不良の一人が裕翔の視線に気づき、近づいてきた。
「なぁに見てんだコラァ!」
お決まりのセリフと共に、赤茶色の髪をした少年が裕翔に近づいていった。その風貌は、まだ中学生なのではないかと思うほどあどけなさを残していた。残りの二人はナターシャに絡んでいる。「――を探して――」「――んなこと――なあ?」などと聞こえてくるが、詳しい内容はわからないし、わかりたくもなかった。
そもそもなぜ深夜にコンビニの近くをご令嬢がうろついていたのかなど謎は多くあるが、裕翔は自分の探求心に蓋をした。
『ゴールドマンには関わらない』これは裕翔が唯一守っている、佐久間家の家訓であった。
「見てないです。何も。俺はそこのコンビニに行きたいだけなんで、失礼します」
裕翔は一秒でそれを言いきると、足早にその場を去ろうとした。
「――おい、佐久間じゃねえか?」
ナターシャに絡んでいた一人が、運悪く裕翔の知り合いだった。彼は金髪の美少女を一瞥してから、裕翔の近くへ走ってきた。
「なんだ、カズ先輩のダチですか」
「ああ、まあな」
残念そうに言う赤茶髪の少年に向かって鷹揚な返事を返した少年は、確かに裕翔の知り合いだった。
「……相馬か」
それは、近所に住む相馬和樹という少年だった。同じ中学校に通ったが、高校受験に失敗し、すでにゴールドマンの孫請け工場で働いていると、風の噂で聞いたことがあった。若い身体には、過酷な町工場の仕事をこなしたあとでもこうして仲間と集まって夜を過ごすだけの体力が内包されているのだろう。しかし、ゴールドマン系列の会社に職を得ておきながらこの町最大の禁忌を侵すとはと、裕翔は内心呆れかえっていた。
「お前さあ……やばいって。相手が誰だか分かってやってんの?」
「へっ! あの女が誰かって? 知らねえわけねえだろが!」
和樹の吐く息は、多分にアルコール臭かった。裕翔は、父親がゴールドマンには関わらないという家訓について語り出すときに、よくこういう匂いを発散させていたことを思い出した。
「酒を……飲んでるのか」
「飲まなきゃ、やってられねえ世の中だろ? なあ佐久間!」
和樹が裕翔の姓を再び口にしたその時であった。再びナターシャに絡み始めた少年二人を気づかわしげに見ていた裕翔は、信じられない光景を目にした。少年たちの背中に隠されて、ナターシャの動きは見えなかったが、二人の少年が、小さなうめき声と共に倒れたのだ。
「あんだぁ……?」突如見開かれた裕翔の視線を追って、背後の光景を目にした和樹は、千鳥足をどうにかコントロールして振り返り、「おい……お嬢様よぅ……俺の舎弟に何してくれたんだ?」と言いながら彼女に詰め寄った。
「――どけ」
「ああ? てめ、何いっ――!?」
ナターシャが低い声で、唸るように言った言葉に裕翔が驚くより先に、怒声で応じた和樹の身体が宙を舞った。
振り切られた彼女の細腕から、裕翔の方にまで風圧が伝わって来た。
どさりと地面に落ちた和樹は、ピクリとも動かなかった。それは先に倒れた二人も同様であった。
まさか、彼女が殴り飛ばしたとでもいうのか。何が起きたのかわからず倒れた三人を順番に見て、裕翔がナターシャに視線を戻そうとしたとき、彼女はすでに裕翔の目の前に立っていた。
「ひっ!!」小さな悲鳴と共に、裕翔は顔の前で両腕をクロスさせていた。しかしそのまま何も起こらず、ふわりと空気が動いて甘い香りがした。それは、金髪の美少女が裕翔の足元に跪いたことによって漂ってきた彼女の香水の匂いであった。
「お迎えに上がりました」
あり得ない。裕翔はそう思った。同じ高校、同じクラスというだけで、言葉を交わしたこともないゴールドマンのご令嬢が、夜中にコンビニ前で不良を殴り飛ばし、自分の足元に跪いて頭を垂れていた。
夢か。そう思った裕翔が、自分の頬を抓るというお約束の行動をとってしまったことは仕方のないことだろう。
頬にしっかりと痛みを感じ、裕翔が考えを整理できないでいるうちに、オートバイのエンジン音が近づいてきた。神奈川県警とロゴがプリントされた白と黒を基調とした模様のそれを運転しているのは、当然警官であった。恐らく、コンビニの店員が通報したのだろう。オートバイを降りた警官は、胡乱な目で裕翔とナターシャを見ていた。
「……ちっ」
立ち上がって、警官が近づいてくるのを睨みつけたナターシャは、右拳をギリギリと握りしめて向かって行こうとした。
「ちょちょちょ、よせよ! 警官だぞ!?」ナターシャの意図を察した裕翔は慌てて彼女の肩を掴んだ。
「あの者からは、敵意を感じます……。それでも、打ち倒してはいけませんか?」
「ダメに決まってるだろ! ええと、ミズ・ゴールドマン? ジャパンでは、警官に逆らってはいけないの! コームシッコーボーガイ! わかる?」夜中のコンビニで、ゴールドマンの娘と共に補導などという事態に陥れば、佐久間の家がどのような目に晒されるか、考えただけでも総毛立つ思いで裕翔は言った。
「ゴールドマン? わたくしたちの世界では、貴方様に逆らえる者などおりませんのに……。なんとおいたわしい……」
「……? あの、ミズ・ゴールドマンさん? 何を言って……」
近づいてくる警官から感じるプレッシャー、熱っぽい目と口調で訳の分からないことを言う金髪美少女の発する甘い香り、夏の夜の暑さと軽い脱水。それらの刺激は、裕翔の思考を乱し、正常な判断力を奪うには十分だった。
「さあ、参りましょう?」
そう。微笑む彼女の手を裕翔が握ってしまったことから、全ては始まってしまったのだ。