夢中の訪問者
東遷後、既に数年が経過していた。
エウロパ砂漠を越えた東方中央に広がる平原に、人族、エルフ族、獣人族そしてインム族達は種族ごとに小さくまとまりながら、幾つかの村を作って生活していた。
平原に着くや、クロスは野生の穀物と野菜類を選びだし、それらの伐採と種まきを指示した。一年目は食物に乏しく、皆等しく飢えていたが、少ない食料を公平に分配して励まし合って飢えをしのいだ。
二年目、待ちに待った収穫の時期を迎え、人々は作物を持ち寄り収穫を祝った。
東方は元来肥沃な土地らしく、食料事情は加速度的に改善されていった。
クロスは不思議なことに、東方の新しい作物についても熟知していた。
そして恐るべき東方の伝染病でさえ、この希代の英雄の前に屈した。
最初の感染者を隔離すると、またたく間にその患者から抗体を作り出したのだ。
「これが伝染病の抗体だ。誰か、被験体を、頼む」
患者から作り出した抗体を、身体に打つ事にみな躊躇した。みな周りの顔を窺い、沈黙した。
「では、私が打ちましょう」
手を挙げたのは、屈強な巨体の人狼、獣人族の司令官であるジルだった。
誰もが認める最強の戦士であるジル、彼は優然と立ち上がり、自ら人柱となる事を宣言した。
「いえ、私が……」「俺が……」「わたくしが……」
するとまるで堰を切ったかの様に、人々が薬の被検体に名乗りをあげだした。
不思議なものだ、最初の誰かが手を挙げると、途端にハードルが下がる。
結局、各種族から志願した一名ずつが被検体となった。
抗体の効果は素晴らしく、最初に感染した患者を除いて、黒致死病による犠牲者はゼロとなった。
今までのどんな戦よりあっけなく、最悪の伝染病は退治されたのである。
人々は再び狂気し、自らの英雄を誇った。
ダース族からの脅威から逃れ、伝染病の恐怖に打ち勝った彼らは、その人生で初めて〝安堵〟と呼べるものをその手にした。
『クロス様を、我らが王に! 我らが4種族に、永遠の平和を!』
再びクロスの戴冠の運動が沸き起こった。数十万にも及ぶ住民達をまとめるには、それらを統治する〝王〟が不可欠だった。
そしてその〝王〟に相応しいのは、彼しかいない。
「王にはならない。各種族の村々から代表による会議を開き、その決定にしたがうように」
クロスは従来どおり、頑として戴冠を拒否した。それは、流民の長に過ぎなかった頃から、変わらない。あの時と今とでは、領土の大きさも領民の数も桁違いだったが、今なお王になる事を拒否していた。リリーヌは、その徹底した姿勢に、彼の確固たる信念を感じた。
エルと聞いた異世界の話を思い出した。あの世界の政治制度を、この世界に根付かせようと、本気で思っているように感じた。
その確固たる信念に、とうとう群衆達が折れた。
クロスを王につけることをあきらめ、その指示通り各種族が会議をつくり、その決定に従うこととなった。
クロスには、王位にかわって姓が贈られることになった。
『クロス・ウル・フィフスガルド』
ウルは古エルフ語で王、フィフスガルドは神々の言語でこの世界を指すされる。
〝世界王クロス〟それが彼に贈られた称号だった。
クロスはこの実体のない称号を苦笑しながら受け取った。
数十万の市民が参加して催された、壮麗な戴冠式。各種族の思いが一つになった歴史的な瞬間ーーしかし皮肉にも、この戴冠式が4種族が一つの存在であった最後のひと時だった。
戴冠式が終わると、獣人達は彼らの気候に適した北方の大森林地帯に移り住み、エルフ達は新天地を求めてさらに遥か東へと向かうことを希望した。
残る人族達はローラントを指導者として中央平原に国家を築いた。
クロス自身は、エウロパ砂漠のオアシスに居住するという。万が一、西方のダース族が侵入してきた場合は、かの地で再び剣を取り、人々の盾となる覚悟なのだろう。
そして強い男の下に集まるのがインムという種の性である。彼のお膝元のオアシスに多くのインム達が集まり、さらに彼女たちを求めて人族の商人たちが砂漠を越えて物資を持ち込んだため、エウロパは都市として栄えた。
リリーヌは、クロスの秘書官として、インム達の事実上の長として、これまで以上の政務をこなした。
新しい時代が到来していた。新規に開墾した土地の私有を認める勅令が出されて以来、みな先を争って新たな土地を開墾していた。
収穫高は集団農場の頃の数倍になり、商才と努力したいで豊かになる者がでてきた。力ではなく金が重要となる世界、それが東方の新しい価値観だった。
しだいに新しい力ある者、資産家と、力なき者達の貧富の差が開いていった。
リリーヌの種族であるインムの多くは、後者に属していた。
怠惰で優れた力も持たない彼女達は、インム最初の仕事に就く事を望んだ。すなわち金を持つ人族の男達に春を売り、また彼らに自分自身を〝購入〟させ、専属とさせた。リリーヌ達が命を賭して否定した西方の奴隷制、それが新天地である東方において復活しつつあった。
自分たちは、何のために命を賭して戦ってきたのだろう、エルは、何のために命をおとしたのだろう。そんな感傷に浸る暇もないほど、リリーヌを悩ましたのは、インムと人族の女達との間の軋轢だった。
インムの女はみな美しく、魅了の魔術に長け、そして年をとらない。そのことは、多くの人族の女達の嫉妬と怨嗟の声を生んだ。しかし、女しかいない種族であるインム達には、人族の男たちが必要であった。今や、人族の女達とは衝突寸前となっていた。東方に到達するという目的のために、共に力を合わせて戦っていたのは、遠い昔の記憶となりつつあった。種族の垣根なく勝利を祝ったあのルティティアの宴が懐かしかった。
インムであるリリーヌ自身も、老いはしない。しかし寿命はある。現に周りの者達の多くが、東遷の役を知らない世代に変わりつつあった。遅からず、あの苦労を知っているのは不死である使徒クロス一人となるだろう。この先、一体誰が彼に従っていくのか?
一人思い悩むリリーヌの心を見透かしていたかのように、ある日彼女はクロスの執務室に呼び出された。
「君を、女神ベルの使徒である私の眷属としたい。いっそう苦難の道を、歩んでもらうこととなる、が……」
珍しく陰鬱な面持ちで語る彼の言葉に、リリーヌは衝撃を受けた。使徒の眷属、それは使徒が共に生きると定めた者に、その神気の一部を提供する眷属契約、寿命は無限となり永遠に彼の側に仕えることとなる。
そして彼の元には、他に眷属はいなかった。人族の指導者であるローラントは、加齢し既に老齢の域に差し掛かっているため、眷属ではない。彼はあくまで唯の人族として生きることを望んだようだった。獣人族であるジルは眷属であったとされるが、遠く北に旅立った以上、確認が取れない。
少なくとも、女性唯一の眷属であるリリーヌは、使徒クロスの生涯の伴侶として選ばれたに等しかった。
まさに、天にも昇る気持ちだった。今までの苦労、苦難の道のりを耐えた思いを、この人はちゃんと見ていてくれてた。自分は眷属に、この人の生涯の妻にと選ばれたのだ。彼となら、いかなる苦難の道も、歩むことも厭わない。
そう喜ぶリリーヌの姿を、クルスは憂いを含んだ瞳で見つめていた。まるで湖面に照らし出された月のように、静かで冷たい、だが底知れぬ決意を秘めた瞳だった。
すべての悩み、苦悩が露のように散り去ったその日の夜、リリーヌは久方ぶりに心地よい夢を見ていた。
ここはどこだろうか、まるで雲の上のような、浄化された世界。願わくば夢の中でエルやセリナに会い、祝福してもらうことを望みながら、夢の続きを待った。
だが、その夢の中に現れたのは、彼女が予想だにしない存在だった。
目の前に立つのは、銀髪の少女。放たれる神々しいばかりのオーラと神装束は、彼女が大いなる神族である事を示している。
「はじめまして、女神ベルダンティが使徒クロスの眷属、リリーヌ。あたしは、女神スクルド」
女神スクルドーー神話の姉妹神が末妹にして、インムという種族を創造した女神。確かに、姉である女神ベルダンティと似ている。唯一、目だけは彼女と違って小動物の様に愛くるしいが、その瞳は悲しみに満ちており、涙で潤んでいた。
「……インムの女王、リリーヌ。あなたに、お願いがあります」
〝インムの女王〟ーーそうか、自分より年上のインム達は、もうみんな死んでしまったのか。あのヘレネも、もう生きていないのか。そんなことを思いながら、リリーヌはスクルドの次の言葉を待った。
「あなたたちの種、インムは、滅亡の危機に瀕しています。このままでは、ある男によって、インムは一人残らず絶えてしまうでしょう。もう……あなたにしか、頼める人はいません」
〝インムの絶滅!?〟スクルドの口から語られるその言葉に衝撃を受けながらも、だがリリーヌはひるまなかった。
いまや、自分はあのクロスの眷属なのだ。いかなる苦難ですら、彼と共になら乗り越えてみせる。今やその苦難の道すら、愛おしい。
「インムを絶滅へと誘う、その男の名はーー」
だがスクルドが語ったその言葉は、彼女の全てをその根底から、永遠に打ち砕いた。
ーークロス・ウル・フィフスガルドーー
新人賞応募用作品が、ほぼ完成したので、こちらも少しだけ再開します。