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後篇

後篇にて完結!

アーノルド視点で、なぜ5年も会ってくれなかったのか等の謎が明かされます。


※結末は「表面上」ハッピーエンドです。登場人物の行動が不愉快だと感じた方もいらっしゃいましたので、「すっきり爽快な読後」とは程遠い作品であるとここで明記させていただきます。

 


 学園で一番人気のある男性。

 アーノルドの本命はただ一人――あの夜、逃げたレイチェルだけだった。


 彼はこれまで、数え切れぬほどの女性に言い寄られてきた。女生徒、女教師、貴族の令嬢たち。

 皆が、整った顔立ちと穏やかな微笑みに惹かれた。

 しかし、いくら好意を寄せられても、心の中にぽっかりと空いた空白は埋まらなかった。

 アーノルドの目に映っていたのは、いつも教室の隅で静かに本を読んでいたレイチェル・モンフォートただひとり。


 生徒と教師という立場ゆえ、想いを胸にしまい込むしかなかった。

 だが――卒業式を終えたその夜、理性よりも心が先に走ってしまった。

 いや、正確には、気持ちよりも身体が先走ったのだ。


 彼女が学院を去る前に、せめて気持ちを伝えようと思っていたのに、言葉を告げるよりも早く抱きしめてしまった。

 レイチェルの瞳が見開かれる。

 拒まれるかもしれない、そう思った刹那――細い肩が震えながらも、彼女は逃げなかった。


 それが救いだと、あの時は思った。

 だが、ほんの一瞬、頭のどこかで考えてしまったのだ。


 ――既成事実を作ってしまえば、断られることはない。


 自分の外見や身分、立ち居振る舞いが、令嬢たちの理想であることをアーノルドは知っていた。

 だから、レイチェルもきっと受け入れてくれると、どこかで高をくくっていた。

 その傲慢さが、どれほど愚かだったかを、彼は翌朝思い知ることになる。


 朝陽が差し込んだ寝台には、ひとり分の熱しか残っていなかった。

 腕の中にいたはずの温もりは、すっかり消えている。

 薄い寝具に残るのは、ほのかに香る花の匂いと、彼女の涙の跡。

 ただ、メモ書きがあるだけ。

 レイチェルはいなかった。


「……逃げたのか?」


 自嘲のように呟いても、誰も答えない。

 慌てて学園の寮に足を運んだが、部屋はもぬけの殻だった。

 机の上には寮母宛ての感謝の手紙と、きちんと畳まれた制服。


 ――拒絶されたのだ。


 その現実が胸の奥を鋭く突いた。

 寝台に残った温もりの消えた感覚が、やけに現実的だった。

 彼は数週間、何も手につかず、授業の準備も忘れ、ぼんやりと日を過ごした。


 だが、時間は残酷だ。

 季節は移ろい、新しい入学式の準備が迫る。

 学園の教師である以上、嘆きに溺れているわけにもいかなかった。


 それでも、レイチェルのことを忘れることはできなかった。

 せめて元気にしているかだけでも知りたい。そう思い、モンフォート子爵夫人に手紙を送った。

 文面には、ただ「彼女は元気にしていますか」「困り事はないでしょうか」とだけ。

 想いを悟られぬよう、慎重に綴った。


 数週間後、届いた返書には、冷たいほどに短い一文があった。


 『あの子は主人が勘当する予定です。現在は屋敷で謹慎しています』


 それだけだった。


 インクの滲んだ文字を何度もなぞる。

 勘当――その言葉の重さに、アーノルドの手が震えた。

 あの温厚なモンフォート子爵が、実の娘を勘当するなど、常ではない。

 理由は、ほぼ一つしか考えられなかった。


 つまり、彼女は――子を宿したのだ。


 胸の奥が熱く、痛みを帯びる。

 自分がやったことの重みが、今さらながら全身を貫く。


 彼女はどんな思いで、あの夜のことを受け止めたのだろう。

 どれほど怖かったのだろう。

 どれほど、自分を憎んだだろう。


 アーノルドは机を拳で打ちつけた。

「……俺が、愚かだった」


 その後、彼は何度も手紙を書いた。

 けれど一通も返事は来なかった。

 やがて風の噂で、レイチェルが『どこぞの好色で有名な貴族』に後妻として嫁がされると聞いた。


 信じたくなかった。

 あの優しいモンフォート子爵が、そんな男に娘を売るはずがない――そう思いたかった。

 だが現実は、貴族社会という名の牢獄の中にあった。


 彼は初めて、自らの立場と力の無さを呪った。

 あの時、あの夜、ただ「好きだ」と言っていれば。

 抱きしめるより先に、心を差し出していれば。

 レイチェルを、こんな目に遭わせることはなかったのに。


 窓の外では、春の雨が静かに降っていた。

 それは、アーノルドの頬を伝う涙と同じほど、静かで、重かった。




 ◆




 アーノルドは、行動した。

 ただ嘆いていても、彼女を取り戻すことはできない。

 何より、信頼を得なければ――彼女の親から、そして社会から。


 まだ肌寒い二月のある日。

 白く霞んだ空の下、アーノルドは馬車を降り、モンフォート子爵邸の重厚な門を叩いた。

 凍える風が頬を刺す。それでも、彼の決意を鈍らせることはなかった。


 鉄製の門扉が静かに開き、執事に案内されて通された客間は、華美ではないが品の良い部屋だった。

 整えられた調度品、少し甘い香りの紅茶の匂い――そこかしこに、レイチェルの気配がある。

 幼いころから育った屋敷の空気は、確かに彼女を育てた家庭の温かさを纏っていた。

 その香りに一瞬心が揺れたが、アーノルドは首を振って雑念を払う。


 やがて、落ち着いた気配と共に扉が開いた。

 モンフォート子爵夫妻が入ってくる。


「ヴァレッタ伯。あなたの母君には、在学中に大変お世話になりましたな」

 子爵はそう言って微笑み、続けて少し目を細めた。

「……して、今日は何用かな?」


 思っていたよりも、ずっと穏やかな対応だった。

 アーノルドは深く頭を下げると、まっすぐにその瞳を見据えた。


「本日は、レイチェル嬢に婚約を申し込みに参りました」


「まぁ……!」


 隣の夫人が小さく声を上げた。

 その声音には驚きと興味が入り混じっていたが、瞳の奥は鋭く、まるで鷹が獲物を見定めるようだった。

 アーノルドは背筋を正した。


「いや、しかしだな……レイチェルは、その、体調が思わしくないのだ」


 子爵は言葉を濁した。声の端に苦みが滲む。


 この場で言わなければならない。

 どれほど醜くとも、どれほど軽蔑されようとも。


 アーノルドは一度、深く息を吸い込んだ。


「……子爵。僕は先日、レイチェル嬢と身体を重ねました」


 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。


 アーノルドは立ち上がり、膝を折って頭を床に叩きつけた。

 ごん、と重い音が響く。


 爵位も誇りも、すべてこの場に置いてきた。

 自分はこの夫婦の娘の純潔を奪った男。殴られる覚悟でここに来た。


「貴ッ様……!」


 怒りの声が部屋を震わせた。

 子爵が立ち上がり、拳を握るのが見える。

 しかし――


「まぁまぁ。あなた、最後までお話を聞きましょう?」


 夫人の柔らかな声がそれを制した。

 凛としたその声音に、子爵は眉をひそめながらも座り直す。


「ほら、ヴァレッタ伯。あなたも顔を上げて、話を聞かせてちょうだい」


「……はい。ありがとうございます」


 夫人は瞳を細め、静かに彼を見つめていた。

 その視線には、母としての厳しさと、女としての洞察が宿っている。


 ――この人は、甘くはない。

 アーノルドの母と同種の雰囲気を感じる。


 アーノルドはそう直感した。

 たしか、夫人は子爵家に嫁ぐ前、ヴァレッタ伯爵家に隣接する伯爵領地の出身だったはずだ。

 なるほど、子爵が夫人より前に出れないのも頷ける。


 アーノルドは語った。

 レイチェルをどれほど想っているか、

 彼女の優しさや努力をどう尊敬しているか、

 そして、あの夜の軽率さをどれほど悔いているか――。


 誠心誠意、心の底から語った。


 子爵も夫人も、黙って耳を傾けてくれた。

 部屋には、時計の針の音だけが響く。


 やがて、子爵が深く息を吐いた。


「……ヴァレッタ伯の気持ちはよくわかった。しかし、もう持参金も振り込んでしまったしなぁ。あちらにも悪いし……」


「それはこちらから話を回しています。

 絶対に子爵家には迷惑がかからないような形で、根回しは済んでいます」


 アーノルドは即座に言った。

 その声に、迷いはなかった。

 実際、彼はすでに後妻の件の相手貴族に接触し、裏で話を潰してきていたのだ。


 その徹底ぶりに、夫人の唇がかすかに上がる。


「……まぁ、やるじゃないの」


 そして、ふっと目を細めた。


「ではレイチェルはそちらで預かってちょうだい。

 勘当を言い渡した親の元に、長くいたくないでしょうし……そうね、五年ほどでどうかしら?」


 五年――。

 アーノルドは一瞬、意味を測りかねたが、すぐに理解した。

 それはちょうど、自分の教員としての任期が終わる時期と重なる。

 つまり、正式に婚約を公にできる時期を、夫人は見越しているのだ。


 子爵は渋い顔をしながらも、黙って頷いた。


 言葉の切り出しを待つように、時計の針の音だけが響いた。


「……五年よ」


 夫人の口から落とされた言葉は、まるで冷たい刃のように静かだった。


「それでレイチェルも、お腹の子も健やかに育てなさい。

 ──ただしその間、あなたは母子に会ってはいけないわ」


「な、なぜですか!?」


 アーノルドの声が、無意識に震えた。

 五年。五年も会えないという現実が、まるで遠い牢獄の宣告のように胸に突き刺さる。


 婚約してもいいという空気が、確かにあったはずだ。それなのに――会ってはいけない。

 それでは、彼女に想いを伝えることも、婚約を申し込むこともできないではないか。


 あの夜、朝を待たずに言っていればよかった。

「好きだ」と、「一緒にいてくれ」と。

 レイチェルがまた、どこかへ逃げてしまうような焦燥が、喉を焼いた。


「当たり前でしょう?」


 夫人は小さくため息をついた。その瞳は、どこまでも理性的で、それでいて母の情を湛えていた。

「レイチェルは先日、学園を卒業したばかり。

 身体はヴァレッタ伯が求めるほど立派な女性かもしれませんが、心はまだ子どもなのです。

 傷ついていますわ。今だって、酷く塞ぎ込んでいますもの」


 そっと、夫人が視線を扉の先に向けた。

 おそらく――その先に、レイチェルの部屋があるのだろう。


 アーノルドの脳裏に、学園での彼女の姿が蘇る。

 誰にでも分け隔てなく接し、笑顔を絶やさず、教師たちにも真摯に頭を下げていた。

 困っている後輩を見つければ、さりげなく手を差し伸べるような――あの温かな少女の姿。


 そんなレイチェルが「塞ぎ込んでいる」と聞かされても、すぐには信じられなかった。

 だが、心のどこかで理解していた。

 あの夜、彼女は恐怖と愛情の狭間で、震えていたのだと。

 抱きしめて涙を拭ってやりたかったのに、何ひとつできなかった。

 今も、胸の奥でその後悔が疼く。


「人の心は脆いのです」

 夫人はゆっくりと目を閉じ、微笑を浮かべた。

「本当は娘を渡したくないのが、わたくしの気持ちです」


 その笑みは穏やかでありながら、どこか滲むような痛みを孕んでいた。

 親という存在が、どれほどの覚悟と痛みを抱えているのか――アーノルドは今、やっと理解できた気がした。


「でも、レイチェルは一夜とはいえあなたを許しました。それを見込んで、お願いします」


 夫人の言葉が終わると同時に、隣にいた子爵が、深く、深く頭を下げた。


「どうかレイチェルを、幸せにしてやってください」


 その声音は震えていた。

 おそらく、レイチェルが妊娠したと知ったあの日、娘に寄り添ってやれなかった悔恨が、今も胸を締めつけているのだろう。

 夫を止められなかった自分への怒り。

 娘を信じてやれなかったことへの後悔。

 それでも彼らは――確かに、レイチェルの両親だった。


 アーノルドは、改めて二人を見つめる。

 レイチェルの穏やかな顔立ちは子爵譲り。

 けれど、青みを帯びた銀の髪と、湖を思わせる澄んだ瞳は夫人のものだ。

 おっとりとした話し方も、内に秘めた芯の強さも――全てはこの二人が育ててきた証なのだ。


「はい……必ず」


 絞り出すように言葉を返し、アーノルドはようやく膝を離して立ち上がった。

 手のひらには、床に触れていた跡が残っている。

 けれどその跡は、彼にとって誓いの証でもあった。


 ――五年。

 たとえどれほど長くても、必ず迎えに行く。

 レイチェルと、その小さな命を、誰よりも大切に守ると決めたのだから。


「レイチェル嬢のことは、うちの屋敷でメイドとして雇います。

 母が気難しい人なので、相性を見るのも兼ねて専属にしようかと」


 アーノルドの言葉に、夫人はカップを指先で軽く回した。

 午後の光が金の縁を照らし、ティーセットの影がテーブルに伸びる。


「よくわかっているわね。あの方の厳しさは、自他ともに認める苛烈さでしたもの」


 どこか愉快そうに、けれど試すような声音で言う。

 その瞳にはまだ肉食獣の名残がある。

 だが、先ほどまでの緊張はもうなかった。

 鋭さの裏に、母親としての穏やかさが少しだけ滲んでいた。


 アーノルドは小さく息を整えながら、続けた。


「しかし、母も最近は随分と柔らかくなったのですよ?」


 その言葉に、夫人の眉が僅かに上がる。

 唇の端がわずかに弧を描いた。


「あら。あの頃を知っているわたくしたちとしては、ぜひ見てみたいものね」


 笑いを含んだ声が部屋に広がる。

 窓の外では木々が揺れ、庭園の薔薇が風にそよいだ。

 ささやくような風音と共に、重かった空気がふっと軽くなる。


 和やかな雰囲気が流れ、アーノルドの肩の力が抜けた。

 夫人の瞳は依然として鋭い光を宿しているが、そこに敵意はもうない。

 ――娘を託す母の目だ。


 アーノルドは深く頭を下げ、静かに礼を述べた。

 夫人もまた、ゆるやかに頷く。

 カップの中の紅茶が揺れ、淡い香りが部屋に満ちていく。


 その穏やかで確かな空気の中で、

 レイチェルの新しい日々が――確かに、始まりを告げていた。




 ◆




 ――あれから、三年が経った。


 季節が幾度も巡り、学院の中庭の木々はそのたびに芽吹いては散った。

 生徒たちは卒業し、新しい顔ぶれが入学してくる。そんな日常の中で、あの日のことだけが、時の流れから取り残されたように胸の奥に残っている。


 母からは、月に一度、レイチェルの様子が届く。

 もともと筆まめな人だったが、最近はまるで報告書のように整然とした手紙を寄こす。

「今月のレイチェルは」で始まり、「特筆すべき変化は」で終わるその文章は、几帳面そのものだ。

 けれど、何度も読み返していると、文の端々に母らしい柔らかさが滲んでいるのがわかる。


「庭の薔薇を手入れしているとき、レイチェルが楽しそうに笑っていました」

「屋敷の新しいメイドに裁縫を教えていました」

「休憩時間に、紅茶を少しこぼして照れていました」


 そんなささやかな一文に、胸が温かくなる。

 ただの報告のはずなのに、そこに確かに息づく彼女の姿が見える。

 ――ああ、今日も元気に笑っているんだな。

 そう思うたび、張り詰めていた心がふっと緩む。


 業務の合間、生徒からの質問を受けたり、他の教員との打ち合わせを終えたあと、机の上の手紙を読み返す。

 ふいに寂しさや疲れが胸を掠めたとき、その一枚の便箋が不思議と心を癒やしてくれる。

 多分、世の中の単身赴任中の父親も、こんな気持ちなのかもしれない。

 愛しい人の近況を文で知り、手の届かない距離を文字で埋めるような――そんな感覚。


 早く会いたい。

 もう三年も待ったのだから、そろそろ正面から言葉にしたい。

「好きだ」と、まっすぐに伝えたい。

 そして、そっと抱きしめたい。

 あの夜のように衝動に任せたものではなく、互いの存在を確かめ合うような、静かなぬくもりの中で。


 ――でも、それを考え出すと、いつも困ったことになる。


 ペンを持つ手が止まり、思考があの夜に引き戻されてしまう。

 柔らかな銀の髪が肩をすべり落ちて、灯りに照らされて波打っていた。

 あの時のレイチェルは泣きながらも、確かにこちらを見ていた。

 恐れでも憎しみでもない、どこか懐かしい色を宿した瞳で。


 ……いや、だめだ。

 なんでもあの夜の記憶に結びつけてしまうのは、良くない。

 もう過去のことだ。

 あれは、本当に想い合って過ごした夜ではない。

 そう言い聞かせながらも、思考はなかなか言うことを聞いてくれない。


 昼休みが終わるまで、あと十五分。

 深呼吸をして、冷めかけたコーヒーを一口飲む。

 窓の外では風に桜の花弁が舞っていた。

 白い光の中、散りゆく花びらがどこか儚くて、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 最新の手紙の内容は、『新しく服を買いに行った』ことと、『アクセサリーを贈ったらびっくりしていた』ことだった。

 相変わらず母の筆は几帳面で、日付も天気も細かく書かれている。

 まるで、どこかの報告書みたいだ。

 けれど、その単調な文面の裏には、確かに楽しげな色がにじんでいた。

 たとえば「一緒に買い物へ行きました」とだけ書かれていても、文末の点がどこか軽やかで――母が笑いながら書いたのだろうと、そんな気配すら感じられる。


 アーノルドはそのたびに、少しだけ悔しくなる。

 自分もレイチェルに贈り物をしたいのに、母がそれを先回りしてしまう。

 まるで息子の気持ちを見透かしたかのように、母はなんでも与えるのだ。

 レイチェルが喜ぶ姿を想像すると、確かにそれだけで嬉しい。

 けれど、どこかくすぐったいような、置いていかれるような気もした。


 窓の外では、陽射しが柔らかく傾いていた。

 春先の学院は、空気に少しだけ花の香りが混じる。生徒たちの笑い声が中庭から届き、机の上の紙束をめくる風が心地よい。

 その静かな午後の中で、アーノルドは何度目かの母の手紙を広げた。


 ――そこには、カイルのことも書かれていた。


 レイチェルが産んだ子。

 母によれば、利口な子に育っているらしい。

 レイチェルが専属メイドとして働いている間、母が面倒を見ているという。

 最初のうちは、レイチェルも申し訳なさそうに何度も謝っていたそうだ。

「すみません」「ご迷惑をおかけして」と、繰り返し頭を下げていたらしい。

 けれど今では、育児のことを母に相談しながら、二人で笑い合っているのだという。

 ――そんな光景が目に浮かぶ。

 屋敷の庭で、白い日除け帽をかぶった母と、エプロン姿のレイチェル。

 花壇の横で小さなカイルがボールを追いかけ、転びそうになって笑う。

 母がその腕をとっさに支え、レイチェルがほっと胸を撫で下ろす。

 見たことのない情景なのに、なぜか鮮やかに思い描けてしまうのが不思議だった。


 カイルはこの春で二歳になる。

 積み木を積み上げては倒し、柔らかいボールを投げて遊ぶ時期だという。

 母は、「もう少ししたら、読み聞かせを始めようと思うの」とも書いていた。

 文字をなぞるように唇が動く。

 ――その子の前で、レイチェルはどんな声で本を読むのだろう。

 優しく、穏やかで、眠りを誘うような声で。

 アーノルドは思わず頬が緩むのを感じた。


 そして、追い打ちをかけるように書かれていた一文。


 『小さい頃のあなたに本当にそっくりよ。

 でも、あなたより落ち着いているかもね。レイチェルさんが母親だからかしら?』


 思わず、くすっと笑ってしまった。

 自分が幼いころ、母を手こずらせていたことを思い出す。

 ――なるほど、落ち着いているなら、それは確かにレイチェルの血のせいだ。

 彼女の穏やかな気質と、まっすぐな眼差しを受け継いでいるのだろう。

 その子が笑う顔は、きっと彼女のように柔らかい。


 窓辺の光が、手紙の上を滑る。

 白い紙が少し透けて、インクの跡が影になった。

 胸の奥が、じんわりと熱を帯びる。

 会いたい。

 手紙の中の光景ではなく、ちゃんとこの目で見たい。

 レイチェルの笑顔も、カイルの小さな手も。

 ――けれど、それを言葉にするのは怖かった。


「会いたいな。レイチェル……」


 誰に聞かせるでもなく呟いた声が、空気の中に溶けていった。

 そして、静かに微笑む。


「好きって伝えるのって、難しいな……」


 ペンを持つ指先が、少し震えていた。

 こんなにも想っているのに、それを伝えることが、どうしてこんなに難しいのだろう。

 胸の奥に溜まった言葉が、形を持たないままくすぶっている。

 けれど、それでもいい。

 その不器用さも、今の自分の一部だから。


 アーノルドは手紙をそっとたたみ、机の引き出しに戻した。

 そして、深呼吸をひとつして、仕事へと視線を戻す。

 いつもの学院の午後。

 けれど、その胸の中には、確かにひとすじの温もりがあった。




 ◆




 五年の歳月が、ようやく終わった。


 アーノルドは、深呼吸をひとつしてヴァレッタ伯爵邸の門をくぐった。

 教え子たちの卒業式を何度も見送った身としては、もうここが『自分の実家』のように感じられた。

 長い間、外の世界で時間を過ごし、心も体も外で鍛えてきたつもりだった。

 しかし、門をくぐった瞬間、胸の奥に懐かしさと不思議な違和感が同時に湧き上がる。

 実家の面々は変わらずそこにいて、アーノルドだけが外の世界で年月を重ねてきたかのようだった。


 アーノルドも、三十歳を過ぎていた。

 顔には教員としての責任感と経験が刻まれ、視線には落ち着きが宿る。

 しかしその胸の奥底には、焦燥と期待が交錯していた。


 少し離れたところにある小高い丘の上に、レイチェルが立っていた。

 花冠をふわりと頭に載せ、髪を風に弄ばれながら、手には少年――カイルの小さな手をしっかり握っていた。

 小走りする母子の姿は、遠くから見ても幸せに満ちていて、まるで絵画のように美しかった。

 その光景を見た瞬間、アーノルドの胸は高鳴った。

 時間は流れ、世界は変わったはずなのに、レイチェルのその笑顔だけは、まるで昔のままだった。


「――行くしかない」


 アーノルドは歩幅を広げ、駆け出した。心の奥で、足がもつれるのを感じる。

 久しぶりの全力疾走。

 靴が少しきつく、ジャケットが腕を引っ張るように感じるが、それでも構わなかった。

 ――走らなければ、レイチェルに追いつけない。

 五年間も遠くから思い続けてきたのだから、今ここで抱きしめなければ、後悔するのは自分だ。


 丘の斜面を駆け上がりながら、アーノルドは心の中で繰り返した。


「過去の過ちも、誤解も、全部話す。俺は、レイチェルと向き合う」


 目の前で、レイチェルの髪が陽光を受けて銀色に光る。

 風に揺れる花冠、その隙間から覗く澄んだ瞳。

 走るレイチェルの背中に手を伸ばし、ついに――


 アーノルドはレイチェルの背後からそっと抱きついた。

 あの夜の匂いが、わずかに残っている。懐かしく、安心できる匂い。

 ほんの少しだけ、家の匂いも混じっていて、心が温かくなる。


 ……長かった。

 言葉にならない想いが胸の奥から溢れ出す。

 長いお預けは終わった。五年分の愛を、今ここで伝える番だ。


 ふと、抱き上げられたカイルと目が合った。

 小さな紅い瞳が、じっとアーノルドを見つめる。

 ――無言のまま、雄弁に問いかけている。

『あなたは誰? 母さんとどういう関係?』


 アーノルドは少し息を呑み、静かに目を細める。

 この子が、カイル。レイチェルとアーノルドとの子ども。


 心の中で、言葉を探す。カイルのことも聞きたい。これからどうするかも話したい。

 そして、今、最も確かに確認したいこと――


「……その子、僕との子どもだよね?」


 言葉を口にした瞬間、アーノルドの胸は高鳴り、手は自然とレイチェルをしっかりと抱き寄せていた。

 五年間の想いと不安、すべてが、この一瞬に凝縮されたように感じられた。






いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!



追記

11月12日

「アーノルドが酷すぎる」と読者の方々よりご指摘いただきましたので、あらすじと前書きの一部を書き足しました。




⬇️お時間ある方はこちらもどうぞ!姉妹格差ものです⬇️

【妹を大切にしてくださった婚約者様へ】

https://ncode.syosetu.com/n9252lh/



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勘当して好色男の後妻にやるはずだったのに「本当は娘を渡したくない」とかよく言えたなw 傷ついた娘を気遣う親を装う事で、何か得たいのかと勘ぐるレベル。 身重の娘を平気で長々と歩かせる辺りも愛情が全く感じ…
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