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旅立ちの日

終業式の次の日、僕は3月末日までは高校生であるという肩書きを武器に、ぼんやりと一日を過ごしていた。一週間も経てばなにかに急き立てられるように次の段階へ移行せざるを得なくなる。ならばせめてそれまでは休みを満喫していたいと思っていた。

 けれど僕は一つのことに気がついてしまった。

 手紙である。

 昨日の終業式で、憧れていたクラスメイトの一宮詩織さんに渡されたいかにも女子っぽくたたまれた手紙。その存在を思い出した途端、僕はだらけるように寝そべった態勢から跳ね起きた。

 あの存在を忘れていたなんて…ぼんやりにも程があるぞ、自分。

 自分を叱咤しながらも体は俊敏に動いていた。ハンガーにかけられた、もう着ることはないであろう制服のポケットに手を入れる。勢いでぐしゃぐしゃにしないよう注意深く、はやる気持ちを抑えて取り出されたそれは、渡された時と同様に粉薬を包むような形で僕の手のひらに乗っていた。

 思わずごくりと唾を飲みこむ。無理もない。彼女は伏し目がちに、実に恥ずかしそうにこれを渡してきた。

しかも昨日は卒業式だった。もう二度と会えないかもしれないクラスメイトに顔を真っ赤にして手紙を渡す女子…しかもそれは僕の想い人だ。緊張するなと言う方がどうかしてる。そんなことを不躾に言う奴はきっと、闇色の青春時代を送ってきたに違いない。

いるかどうかもわからない闇色の青春時代を送った誰かを嘲り気を紛らわせてみたものの、僕の手の震えは収まらなかった。小さな包みを少しずつ、震える手で紐解くのは難儀だったが、破いて読めなくなっては困る。

そろそろと徐々に開かれたそれをようやく開いた時、僕の思考回路は遮断され脳の動きは停止してしまった。

『約束を覚えてる?10時に桜の木の下だよ』

それは確かにその後を期待させる呼び出しの文章だったけれど、僕の脳を支配したのは喜びよりも驚きだった。

僕には約束をした覚えなど、これっぽっちもなかったからである。




「あ、来た!」

 実は一宮さんは来ておらず、これは僕の気持ちを踏みにじるようなクラスメイトのドッキリだった…なんて考えが頭の片隅にあったのだが、どうやら杞憂のようだった。

一宮さんは邪気のない笑みでこちらに手を振っている。今まで制服しか見たことがなかったが、私服も彼女によく似合うよう選ばれていて、なんというか、その、凄く可愛かった。

これが満開の桜の木の下であれば、シチュエーションのポイントが加算されて神々しいほどの絵になっただろうに、何故か桜の木は花びらを全て落とし枯れ果ててしまっていた。僕らが入学してから植えられたそれは当然寿命ではなかったし、3月はまさに桜のシーズンなのにどうしてこんなことになってしまったのか。誰かが呪いではないかとからかい混じりに言っていたが、臆病な女子なら信じてしまいそうな異常な事態だった。

けれど僕は別段着にしなかった。何故なら他に気にするべき人がすぐ目の前にいたからだ。

「ごめん、遅れて」

「いいのいいの」

 ふるふると頭を振る一宮さんのぱらぱらと散らばる毛先にすら見とれていたから、僕は彼女の悲しそうな声音を聞くまで、彼女が悲しげに笑っているのに気がつけなかった。それは気が動転していたんだという言い訳すら惨めな僕の失態だった。

「手紙を見て、来てくれたんだよね」

「うん、そうだけど…」

「約束、は、覚えてた…?」

 なにかに期待するかのような彼女の表情に、僕はなんと答えていいのかわからなくなった。

 僕は覚えていなかった。約束したことすら、覚えていなかった。そもそも約束したことが本当のことかどうか疑わしいくらい、記憶になかった。けれどそれを伝えてしまうと一宮さんは泣きだしてしまうのではないか。僕は嫌われてしまうのではないか。

 心配という純粋な気持ちと、嫌われたくないという邪な気持ちに、本当のことを話したほうがいいという正義的な気持ちが入り交じって言葉を発せなくなった僕を見つめて、彼女はまた悲しそうな笑顔になってしまった。

「そうだよね…覚えてたら、桜が散るわけないよね…」

 一宮さんがなにを言っているのかよくわからなかった。桜が散ったことと僕が約束を忘れてしまったことと、まるで結びつかない二つが大いに関係があるという口ぶりだった。

 僕は唖然として開いてしまった口を動かして、なんのことかを訪ねようとした。しかし一宮さんはその前に、くるりと後ろを振り返ってとことこ歩くと、ある一点を指さした。

「須田くん、彼が見える?」

何もない一点を指してそういう彼女の頭を、僕は真剣に心配した。

わけがわからない。

約束、桜、そして…彼?

また何かを期待するようなすがりつく子犬のような目をしている彼女を突き放すように、僕は無意識に言葉を発してしまっていた。

「からかってるの?」

「…そっか」

 一宮さんは残念そうだった。全ての意味がわからなかった。勝手に期待されて勝手に残念がられて、僕は彼女への気持ちと自分のプライドで板挟みになってしまった。

 なんだこの反応。僕がおかしいのか?もしかしてやっぱりドッキリだったのか?それなら早く誰でもいいから「ドッキリでした」ってカードを掲げて来てくれ。

 数秒が数時間に感じられるような重苦しい雰囲気の中、僕はうるさいほどの自分の心音と同じリズムで何かがやってくるのを感じた。

 それは頭痛だった。

 ずくん、ずくん、ずくんと一定のリズムを保って僕のこめかみを刺激していた。

 一度頭痛に気づいてしまうと、もう無視はできなかった。頭を攻める頭痛は、その痛みをもって心も責めているみたいだった。

 ずくん、ずくん、ずくん。

 帰りたかった。重苦しい雰囲気にも耐えられず、急激に頭痛が襲いかかってきて、なにもかもがわからない。

 そんな僕を、彼女の真っ直ぐな目が捉えた。

 真っ直ぐに、奥の奥まで見透かすように見つめて、彼女は言った。

「須田くん、忘れちゃったんだね」

 その言葉に反応したかのように、僕はそこで意識を手放した。




声がする。

まるで授業をしているかのような、何かについて淡々と説明する声がする。

真剣に聞いている、相槌を打つ声がする。

どちらも僕には馴染みのある声で…けれど馴染みのないシチュエーションだった。


意識が戻った時、僕は同じ場所にいた。けれど状況は全く違った。

僕が呼び出されたのは太陽の光が眩しい朝だったが、今は月がぼんやりと光る夜だった。おかげで星がきらきら瞬いていて、この状況下にいる一宮さんもきっと絵になるだろうと思った。

けれどここにいるのは一宮さんではなかった。誰かに真剣な表情で説明を続けるその声も、更には顔も、彼女とは似ても似つかないものだった。

(教頭先生…?)

 驚くことにその人物は教頭先生だった。しかも卒業式に見た姿ではなく、学校に通っていた頃よく見かけたあのたっぷり太った姿だった。これが何故あんなに痩せ細った姿になってしまったのか。噂を耳にしたことはないが、病気か何かだったのだろうか?

 たっぷり太った教頭先生はぼんやりしている僕を無視しているのか気がついていないのか、延々と説明を続けていた。僕は話している内容を理解するより先に、この状況を理解しておきたかったので首を巡らせた。そして驚くものを目撃してしまった。

 単に今が夜で人物が一宮さんから教頭先生に変わっているなら、それは時間の経過による人物の入れ替わりだけで説明できるはずだった。なのに教頭先生に教えを請うている生徒はそれだけでは説明できない存在だった。

 それは僕だった。

 ぼんやりしたあまり特徴のない容姿に、声変わりを経て男のそれになりつつも普通よりはやや高めの声。

僕だった。寸分違わず僕だった。…いや、寸分違わないというのは正しくない。もう一人の僕は制服を着ており、今よりもう少し髪が短かった。しかも教頭先生の説明に「はい、はい」と相槌を打つその表情は眉根を寄せて厳しい顔をしており、自分が見てもいつもよりはやや凛々しく見えた。

しかし制服を着ようが髪が短かろうが、どんなに凛々しく見えようが、結局それは僕でしかなかった。

 もう一人の表情に反して僕は呆けた顔をしていただろう。目を覚ましたら僕がいたことなんて今までになかったし、恐らく全世界でも僕ぐらいしか遭遇したことがないに違いない。もしかしたらこれは世に言うドッペルゲンガー現象ではないだろうか。だとしたら僕は後二人僕を見つけると死んでしまうことになる。

 冗談のような話で気を紛らわせてみたが、太った教頭先生も、いつもより凛々しい僕も消えなかった。呆けた表情のまま座り込んで二人を眺めていると、そのうち教頭先生の説明が頭に入ってくるようになった。

「君が知ってしまった通り、この街の住人は1年分しか記憶を保持できない病気にかかっている」

 初めて頭に入ってきた内容が衝撃的すぎて、再び意識を手放しそうになった。

 なんだって?

 病気?

1年分しか記憶を保持できない?

何を言っているのか理解できなかった。理解しようとすらできなかった。僕だけじゃなく街の人間全員がその病気にかかっているのか?そんな話は聞いたことがない…のは、みんなその記憶を失っているからなのか?じゃあなんで教頭先生はその話を知っているんだ?

思考がぐるぐると回りだし、頭痛がぶり返してきそうだった。しかし視界に映る僕は凛々しい顔をしたまま「やっぱり…」などと呟いていた。僕にはなにがやっぱりなのかもわからない。1から10まで説明してくれなければ理解できない、なんて甘えた考えすら浮かんでくる。

「君の願いを叶えることは可能だ。しかし、それには覚悟がいる」

「それでも僕は覚えていたい…忘れたくないんです!」

真剣なもう一人の僕は「覚悟がいる」という言葉にも怯まなかった。

 完全に置いてけぼりを食らった僕は、二人を見つめていてとあることに気がついた。

 彼らは僕を一度足りとも見ていない。確かに僕は言葉を発したり大きく動いたりしていないが、それにしても二人とも僕に気が付かないのはおかしい状況だった。

まるでいないかのように扱われているのは恐らく、いじめの類ではないのだろう。

いないのだ、僕は。

ここにいるのは教頭先生ともう一人の僕だけで、僕はここにはいない。いや、確かに僕はここにいるが知覚されていない。

はは、と僕は力なく笑った。笑ったつもりだったが僕の耳にすら僕の声は届かなかった。

 僕を無視して、会話は続いている。

「僕はもう、2人に悲しい想いをさせたくないんです」

 2人って誰だろう。僕は誰かに悲しい想いをさせたんだろうか。そういえば気を失う前に一宮さんが悲しそうな顔をしていた。意味がわからないことだらけだったけど、帰ったら謝らなくては。帰れるのかどうか、帰るという言葉が適切なのかどうかもわからないけど。

「…君と記憶を繋ぐ鍵を、この桜に担ってもらおうと思う」

「桜に…?」

教頭先生がポンと太い腕で太い幹を叩いた。そこで僕はようやく気がつくことができた。

桜が咲いていた。あの若々しくて綺麗な桜が、満開だった。

そうか、これは夢なんだ。だって僕が一宮さんと会った時…更に遡れば卒業式の日に、桜は全部散ってしまったんだ。

僕の思考が伝わってしまったのだろうか…きっと偶然だったのだろうが、教頭先生は僕の考えを否定するような言葉を口に出した。

「君が再び物事を忘れるようになった時、桜は散る」

「…それで僕が忘れていることを思い出せるようになるんですか?」

「いや、君はきっと忘れていることすら忘れるだろうし、桜のことも忘れるだろう。鍵のことを覚えていて君が負けたことを悟るのは…あの2人だ」

「2人が…」

ずくん。

消えていた頭痛が復活した。

こめかみを中心に頭全体を覆うような鈍い痛みが再び襲いかかってきた。

 額に触れる。熱はない。だが痛みはどんどん増していく。一宮さんといた時のそれより酷いのではないか。

ずくん、ずくん。

「それでも、お前は力が欲しいか」

途端に目の前が真っ暗になった。既に経験していることだからか、僕は些か冷静さを取り戻しているように思えたが、それは狼狽した僕の妄想だったかもしれない。

気を失う前に、桜に触れたまま、力を吸い取られるように痩せ細っていく教頭先生が見えた。




再び目を覚ました僕の視界に、一宮さんが映った。けれど今日会った一宮さんではない。僕達が3年間過ごした学校で、制服を着ている一宮さんだった。

傍らにはやっぱり僕もいた。凛々しい顔をしていた僕ではない。いつものぼんやりとした…少々幼く感じるくらいの僕だった。

「お前は馬鹿だな」

 僕の耳に、僕のではなく、ましてや一宮さんのものでもない声が響いた。僕のものよりも低くて男らしいその声は、聞いたことがないのになんだか懐かしい気持ちになる声だった。

「もう、中村くんったら」

 一宮さんが眉根を寄せて非難するような声を出した。もう一人の僕は苦笑していた。

 僕は二人の視線が向かう前に自分も視線をずらした。

視界に入ってきたのは見たことも…ない?男子生徒だった。同じ制服を着ているということはクラスメイトなのだろう。

いや、クラスメイトだった。転校生で、初日からなんだかぶっきらぼうで、そこがいいよねって言う女子生徒が結構いた。

 中村浩二。街の人間じゃないから病気にかからず、それ故にいずれは誰からも存在を認識されなくなるであろう少年。それを知ってなお、寂しくないと嘯いていた俺の友人。

「でも、本当に大丈夫なの?須田くんに万が一のことがあったら…」

 僕のことを本気で心配してくれている一宮さんは「忘れられない」人だった。忘れてしまうことが当然のこの街で、彼女は唯一の、奇跡のような存在だった。

「大丈夫だよ」

 僕は2人に誓った。いずれ忘れられてしまう彼と、いつまでも覚えている彼女に誓った。

 忘れない。

寂しい思いなんか絶対にさせない。


…記憶が波のように、僕の中に戻ってくる。




「須田くん!」

 名前を呼ばれ僕は目を開けた。視界に一宮さんの綺麗な顔がいっぱいに広がっていて、僕は危うく跳ね起きて彼女に頭突きをかましそうになった。

 ぶつからないように恐る恐る起きる。僕は元の場所に戻っていた。昼間の校舎横で一宮さんと会って倒れた後に戻っていた。

「一宮さん…ごめん、僕、忘れてた」

「ううん…いいの。須田くんが無事でよかった…」

 一宮さんは優しい人だった。僕は約束を違えてしまったのに、彼女はそれを許してくれた。一度は彼女をおかしい人扱いした自分をいたく恥じてから、僕は視線を上げた。

少し離れた位置に、彼はいた。

「…久しぶり」

 僕の横で一宮さんが息を呑む音が聞こえたが、男は少しだけ眉根を寄せただけだった。

 けれど僕は覚えている。彼は照れた時、嬉しい時によくこの顔を作っていた。

「おせーんだよ」

「ごめん、浩二」

 僕は苦笑した。一宮さんは泣き笑いのような笑みを浮かべていた。

 浩二は僕の謝罪を鼻で笑った後に、ぽつりと「ありがとな」と呟いた。

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