後篇
後篇にて完結!
アーノルド視点で、なぜ5年も会ってくれなかったのか等の謎が明かされます。
※結末は「表面上」ハッピーエンドです。登場人物の行動が不愉快だと感じた方もいらっしゃいましたので、「すっきり爽快な読後」とは程遠い作品であるとここで明記させていただきます。
学園で一番人気のある男性。
アーノルドの本命はただ一人――あの夜、逃げたレイチェルだけだった。
彼はこれまで、数え切れぬほどの女性に言い寄られてきた。女生徒、女教師、貴族の令嬢たち。
皆が、整った顔立ちと穏やかな微笑みに惹かれた。
しかし、いくら好意を寄せられても、心の中にぽっかりと空いた空白は埋まらなかった。
アーノルドの目に映っていたのは、いつも教室の隅で静かに本を読んでいたレイチェル・モンフォートただひとり。
生徒と教師という立場ゆえ、想いを胸にしまい込むしかなかった。
だが――卒業式を終えたその夜、理性よりも心が先に走ってしまった。
いや、正確には、気持ちよりも身体が先走ったのだ。
彼女が学院を去る前に、せめて気持ちを伝えようと思っていたのに、言葉を告げるよりも早く抱きしめてしまった。
レイチェルの瞳が見開かれる。
拒まれるかもしれない、そう思った刹那――細い肩が震えながらも、彼女は逃げなかった。
それが救いだと、あの時は思った。
だが、ほんの一瞬、頭のどこかで考えてしまったのだ。
――既成事実を作ってしまえば、断られることはない。
自分の外見や身分、立ち居振る舞いが、令嬢たちの理想であることをアーノルドは知っていた。
だから、レイチェルもきっと受け入れてくれると、どこかで高をくくっていた。
その傲慢さが、どれほど愚かだったかを、彼は翌朝思い知ることになる。
朝陽が差し込んだ寝台には、ひとり分の熱しか残っていなかった。
腕の中にいたはずの温もりは、すっかり消えている。
薄い寝具に残るのは、ほのかに香る花の匂いと、彼女の涙の跡。
ただ、メモ書きがあるだけ。
レイチェルはいなかった。
「……逃げたのか?」
自嘲のように呟いても、誰も答えない。
慌てて学園の寮に足を運んだが、部屋はもぬけの殻だった。
机の上には寮母宛ての感謝の手紙と、きちんと畳まれた制服。
――拒絶されたのだ。
その現実が胸の奥を鋭く突いた。
寝台に残った温もりの消えた感覚が、やけに現実的だった。
彼は数週間、何も手につかず、授業の準備も忘れ、ぼんやりと日を過ごした。
だが、時間は残酷だ。
季節は移ろい、新しい入学式の準備が迫る。
学園の教師である以上、嘆きに溺れているわけにもいかなかった。
それでも、レイチェルのことを忘れることはできなかった。
せめて元気にしているかだけでも知りたい。そう思い、モンフォート子爵夫人に手紙を送った。
文面には、ただ「彼女は元気にしていますか」「困り事はないでしょうか」とだけ。
想いを悟られぬよう、慎重に綴った。
数週間後、届いた返書には、冷たいほどに短い一文があった。
『あの子は主人が勘当する予定です。現在は屋敷で謹慎しています』
それだけだった。
インクの滲んだ文字を何度もなぞる。
勘当――その言葉の重さに、アーノルドの手が震えた。
あの温厚なモンフォート子爵が、実の娘を勘当するなど、常ではない。
理由は、ほぼ一つしか考えられなかった。
つまり、彼女は――子を宿したのだ。
胸の奥が熱く、痛みを帯びる。
自分がやったことの重みが、今さらながら全身を貫く。
彼女はどんな思いで、あの夜のことを受け止めたのだろう。
どれほど怖かったのだろう。
どれほど、自分を憎んだだろう。
アーノルドは机を拳で打ちつけた。
「……俺が、愚かだった」
その後、彼は何度も手紙を書いた。
けれど一通も返事は来なかった。
やがて風の噂で、レイチェルが『どこぞの好色で有名な貴族』に後妻として嫁がされると聞いた。
信じたくなかった。
あの優しいモンフォート子爵が、そんな男に娘を売るはずがない――そう思いたかった。
だが現実は、貴族社会という名の牢獄の中にあった。
彼は初めて、自らの立場と力の無さを呪った。
あの時、あの夜、ただ「好きだ」と言っていれば。
抱きしめるより先に、心を差し出していれば。
レイチェルを、こんな目に遭わせることはなかったのに。
窓の外では、春の雨が静かに降っていた。
それは、アーノルドの頬を伝う涙と同じほど、静かで、重かった。
◆
アーノルドは、行動した。
ただ嘆いていても、彼女を取り戻すことはできない。
何より、信頼を得なければ――彼女の親から、そして社会から。
まだ肌寒い二月のある日。
白く霞んだ空の下、アーノルドは馬車を降り、モンフォート子爵邸の重厚な門を叩いた。
凍える風が頬を刺す。それでも、彼の決意を鈍らせることはなかった。
鉄製の門扉が静かに開き、執事に案内されて通された客間は、華美ではないが品の良い部屋だった。
整えられた調度品、少し甘い香りの紅茶の匂い――そこかしこに、レイチェルの気配がある。
幼いころから育った屋敷の空気は、確かに彼女を育てた家庭の温かさを纏っていた。
その香りに一瞬心が揺れたが、アーノルドは首を振って雑念を払う。
やがて、落ち着いた気配と共に扉が開いた。
モンフォート子爵夫妻が入ってくる。
「ヴァレッタ伯。あなたの母君には、在学中に大変お世話になりましたな」
子爵はそう言って微笑み、続けて少し目を細めた。
「……して、今日は何用かな?」
思っていたよりも、ずっと穏やかな対応だった。
アーノルドは深く頭を下げると、まっすぐにその瞳を見据えた。
「本日は、レイチェル嬢に婚約を申し込みに参りました」
「まぁ……!」
隣の夫人が小さく声を上げた。
その声音には驚きと興味が入り混じっていたが、瞳の奥は鋭く、まるで鷹が獲物を見定めるようだった。
アーノルドは背筋を正した。
「いや、しかしだな……レイチェルは、その、体調が思わしくないのだ」
子爵は言葉を濁した。声の端に苦みが滲む。
この場で言わなければならない。
どれほど醜くとも、どれほど軽蔑されようとも。
アーノルドは一度、深く息を吸い込んだ。
「……子爵。僕は先日、レイチェル嬢と身体を重ねました」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
アーノルドは立ち上がり、膝を折って頭を床に叩きつけた。
ごん、と重い音が響く。
爵位も誇りも、すべてこの場に置いてきた。
自分はこの夫婦の娘の純潔を奪った男。殴られる覚悟でここに来た。
「貴ッ様……!」
怒りの声が部屋を震わせた。
子爵が立ち上がり、拳を握るのが見える。
しかし――
「まぁまぁ。あなた、最後までお話を聞きましょう?」
夫人の柔らかな声がそれを制した。
凛としたその声音に、子爵は眉をひそめながらも座り直す。
「ほら、ヴァレッタ伯。あなたも顔を上げて、話を聞かせてちょうだい」
「……はい。ありがとうございます」
夫人は瞳を細め、静かに彼を見つめていた。
その視線には、母としての厳しさと、女としての洞察が宿っている。
――この人は、甘くはない。
アーノルドの母と同種の雰囲気を感じる。
アーノルドはそう直感した。
たしか、夫人は子爵家に嫁ぐ前、ヴァレッタ伯爵家に隣接する伯爵領地の出身だったはずだ。
なるほど、子爵が夫人より前に出れないのも頷ける。
アーノルドは語った。
レイチェルをどれほど想っているか、
彼女の優しさや努力をどう尊敬しているか、
そして、あの夜の軽率さをどれほど悔いているか――。
誠心誠意、心の底から語った。
子爵も夫人も、黙って耳を傾けてくれた。
部屋には、時計の針の音だけが響く。
やがて、子爵が深く息を吐いた。
「……ヴァレッタ伯の気持ちはよくわかった。しかし、もう持参金も振り込んでしまったしなぁ。あちらにも悪いし……」
「それはこちらから話を回しています。
絶対に子爵家には迷惑がかからないような形で、根回しは済んでいます」
アーノルドは即座に言った。
その声に、迷いはなかった。
実際、彼はすでに後妻の件の相手貴族に接触し、裏で話を潰してきていたのだ。
その徹底ぶりに、夫人の唇がかすかに上がる。
「……まぁ、やるじゃないの」
そして、ふっと目を細めた。
「ではレイチェルはそちらで預かってちょうだい。
勘当を言い渡した親の元に、長くいたくないでしょうし……そうね、五年ほどでどうかしら?」
五年――。
アーノルドは一瞬、意味を測りかねたが、すぐに理解した。
それはちょうど、自分の教員としての任期が終わる時期と重なる。
つまり、正式に婚約を公にできる時期を、夫人は見越しているのだ。
子爵は渋い顔をしながらも、黙って頷いた。
言葉の切り出しを待つように、時計の針の音だけが響いた。
「……五年よ」
夫人の口から落とされた言葉は、まるで冷たい刃のように静かだった。
「それでレイチェルも、お腹の子も健やかに育てなさい。
──ただしその間、あなたは母子に会ってはいけないわ」
「な、なぜですか!?」
アーノルドの声が、無意識に震えた。
五年。五年も会えないという現実が、まるで遠い牢獄の宣告のように胸に突き刺さる。
婚約してもいいという空気が、確かにあったはずだ。それなのに――会ってはいけない。
それでは、彼女に想いを伝えることも、婚約を申し込むこともできないではないか。
あの夜、朝を待たずに言っていればよかった。
「好きだ」と、「一緒にいてくれ」と。
レイチェルがまた、どこかへ逃げてしまうような焦燥が、喉を焼いた。
「当たり前でしょう?」
夫人は小さくため息をついた。その瞳は、どこまでも理性的で、それでいて母の情を湛えていた。
「レイチェルは先日、学園を卒業したばかり。
身体はヴァレッタ伯が求めるほど立派な女性かもしれませんが、心はまだ子どもなのです。
傷ついていますわ。今だって、酷く塞ぎ込んでいますもの」
そっと、夫人が視線を扉の先に向けた。
おそらく――その先に、レイチェルの部屋があるのだろう。
アーノルドの脳裏に、学園での彼女の姿が蘇る。
誰にでも分け隔てなく接し、笑顔を絶やさず、教師たちにも真摯に頭を下げていた。
困っている後輩を見つければ、さりげなく手を差し伸べるような――あの温かな少女の姿。
そんなレイチェルが「塞ぎ込んでいる」と聞かされても、すぐには信じられなかった。
だが、心のどこかで理解していた。
あの夜、彼女は恐怖と愛情の狭間で、震えていたのだと。
抱きしめて涙を拭ってやりたかったのに、何ひとつできなかった。
今も、胸の奥でその後悔が疼く。
「人の心は脆いのです」
夫人はゆっくりと目を閉じ、微笑を浮かべた。
「本当は娘を渡したくないのが、わたくしの気持ちです」
その笑みは穏やかでありながら、どこか滲むような痛みを孕んでいた。
親という存在が、どれほどの覚悟と痛みを抱えているのか――アーノルドは今、やっと理解できた気がした。
「でも、レイチェルは一夜とはいえあなたを許しました。それを見込んで、お願いします」
夫人の言葉が終わると同時に、隣にいた子爵が、深く、深く頭を下げた。
「どうかレイチェルを、幸せにしてやってください」
その声音は震えていた。
おそらく、レイチェルが妊娠したと知ったあの日、娘に寄り添ってやれなかった悔恨が、今も胸を締めつけているのだろう。
夫を止められなかった自分への怒り。
娘を信じてやれなかったことへの後悔。
それでも彼らは――確かに、レイチェルの両親だった。
アーノルドは、改めて二人を見つめる。
レイチェルの穏やかな顔立ちは子爵譲り。
けれど、青みを帯びた銀の髪と、湖を思わせる澄んだ瞳は夫人のものだ。
おっとりとした話し方も、内に秘めた芯の強さも――全てはこの二人が育ててきた証なのだ。
「はい……必ず」
絞り出すように言葉を返し、アーノルドはようやく膝を離して立ち上がった。
手のひらには、床に触れていた跡が残っている。
けれどその跡は、彼にとって誓いの証でもあった。
――五年。
たとえどれほど長くても、必ず迎えに行く。
レイチェルと、その小さな命を、誰よりも大切に守ると決めたのだから。
「レイチェル嬢のことは、うちの屋敷でメイドとして雇います。
母が気難しい人なので、相性を見るのも兼ねて専属にしようかと」
アーノルドの言葉に、夫人はカップを指先で軽く回した。
午後の光が金の縁を照らし、ティーセットの影がテーブルに伸びる。
「よくわかっているわね。あの方の厳しさは、自他ともに認める苛烈さでしたもの」
どこか愉快そうに、けれど試すような声音で言う。
その瞳にはまだ肉食獣の名残がある。
だが、先ほどまでの緊張はもうなかった。
鋭さの裏に、母親としての穏やかさが少しだけ滲んでいた。
アーノルドは小さく息を整えながら、続けた。
「しかし、母も最近は随分と柔らかくなったのですよ?」
その言葉に、夫人の眉が僅かに上がる。
唇の端がわずかに弧を描いた。
「あら。あの頃を知っているわたくしたちとしては、ぜひ見てみたいものね」
笑いを含んだ声が部屋に広がる。
窓の外では木々が揺れ、庭園の薔薇が風にそよいだ。
ささやくような風音と共に、重かった空気がふっと軽くなる。
和やかな雰囲気が流れ、アーノルドの肩の力が抜けた。
夫人の瞳は依然として鋭い光を宿しているが、そこに敵意はもうない。
――娘を託す母の目だ。
アーノルドは深く頭を下げ、静かに礼を述べた。
夫人もまた、ゆるやかに頷く。
カップの中の紅茶が揺れ、淡い香りが部屋に満ちていく。
その穏やかで確かな空気の中で、
レイチェルの新しい日々が――確かに、始まりを告げていた。
◆
――あれから、三年が経った。
季節が幾度も巡り、学院の中庭の木々はそのたびに芽吹いては散った。
生徒たちは卒業し、新しい顔ぶれが入学してくる。そんな日常の中で、あの日のことだけが、時の流れから取り残されたように胸の奥に残っている。
母からは、月に一度、レイチェルの様子が届く。
もともと筆まめな人だったが、最近はまるで報告書のように整然とした手紙を寄こす。
「今月のレイチェルは」で始まり、「特筆すべき変化は」で終わるその文章は、几帳面そのものだ。
けれど、何度も読み返していると、文の端々に母らしい柔らかさが滲んでいるのがわかる。
「庭の薔薇を手入れしているとき、レイチェルが楽しそうに笑っていました」
「屋敷の新しいメイドに裁縫を教えていました」
「休憩時間に、紅茶を少しこぼして照れていました」
そんなささやかな一文に、胸が温かくなる。
ただの報告のはずなのに、そこに確かに息づく彼女の姿が見える。
――ああ、今日も元気に笑っているんだな。
そう思うたび、張り詰めていた心がふっと緩む。
業務の合間、生徒からの質問を受けたり、他の教員との打ち合わせを終えたあと、机の上の手紙を読み返す。
ふいに寂しさや疲れが胸を掠めたとき、その一枚の便箋が不思議と心を癒やしてくれる。
多分、世の中の単身赴任中の父親も、こんな気持ちなのかもしれない。
愛しい人の近況を文で知り、手の届かない距離を文字で埋めるような――そんな感覚。
早く会いたい。
もう三年も待ったのだから、そろそろ正面から言葉にしたい。
「好きだ」と、まっすぐに伝えたい。
そして、そっと抱きしめたい。
あの夜のように衝動に任せたものではなく、互いの存在を確かめ合うような、静かなぬくもりの中で。
――でも、それを考え出すと、いつも困ったことになる。
ペンを持つ手が止まり、思考があの夜に引き戻されてしまう。
柔らかな銀の髪が肩をすべり落ちて、灯りに照らされて波打っていた。
あの時のレイチェルは泣きながらも、確かにこちらを見ていた。
恐れでも憎しみでもない、どこか懐かしい色を宿した瞳で。
……いや、だめだ。
なんでもあの夜の記憶に結びつけてしまうのは、良くない。
もう過去のことだ。
あれは、本当に想い合って過ごした夜ではない。
そう言い聞かせながらも、思考はなかなか言うことを聞いてくれない。
昼休みが終わるまで、あと十五分。
深呼吸をして、冷めかけたコーヒーを一口飲む。
窓の外では風に桜の花弁が舞っていた。
白い光の中、散りゆく花びらがどこか儚くて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
最新の手紙の内容は、『新しく服を買いに行った』ことと、『アクセサリーを贈ったらびっくりしていた』ことだった。
相変わらず母の筆は几帳面で、日付も天気も細かく書かれている。
まるで、どこかの報告書みたいだ。
けれど、その単調な文面の裏には、確かに楽しげな色がにじんでいた。
たとえば「一緒に買い物へ行きました」とだけ書かれていても、文末の点がどこか軽やかで――母が笑いながら書いたのだろうと、そんな気配すら感じられる。
アーノルドはそのたびに、少しだけ悔しくなる。
自分もレイチェルに贈り物をしたいのに、母がそれを先回りしてしまう。
まるで息子の気持ちを見透かしたかのように、母はなんでも与えるのだ。
レイチェルが喜ぶ姿を想像すると、確かにそれだけで嬉しい。
けれど、どこかくすぐったいような、置いていかれるような気もした。
窓の外では、陽射しが柔らかく傾いていた。
春先の学院は、空気に少しだけ花の香りが混じる。生徒たちの笑い声が中庭から届き、机の上の紙束をめくる風が心地よい。
その静かな午後の中で、アーノルドは何度目かの母の手紙を広げた。
――そこには、カイルのことも書かれていた。
レイチェルが産んだ子。
母によれば、利口な子に育っているらしい。
レイチェルが専属メイドとして働いている間、母が面倒を見ているという。
最初のうちは、レイチェルも申し訳なさそうに何度も謝っていたそうだ。
「すみません」「ご迷惑をおかけして」と、繰り返し頭を下げていたらしい。
けれど今では、育児のことを母に相談しながら、二人で笑い合っているのだという。
――そんな光景が目に浮かぶ。
屋敷の庭で、白い日除け帽をかぶった母と、エプロン姿のレイチェル。
花壇の横で小さなカイルがボールを追いかけ、転びそうになって笑う。
母がその腕をとっさに支え、レイチェルがほっと胸を撫で下ろす。
見たことのない情景なのに、なぜか鮮やかに思い描けてしまうのが不思議だった。
カイルはこの春で二歳になる。
積み木を積み上げては倒し、柔らかいボールを投げて遊ぶ時期だという。
母は、「もう少ししたら、読み聞かせを始めようと思うの」とも書いていた。
文字をなぞるように唇が動く。
――その子の前で、レイチェルはどんな声で本を読むのだろう。
優しく、穏やかで、眠りを誘うような声で。
アーノルドは思わず頬が緩むのを感じた。
そして、追い打ちをかけるように書かれていた一文。
『小さい頃のあなたに本当にそっくりよ。
でも、あなたより落ち着いているかもね。レイチェルさんが母親だからかしら?』
思わず、くすっと笑ってしまった。
自分が幼いころ、母を手こずらせていたことを思い出す。
――なるほど、落ち着いているなら、それは確かにレイチェルの血のせいだ。
彼女の穏やかな気質と、まっすぐな眼差しを受け継いでいるのだろう。
その子が笑う顔は、きっと彼女のように柔らかい。
窓辺の光が、手紙の上を滑る。
白い紙が少し透けて、インクの跡が影になった。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。
会いたい。
手紙の中の光景ではなく、ちゃんとこの目で見たい。
レイチェルの笑顔も、カイルの小さな手も。
――けれど、それを言葉にするのは怖かった。
「会いたいな。レイチェル……」
誰に聞かせるでもなく呟いた声が、空気の中に溶けていった。
そして、静かに微笑む。
「好きって伝えるのって、難しいな……」
ペンを持つ指先が、少し震えていた。
こんなにも想っているのに、それを伝えることが、どうしてこんなに難しいのだろう。
胸の奥に溜まった言葉が、形を持たないままくすぶっている。
けれど、それでもいい。
その不器用さも、今の自分の一部だから。
アーノルドは手紙をそっとたたみ、机の引き出しに戻した。
そして、深呼吸をひとつして、仕事へと視線を戻す。
いつもの学院の午後。
けれど、その胸の中には、確かにひとすじの温もりがあった。
◆
五年の歳月が、ようやく終わった。
アーノルドは、深呼吸をひとつしてヴァレッタ伯爵邸の門をくぐった。
教え子たちの卒業式を何度も見送った身としては、もうここが『自分の実家』のように感じられた。
長い間、外の世界で時間を過ごし、心も体も外で鍛えてきたつもりだった。
しかし、門をくぐった瞬間、胸の奥に懐かしさと不思議な違和感が同時に湧き上がる。
実家の面々は変わらずそこにいて、アーノルドだけが外の世界で年月を重ねてきたかのようだった。
アーノルドも、三十歳を過ぎていた。
顔には教員としての責任感と経験が刻まれ、視線には落ち着きが宿る。
しかしその胸の奥底には、焦燥と期待が交錯していた。
少し離れたところにある小高い丘の上に、レイチェルが立っていた。
花冠をふわりと頭に載せ、髪を風に弄ばれながら、手には少年――カイルの小さな手をしっかり握っていた。
小走りする母子の姿は、遠くから見ても幸せに満ちていて、まるで絵画のように美しかった。
その光景を見た瞬間、アーノルドの胸は高鳴った。
時間は流れ、世界は変わったはずなのに、レイチェルのその笑顔だけは、まるで昔のままだった。
「――行くしかない」
アーノルドは歩幅を広げ、駆け出した。心の奥で、足がもつれるのを感じる。
久しぶりの全力疾走。
靴が少しきつく、ジャケットが腕を引っ張るように感じるが、それでも構わなかった。
――走らなければ、レイチェルに追いつけない。
五年間も遠くから思い続けてきたのだから、今ここで抱きしめなければ、後悔するのは自分だ。
丘の斜面を駆け上がりながら、アーノルドは心の中で繰り返した。
「過去の過ちも、誤解も、全部話す。俺は、レイチェルと向き合う」
目の前で、レイチェルの髪が陽光を受けて銀色に光る。
風に揺れる花冠、その隙間から覗く澄んだ瞳。
走るレイチェルの背中に手を伸ばし、ついに――
アーノルドはレイチェルの背後からそっと抱きついた。
あの夜の匂いが、わずかに残っている。懐かしく、安心できる匂い。
ほんの少しだけ、家の匂いも混じっていて、心が温かくなる。
……長かった。
言葉にならない想いが胸の奥から溢れ出す。
長いお預けは終わった。五年分の愛を、今ここで伝える番だ。
ふと、抱き上げられたカイルと目が合った。
小さな紅い瞳が、じっとアーノルドを見つめる。
――無言のまま、雄弁に問いかけている。
『あなたは誰? 母さんとどういう関係?』
アーノルドは少し息を呑み、静かに目を細める。
この子が、カイル。レイチェルとアーノルドとの子ども。
心の中で、言葉を探す。カイルのことも聞きたい。これからどうするかも話したい。
そして、今、最も確かに確認したいこと――
「……その子、僕との子どもだよね?」
言葉を口にした瞬間、アーノルドの胸は高鳴り、手は自然とレイチェルをしっかりと抱き寄せていた。
五年間の想いと不安、すべてが、この一瞬に凝縮されたように感じられた。
いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!
ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。
ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!
追記
11月12日
「アーノルドが酷すぎる」と読者の方々よりご指摘いただきましたので、あらすじと前書きの一部を書き足しました。
⬇️お時間ある方はこちらもどうぞ!姉妹格差ものです⬇️
【妹を大切にしてくださった婚約者様へ】
https://ncode.syosetu.com/n9252lh/




