~プロローグ~
人間に仕えることを拒否し、天を追われて堕天した悪魔たち。
ある時から彼らは、地獄において人間と同じように暮らすように命じられた。
神の嫌がらせとしか思えない処遇に反発を強めたルシファーを始めとする地獄の王侯たちは必死に抵抗したが、人間の暮らしに慣れ始めた悪魔たちは、徐々に戦いに参加しなくなっていった。
かつてソロモン王に召喚され、地球においてもその名をとどろかせたソロモン七十二柱と呼ばれた悪魔たち。その序列二十九位、地獄の公爵であるアスタロトは、夕焼け空を見上げて大きなため息をついた。
悪魔の軍勢は、いつしかすっかり反抗心を無くしてしまい、天使の軍勢に抵抗しているのは、彼女を含めたごく一部の地獄の王侯だけになってしまった。
人間が暮らす、地球そっくりにされてしまった地獄の阿久間市一丁目。そこにはもう十七年も前から『下水道工事中』の看板が立てられ、縦横10メートルほどをフェンスで囲まれた工事区画がある。
下水道の工事をしているのならば当然かもしれないが、確かに区画の中心にはマンホールがある。しかしそこは、時々軽トラックが出入りしているものの工事らしい工事をしている様子は見られなかった。また夜中や早朝に若い男女の出入りがあるという噂があり、地元の悪魔―特に子供とその親は近づかない。
その工事区画の横にあるビルの屋上に立ち、フェンスに寄りかかって夕日を見ていたアスタロトは、振り返って眼窩のマンホールを見つめ、またため息をついた。
「ルシファー様……」
不意に南から吹いてきた風に乗せて、彼女は敬愛する悪魔の名を呟いた。
三日前の七月十八日金曜日。
『探さないでください』と題した書置きを残して、ルシファーが姿を消した。すぐさまそれを、阿久間市市長を務める七十二柱の序列第一位、地獄の王と呼ばれたバエルに報告したが「まあ、どこかで暮らしているならよかろう」とぞんざいに言われただけであった。
神以外の何者も、ルシファーを傷つけることなどできはしない。それほどの力を持ちながら人間ごときに仕えよなどと命じられ、それを拒否したルシファー。彼に従って堕天した悪魔たちであったが、神の策が見事に功を奏し、戦いに参加する者は激減した。神の寵愛を失い、共に地獄に堕ちた仲間たちまで失った。これでは来る最終戦争で勝つことなどできはしない。それがどれほどルシファーの心を傷つけたことだろう。
先日のバエルの対応にしても、冷徹に過ぎるというものだとアスタロトは歯噛みした。
『アスタロト様! 至急基地へお戻りください!』
アスタロトの頭の中で、ダンタリオンの声が響いたのはその時であった。ルシファーの残した手記をまさに寝食を削って解読し続けた成果が出たのか、彼の声は興奮した様子だった。
「ルシファー様は、地球へ行ったようです」
七十二柱の序列七十一位、学問の知識に秀でたダンタリオンが、大量の書籍とメモ書きに埋もれたまま、居並ぶ悪魔たちに報告した。
「地球って、人間が暮らすちっぽけな星でしょ? なんでそんなとこに」
床に両足を投げ出して座った状態で質問したのは、序列九位のパイモンであった。彼女の無駄に大きな声が、地下に造られた基地のむき出しのコンクリートに反響した。
「姿かたちは地獄にそっくりですけどね。ルシファー様の手記には、そこで本当の人間として暮らすことにしたから放っておけと書かれています」ダンタリオンは、書籍の山から這い出して立ち上がると肩を竦め「しかし、人間の世界が地獄にそっくりだなんて……皮肉ですねえ」と言った。
「ありえねえ。ルシファー様が人間になるだと?」
壁に寄りかかったままズルズルと崩れ落ちたのは、序列十五位の悪魔、エリゴスであった。自慢の槍に掴まりどうにか床に尻もちをつくことは避けたが、彼の顔面は蒼白だった。
「よーし、行った先が分かればなんとかなるよ! 探し物なら任せてよっ!」
愛くるしい少女の顔を持つパイモンが、平らな胸をドンと叩いて言った。
「…………見つけた!!!!」
しばし目を閉じて沈黙したのちパイモンが叫び、コンクリートの壁にひびが入ったが悪魔たちは気にも留めない。全員固唾をのんで、パイモンの言葉を待っていた。
「ルシファー様は、日本ていう島国にいるよ! アスタロト!」
「……はい」
アスタロトはパイモンに答えると、すぐさま旅立った。七月二十一日、深夜。この日は新月であった。