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ハネ・ムーン

作者: 藤澤流砂
掲載日:2026/01/31

 さっきまで水平線からぎらぎらと光を放っていた太陽も顔をかくして、西の空は妖しく赤紫色に染まっていた。昨日ちゃぷちゃぷと遊んだ群青の海とねずみ色の浜は、今はどちらも墨を落としたような黒で、その境目は目を凝らしても分かりそうにない。遠くから鳴る砂を洗う音と、鼻をつく磯の香りの混じった空気だけが、ここが確かに海辺であることを教えている。

 少し離れて立つ吉野を見れば、彼女は身じろぎの一つもせずに、ただ目を細めて、日の沈んだ方をじっと睨んでいた。不意に街の方から風が吹いて、彼女の、すべての色を吸い込むような黒髪がぶわりと巻き上がる。それは陰になった横顔をすっかり隠してしまって、しかしそれでも彼女はその暴れた髪を直そうとさえしない。

「ね、吉野」

 彼女は私のことをやっと思い出したみたいに、肩を一度跳ねさせる。私が少しだけ身体を寄せると、彼女はあまりにも平坦に、しかしその奥底に諦めをにじませて、砂浜の上にぽすりと落とすように声を出した。

「なんですか、小峰さん」

 実際のところ、私はそれにつなぐ言葉を思いついていなかった。だから、その代わりにつま先で足元にちょうど転がっていた石を蹴ろうとして、サンダルを履いてきたことを思い出す。振り上げた足は、行きどころを無くしてしばらくさまよったあと、ずれた靴を直すみたいにとんとんと砂地をたたいた。

 本当は、私には彼女に言わなければいけないことがある。私たちの旅行の最中、ずっと頭の中をぐるぐるし続け、さらにはだんだんと大きく膨れ上がりさえしたそれを、それでも私は、最後の夜まで口にできていなかった。荷が重い、というのは少しだけ違う気がする。結局、私たちが先輩、後輩として、友人として、あるいはそこから形を変えて過ごした七年半は、しかし彼女の核心に踏み込むには短かったということなのだろう。

 この街には、吉野の父親が住んでいる。

 ついて来てください、とある日の夕食の終わりに彼女から頼まれたとき、私はいいよと応えたはずだけれど、果たしてその声、その瞳が揺らいではいなかったかと問われると、あまり自信がない。それでも、かちゃかちゃと食器を洗う音だけがしていたあの部屋で、身体の熱が一気に冷めるような感覚がしたことだけは覚えている。

 それは、電車とバスを乗り継いでこの街に足を踏み入れてからもたびたび現れた。少しだけ季節の外れた海遊びをしたり、近くの灯台まで足を伸ばしたりしたその最中に、浮かんでは消えて、やがて不意に口から漏れそうになったその言葉、彼女の父親の話は、しかしその度に、すんと突きつけられる恐れが喉を刺して、結局いまだにそっと触れることさえできていない。

 彼女は私からするりと目線を外して、夜の帳の、その向こうを覗くように、また横顔を私に晒した。肩が彼女の呼吸に合わせて規則的に上下する。それがだんだんと波の音とそろっていくのを見て、私はそっと膝を折ってその場にしゃがみ込んだ。デニム生地が太腿でぴんと張る。彼女の見つめる方に目をやれば、数瞬前までは確かになかった星の粒が、途切れることのない光を放っていた。

「行きましょうか」

 小峰さん、それは私の名前のはずなのに、妙になじまなくて、彼女の声がこびりついたように耳に残る。あ、うん、と口から声が漏れて、それから私は緩慢に立ち上がった。彼女は私を一瞥すると、とすとすと歩き始める。私は彼女の進む軌道をなぞるように、その背中を追った。

 砂浜はやがてアスファルトの道へと変わった。彼女は相も変わらず、真っすぐに歩き続ける。彼女の握るスマートフォンの光が、ちらちらと髪の隙間から煌めいた。サンダルの裏にくっついた砂粒が、アスファルトの凹凸と擦れてじゃりじゃりというのが分かって、私はわざと足を引きずって歩く。

 そういえば、彼女はどこに向かっているのだろう。薄暗い路地にぽつんと立つ街灯が、縦に並んだ私たちを照らす。頼りなく明滅する蛍光灯にあてられて、私はふらりと柱に立ち止まった。彼女はくるりと振り返って、じっと私を見つめる。黄色がかった光がちらちらと彼女の瞳の中に映った。

「どうしたんですか」

 今だけは、彼女のその声が恐ろしい。そろりとそらした目を、私たちの周りに広がる薄闇に凝らすと、ぼんやりと、道の両側に迫る家が浮かび上がった。

「なんでもない、行こ」

 私がそう言うと、彼女はぽつぽつと歩き始める。彼女はすぐに陰に吸い込まれていって、私は慌ててそれを追いかけた。彼女はきっと、父親のところへ行く気はないのだろう。私はそう思っている。そして私は彼女の先輩であり、恋人であり、しかし私は、何も知らないふりをして、ふらふらと彼女の後についていくことしかできない。それはとても悲しいことで、それでも仕方のないことなのだと私は思うことにした。

 路地の暗がりは、一瞬にしてナトリウムランプの光とアスファルトを転がるタイヤの轟音に塗りつぶされて、私はやっと顔をあげることを思い出した。ここはこの地域の幹線道路なのだろう、自家用車からトラックまで、私たちの横をかすめていく。彼女は髪をぎゅうと抑えながら、路側帯を縫うように歩いて、やがてぴたりと、その大通りに並ぶ建物の一つの前で立ち止まった。

 彼女に従って一軒家のようなそれを見上げてみると、そこはどうやら居酒屋のようで、それを見てやっと私は、今日はどこか外で食べようと話していたことを思い出した。道沿いに立てられたくすんだ看板が、私たちを拒むように、じりじりと光っていた。

 突然ひゅうと吹いた風が、喉のあたりにひやりとした冷気を当てて、私はようやく首を晒して看板を見上げていたことに気が付いた。彼女はもう営業中の札の立てかけられた入口のあたりまで進んで、こちらを振り返って私を待っている。

「ほんとに入るの」

「ここしかなかったんですよ」

 彼女はそういうと、私にじいと目線を送った。入口の引き戸に嵌められた曇りガラスの向こうは明るく、かすかに人の声が漏れ出ている。ひやりとしたアルミの取っ手を掴むと、私は一つ息を吐いて、それからえい、と扉を開け放った。

 とたんにしんと静まり返った店内は、やがてざわざわと、一応の賑わいを取り戻す。いらっしゃい、とぶっきらぼうな声がして、私たちは二人で目を見合わせた。

「あ、二人です」

 私は指を二本立てて示してみせる。店主はこちらを一瞥すると、入口近くのテーブルを指差して、それから常連らしい人達との会話へと戻っていった。私たちはそれを邪魔しないように、そろりと椅子を引いて、その二人がけのテーブルへとつく。そして、彼女が頭をぐるりと回して壁に貼り付けられたメニューを見るのを、私は頬杖をつきながら眺めた。

「小峰さん、なんか頼みますか」

「吉野に任せるよ」

 そう言うと、彼女はすみません、とカウンターに向けて手をひらひらさせる。ぴんと伸びた彼女の指はやがてへにょりと曲がって、さっきの店主がテーブルのそばへと立った。部屋の角では、もう今年の役目を終えた扇風機が倉庫へと仕舞われるのを待っている。ええと、と一息ついてから、つまみになりそうな小鉢の類と、それから旬の刺身盛り合わせを一皿、彼女がすらすらとなぞるように挙げるのに合わせてうんうんとうなづいてみていると、小峰さんはどうしますか、といきなり尋ねられて、私はえ、と声を漏らしてしまった。

 あ、うん、ビールでいいよと私が返答をすると、彼女はなんでもないようなふうに、じゃあ、と大瓶一本とコップ二つを頼んだ。店主は手元の小さなメモ帳にあれこれと書きつけてからカウンターの中へと引っ込んで、私たちの間にはじっとりとした沈黙が流れる。

 私たちが手元のスマートフォンと睨めっこしていると、目の前にぽすりと、きゅっと絞られたお手拭きが置かれた。それに手を伸ばして、くりくりとねじりをほどいていると、続けて、お通しと、栓の開けられたビール瓶が出される。瓶の口から白い煙がつうと立ち上って、わたしはグラスを彼女に持たせると、ひやりと露のついた瓶を傾けた。その後に、今度は私がだとか手酌でいいだとかの押し問答を一応してみて、それから私たちはグラスを合わせる。ちんと小高い音がして、細かい泡が揺れた。

「明日で終わりだね、旅行」

 私は塩辛の小鉢を摘みながら、そんなことをこぼしてみた。吉野の肩がぴくりと揺れて、しかし彼女はそれを隠すようにそうですねと笑うと、くぴくぴとグラスの中の液体を飲み干す。そういえば、吉野はビールが好きだったことを思い出す。しかし、そうはいっても、その飲み方はむしろやけっぱちになっているように思えた。

 とくとくと自分のコップにビールを注ぐ彼女を見ながら、私は彼女にならって、喉を二回鳴らす。正直なところ、私はビールがあまり得意ではなかった。口の中いっぱいに青臭い苦味が広がって、私はごくりとそれを飲み込むと、また塩辛を一本箸で持ち上げる。次は日本酒でも頼もうかな、と、メニュー表を手に取ってじっくりと見渡した。見慣れない名前のお酒は、このあたりのものだろうか。私はその中から一つ、名前の綺麗なものを選んで、店主へと伝える。

「じゃあ、明日、どうしますか」

 彼女はそんなことを言った。その声があまりにももそもそとしていたから、私は彼女の瞳をじっと覗いてみると、その目は右に左に逸らされて私の目と合おうとはしない。

「吉野の好きにすればいいよ」

 少しだけ突き放した言い方をしてしまって、私はちらりと彼女の顔色を確かめた。彼女の目はわずかに開いて、視線がやっとこちらを向いたかと思えば、すぐに机の上へと落ちていく。好きに、ですかという声は、常連客の喧噪にかき消されて、テーブルの向かいに座る私の耳にさえ、かすかにしか聞こえなかった。

 徳利とお猪口と、さっき頼んでいた小鉢やら刺身の盛り合わせやらが一気にテーブルの上に置かれて、私たちの目の前は途端にごちゃつく。先、食べちゃお。私がそう言って一切れの刺身に箸を伸ばすと、彼女もそっとその皿に箸を近づけた。やわらかな弾力のある魚の身には、甘い脂がのっていて、きっと美味しいものなのだろうけれど、しかし今の私には、その味を楽しんでいる余裕なんてない。私はただ、向かいに座る彼女のことを確かめながら、もちゃもちゃとその食事を楽しんでいるふりをすることしかできなかった。

「お父さんの所、行った方がいいと思いますか」

「どうだろね」

 その皿があらかた片付いて、彼女がそんなことを言うので、私は椅子に深く腰を沈めた。親指と人差し指でお猪口を持ち上げると、その中で透明な液体がゆらりと揺れる。それを一口啜れば、ふわりと花のような香りが鼻に抜けて、かっと、喉からお腹にかけてぼうと燃えるような熱が宿る。

「でも、行かなくていいよ、とは、私からは言えないかな」

 その熱に急かされるように、私はそんな風に言ってみて、それから、行った方がいいとも言えないけど、と付け足す。そうですよね。彼女の口から漏れた返答はひどく平板な声で、しかし次には、私にも日本酒もらっていいですか、と、いつもの調子で笑っていた。いつの間にか、ビールの瓶は彼女が空にしていたらしい。私が注いであげよう。私は芝居くさく彼女に合わせて笑って、とくとくと徳利を傾けると、ありがとうございます、と彼女もまた頭をぴょこりと下げるしぐさをする。私は彼女より一年ほど長く生きていて、この歳になればそんな差など些細なものかもしれないけれど、それでも少しだけ、先輩風を吹かせたいときもあった。

 彼女はそれをこくこくと飲み干すと、ふうと首をかしげる。また、そこには沈黙があって、私はそれをごまかすために、舐めるようにそのお酒を飲み進めた。

「そういえばさあ、吉野のお父さんって、どんな人なの」

「分かんないんです、あまり」

 酒の勢いでそう切り出した私に、彼女は指でテーブルの木目をなぞりながら、独り言のようにこぼす。ほとんど写真でしか知らないんですよね、と続けるころには、彼女の指先の軌道は渦巻の形になっていた。彼女はその手を不意に徳利へと伸ばすと、彼女の前のお猪口の、その縁の際まで、ぴたりとその中身を入れてみせて、それからまだ少しだけ中身が残っていそうなそれを私の器に、もらってください、と注ぐ。そうして、彼女はまた新しい銘柄をカウンターの中に向かって頼んだ。

 一仕事を終えたみたいに彼女は、その中身をくいとあおると、ふう、と少しの間だけ遠くを見つめる。それから、私の目をじっと覗いてきて、私は机の下で両手に力を込めた。

「私の親、私が小さいころに離婚してて」

 彼女がありきたりなんですけどと言いながら話すその言葉たちに、私はしきりに相槌を打つ。握り締めた拳はまだほどけていない。

「いまさらですよね」

 彼女はへらりと私に笑いながらそんなことを宣って、さらにぎゅうと力が入る握り拳には、さっきとは違う熱がこもる。それは私の体を巡るエタノールのせいだろうか。しかし私は不意に湧いたその激情を抑え込むように、ふうと一つため息をついた。ならば果たして、そんな彼女にどんな言葉をかけるべきだろう。

「なんで」

 私の短い逡巡は、そのありふれた三モーラへと集約された。ふっと両手の力をほどいてみる。さっきまで手のひらで渦を巻いていたエネルギーはもうすっかり無くなってしまって、じわりと汗だけがにじんでいるだけだった。なんで、そんなことを言うの。そんな風に笑うの。しかしその先に継ぐ言葉は声にならずに、その手のひらに溜まった汗の一滴になってしまったようだ。

「だって、仲がこじれて十年くらい経つんですよ」

 彼女はどこかに吐き捨てるように、否、私に刺したのかもしれないけれど、棘の含まれたその声で、しかし無理に笑ってみせた。仲がこじれて十年、か。彼女の眉はハの字になって、目にはうっすらと涙が浮かんでいる。つい、ごめんと声が出そうになって、私はじっとこらえた。

「そか」

 代わりのその言葉は、発した私でさえ笑ってしまいたくなるほどに、何の感情も内包していないものだった。ほとんど空になったお猪口の、その底に少しだけへばりついた残りを啜ろうとして、しかし私は彼女の視線に耐えかねて持ち上げた右手を下ろす。そこにちょうどよく、彼女が頼んだお酒が届いたので、私は勝手にそれを拝借して、自分の器へと思い切り注いだ。とぷとぷと、場違いに心地いい音がする。今度の酒は透き通った味で、喉にするりと滑り降りた。

 その間にも、彼女はとうとうと、その仲がこじれた経緯を話し続けていた。その話を要約すれば、結局のところ、きっかけは彼女の反抗期。その些細な言い争いで生まれた不和は、たまに顔を合わせる、その時間の空隙でむしろ凝り固まり、十年たった今では頑強な隔壁となって彼女と父の間に立ちはだかっている、らしい。無論、これは彼女の主観である。

 そんなことないと思うけどなあ。私はその言葉を、透き通る液体と共に飲み込んだ。私たちは、共に過ごした長い時間のなかでゆっくりとその距離を縮めて、数か月前には恋人と呼ばれる関係にまで達したわけだけれど、それでもやはり私たちの間には薄い膜が張られていた。そして今はそれが、私が彼女の繊細な過去と現在に触れることを、確かに阻んでいる。これは無論、私の主観であった。

 今になって、目の前の彼女の姿が陽炎のように歪んできた。お水ください、と芯の通らない声で発すると、向かいから、私はビール、と、まだ元気そうな声が耳に響いた。まだ残ってるよね、と徳利を持ち上げてみれば、私が頭の中で彼女の話をこねくり回しているうちに、全部飲まれてしまったらしく、その中には一滴も残されていなさそうだった。

「大丈夫なの、そんなに飲んで」

 私は彼女の顔をよく観察する。その顔はいつも通りで、頬も上気していない。しかし、彼女はこんなにも酒に強い人だっただろうか。確かに私よりは強いのだろうが、人並みではあったはずだ。旅先の解放感からか、あるいは酒の席で陰気な話をしたからか、彼女はいつも以上に飲んでいた。

「大丈夫だよ」

 彼女の声には、確かにまだ余裕がありそうだったけれど、その語尾からは、彼女がなかなか外そうとしなかった敬語が、すっかり失われている。彼女の顔から目が離せなくなった私は、きっと面白いほどに驚いた顔をしているのだろう。彼女は、ひひ、と愉快そうに笑った。どうやら彼女はしっかりと酔っぱらっているようだ。

「じゃあ、ビール飲み終わったら出よっか」

 彼女がうなづくのを見て、私はほっとする。多分彼女はこのまま放っておいたらつぶれるまで飲んでしまっただろう。机の上にとんと置かれた瓶ビールは彼女一人には少し多そうだったから、私はテーブルの端に避けられたコップを手に取った。それを見た彼女から、私にも注いで、と彼女の手元のコップが差し出される。それにも丁寧にビールを入れてあげて、それから私はテーブルの上に散らかった食べかけのつまみに手を伸ばす。

 つまみもビールも、二人でせっせと片付ければ意外と早く空になった。お腹はいっぱいなのに、何か物足りない気分なのは、その中身のほとんどが液体だからだろうか。思えば私も飲み過ぎたかもしれない。でもまだ頭は回ってるからましか、と思う。彼女をちらりと見れば、コップを空にして、けふと息を吐いていた。

「吉野、行こう」

 会計を済ませて、彼女に声を掛ける。彼女が素直に立ち上がってくれたので、私は少しだけほっとした。少し遅れて私も腰を上げると、くらりと頭が斜めに傾く。立った勢いで、酔いがしっかりと回ってしまったみたいだ。向かいに立つ彼女を見れば、同じように焦点の微妙に合わない目で、右に、左にふらふらとしている。

 よっしゃ、行こう、と気合いを入れて、足を踏み出せば、彼女はぱたぱたと私の隣に並んだ。そうして、酔っぱらった二人は海辺の街へと身体を放りだした。目の前の道路には、未だにぶおんと音を響かせて車がひっきりなしにやってきては、またどこかへと消えていく。その経路を目で追う彼女の腕を、私はぐいと引っ張った。彼女は良く分からないというような目をして、それから私の腕をぎゅうと握り返してくる。

「海行こうよ、もう一回」

 そんなことを、彼女は唐突に切り出した。街には生ぬるい風がそよりと吹いている。その中を切り開いて、またあの海辺へと戻るその道すじを思えば、実際には宿に戻る道とほとんど同じなのだけれど、私は少しだけ億劫に思ってしまう。しかし、腕に取り付いた彼女を見れば、そんなことを言う気はすっかりと消えてしまった。ぴかぴかと光に満ちた幹線道路から、こっちだよ、という彼女の声に従って、じっとりとした暗がりに飛び込めば、そこは確かにさっき通った道だった。街灯が不安定に光るその道に目が慣れるころには、鼻が確かに磯の香りを感じるまでに、海辺へと近づいていて、そこで私はようやく、彼女の横顔をじっと見る。

 吉野の顔は、確かに素面のそれだった。この短い歩みのなかで、彼女はその身体に目いっぱいに取り込んだ酔いをどこかに捨ててしまったのだろうか。それともこのぬるい微風に吹かれてすっかりと蒸発させてしまったのか。そこまで考えて、私も、酔いがすっかり覚めてしまっていることに気がつく。視界はいつの間にかはっきりとしていた。それは、さっきまでの宴会の雰囲気が私たちをそうさせていたと思えるほどに。

 正気に戻ったことに気が付いているのは私だけなのだろうか。彼女は目線をはっきりと前にやったまま、しかしその手は私の腕をまだ放そうとせず、それどころか力をさらに加えてくる始末だ。歩みは止められなかった。私たちは細い路地を、確かにまっすぐと、海の方へと向かっていく。視界が開け、海にたどり着く頃には、あれほど強く腕を掴んでいた彼女の手は降ろされて、私の指と組まれていた。

 私たちは海岸線と平行に、砂浜を歩く。隣の彼女の表情は、陰が落ちて分からない。ざわざわと波打つ音に混じって、私の鼓動の音が確かに聞こえた。

「小春ちゃん、来てくれてありがとね」

 彼女の声で、そんな言葉が聞こえた。その名前で呼ばれるのはいつぶりだろうか。子供の頃はよく呼ばれていた下の名前も、大人になった今では呼ばれることはほとんどない。隣の彼女の顔の瞳のその奥を覗くように見ても、彼女の意図は何も掴めなかった。

「電話くらいしたら、お父さんに」

 私は何でもないふうにそう呟く。彼女にははっきりと声が届いたらしい。彼女はかくりと首を垂れた。そうだよねと小さな声が耳を撫でる。

「分かった、電話する」

 彼女はスマートフォンと、それから一枚の紙を鞄の中から取り出すと、ゆっくりとその画面をタップし始めた。きっと電話番号を打ち込んでいるのだろう。私は少し離れて、彼女を待つことにした。彼女はやがてぽつぽつと何かを話し始める。その声は、少し離れたここからだと、海のざわめきと交じってその中身までは聞き取れない。

 私は砂地の上に腰を下ろした。地面からひやりとした冷気が身体に伝わる。そこに手をついてみれば、海辺のわずかに湿った砂の感触が手の平を覆った。彼女はなぜ私をこの街に連れてきたのだろう。なぜ今になって電話をしようと思ったのだろう。なぜ私たちの「初めて」の旅行に、この街を選んだのだろう。なぜ。

 彼女の意図はいまだ、何も分からなかった。私と彼女の間を、そしてその周りを、海風が通り抜ける。さっきまでこの手に確かに感じていた繋がりも、その風にかき乱されて、もう辿ることさえできなさそうだ。空を切る音の間を縫って届くかすかな声だけが、ここに彼女が確かにいることを伝える。

 しかしその声も、やがて止まった。あたりに光はなく、私ひとりがこの海岸線に取り残された気分になって、私は早々に後ろを振り向いてしまう。

「どうだった」

「話せたよ、ちゃんと」

「そっか、良かったね」

 私はゆっくり立ち上がって、ぱたぱたと服に付いた砂を払った。私は彼女に、結局お父さんの所行くの、と聞く。近づいてきた彼女は一度、こくりとうなづいた。

「駅前だっけ、じゃあ私適当な店で待ってるね」

 彼女はまたうなづくと、その白い手をそろりと、何かを求めるように私の方に伸ばしてくる。私はその手をそっと握ると、彼女がそこにいることを確かめるように、強く力を込めた。彼女はそれに驚いたように身じろぎして、それからそれに応えるように、その指を器用に私の指へと絡める。彼女の体温が、砂浜に温度を奪われた私の手の平を確かに温めた。

「そろそろ戻ろ」

「うん、行こっか、樹里」

 私は彼女のことを祈るようにそう呼んだ。

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