壁の音
どん……。
また、この音だ。
安アパートに引っ越してきてから、数日は落ち着いていたのだが、どうも不可解だ。
携帯電話の電源が切れていた時は充電し忘れたのだろうし、棚から落ちた本が散乱していたのだって重量制限している車道を大型トラックが無理して通った際の微震動が原因だろうと、ポストに入っていた広告や電気代の請求書を眺めながら考えていた。
近所で請求を済ませ、アパートに戻った。
「困るわぁ、こう何度も」
「あまり出なければいいのだけんど」
「迷惑よねぇ」
主婦と主夫が会話している。近々、本格的な工事があるらしい。
彼女たちに同情して部屋に戻った。
携帯電話が床に落ちていた。
どこかにぶつけた覚えはなかったのだが、拾い上げると、やはり充電切れだった。
夕飯を済ませると、ちゃぶ台を畳み、その位置に布団を敷いた。
寝ようと部屋を暗くした途端、鳴った。
どんどん、とノックするリズムに似ている。
ごろんと身体の向きを変えた。
布団から少し離れた位置、部屋に1つしかない扉の左側、壁のほうを注視する。
朧月、いやそんなロマンチックな光ではなく、きっと近くの街灯のぼんやりとした薄暗い光だろう。
壁が青白く照らされている。
どんどん。
何か、いる。
壁に点々と染みのような、顔だ。
瞼のような染みが二つ。鼻、口。かすかにそう見える。人の顔のような気がする。
じっとこちらを見ているような。
ぬっ、と浮かんで立体的に……どんどん。
私は壁の染みに背を向け、布団にくるまった。
音は強く連打されているようだった。
身体が震える。
厭な汗が溢れてくる。
枕を抱き寄せた。
音がする訳ない。
隣には住人がいないのだ。
この階には、私しかいない。
私は瞼を閉じた。
音は幾度となく壁の奥から響いていた。
烏の鳴き声で眼が醒めた。
朝になると、音は止んでいた。壁には滲みなどなく、あれは幻覚だったのだと思うとほっとしてコーヒー一杯飲んでから朝刊を取りに外へと出た。
ポストには広告らしき紙が入っていた。
夜間工事とのこと。
私はほっとした。
否、深夜にある筈がない。道路はやれるかもしれないが、アパートでそのようなことをすれば階下から苦情が出ることは間違いないだろう。
よく見ると、夜間の工事現場はここから程遠くないところであり、このアパートは地図の中心に過ぎなかった。だから勘違いしたのだろう。
つまり工事でも何でもない。
だったらあの音は――。
やはりこのアパートはぼろいのだ。
今日も部屋に轟いている。
そして壁の滲みは徐々に立体的に顔が浮かんでくるようだった。
気のせいだ。
そうは思うが、鼻らしき場所が微かに動いているみたいでもあり、やはり顔なのだろうか。
けれども誰とも知れない。
幼少期に会った誰でもない。
音は続いている。
耳が壊れる程ではないが、気になって気になって仕方がない。
私は顔を起こした。
壁の滲みを睨みつけ、
「うっさい!」
返事はなかった。
音は弱まった。
やがて止んだ。
どこか遠くでトラックやバイク、いつから降っていたのか雨の音がしている。
それに較べると。
部屋から音はない。
いなくなったか。
やはりいわないと解らないのだ。
私は安心して寝返りを打った。
顔だ。
見知らぬ一言も発しなかったよく見ると蒼白い顔は、その生気の抜けた両眼で私をじっと見返してくると、
「お前こそいびきがうるさいぞ」
誰でもない声だった。
「あ、すんません……」
そう答えられたかどうか――。
私の意識は遠退いていった。
〜あとがきらしきもの〜
分類が果たしてホラーなのか昨今の恐怖の在り方からすればよく解らない。