プロローグ:未完の旅路と、消えない残り火
標高千二百メートル。雨上がりの湖畔は、吸い込む空気が痛いほどに澄んでいた。
陽向大地は、漆黒の猛火を思わせる愛車――インディアン・チーフダークホースのサイドスタンドを払い、その無骨なタンクを愛おしそうに撫でた。
マットブラックの塗装が、濡れた月光を鈍く弾いている。空冷Vツインエンジンの巨大なシリンダーヘッドが、走行の余熱で「キン……キン……」と、まるで生き物の心拍のように時を刻んでいた。
「……計算通り、雨は上がったな。次は吸気系を弄るつもりだったが、今日はお預けか」
大地は独りごちた。理学系の研究職として半世紀。効率と論理ばかりを積み上げてきた人生だった。早期退職という、世間から見れば「あがり」の決断をしたのは、余生をこの鉄馬と、愛する趣味に捧げるためだ。
手際よく、自作の焚き火台に火を熾す。 大地にとって、キャンプは非効率の極みではない。野外という不確定要素の多い環境を、いかに理系知識とDIYで最適化するか。彼にとって、この焚き火台の二次燃焼効率を計算し、炎の揺らぎを制御することこそが至高の娯楽だった。
自ら溶接し、熱伝導率を極限まで計算した特製チタンマグに、豆から挽いたコーヒーを注ぐ。 ふと、若い頃から深夜に貪り見たアニメのワンシーンを思い出す。
「……あの基地、あの魔法。いつか再現してやると思ってたんだがな」
理系の道を選んだのは、案外、あのロマンを現実にしたかったからかもしれない。今はその情熱を、バイクのカスタムや、最新のゲームにぶつけていた。
コーヒーを一口、啜る。 完璧な温度、完璧な抽出。理論通りの結果に満足し、大地は深くチェアに身を預けた。 だが、その瞬間だった。
――ドクン、と。 胸の奥で、設計ミスを犯したエンジンのような、異様な異音が響いた。
「……っ、は……」
指先から力が抜け、特製のマグが地面に落ちる。
冷徹な理系脳が、自身の体内で起きている事象を瞬時に分析した。急激な血圧低下、意識の混濁。心原性ショック。
半世紀の終わりだと、理解してしまった。
(嘘だろ……。これから、だったのに……)
脳裏をよぎったのは、人生の功績ではない。やり残した趣味への、烈火のような後悔だ。
チーフダークホースをもっと完璧に仕上げたかった。あのオープンワールドゲームの隠しエリアをまだ探索していない。アニメで見た、空を飛ぶあの魔法の理論構成を空想したままだった。
「……まだ……遊び足り……ない……っ。こんな中途半端に……終わって、たまるか……!」
意識の消失寸前、視界の端で焚き火の火花がパチリと弾けた。
その火の粉の軌跡が、なぜか大地には「複雑な数式の連なり」に見えた。重力、熱力学、量子論。現実世界の物理法則が、見たこともない未知の定数に書き換えられていくような、圧倒的な情報量。
次に彼を呼び覚ましたのは、焚き火の暖かさでも、湖畔の冷気でもなかった。
「……んぐっ、ああ……」
思うように動かない身体。肺に流れ込む、見たこともないほど濃密な「何か(エネルギー)」。
そして視界を埋め尽くす、豪華すぎる天蓋と――。
「生まれた! 元気な男の子ですよ、旦那様!」
若返った鼓動。爆発するような生命力。 50歳の知性を抱えたまま、陽向大地の「未完の趣味」は、異世界という名の広大なフィールドで、その幕を開けた。




