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後篇は本日22時頃投稿!
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※結末は「表面上」ハッピーエンドです。しかし、登場人物の行動が不愉快だと感じた方もいらっしゃいましたので、「すっきり爽快な読後」とは程遠い作品であるとここで明記させていただきます。
学園最後の夜は、まるで夢の中の出来事のようだった。
卒業式の余韻がまだ胸の奥に残っている。花々の香りが漂う大広間では、シャンデリアが金色の光をこぼし、音楽隊が優雅に弦を鳴らしていた。
煌びやかなドレスの裾を踏まないように歩きながら、レイチェル・モンフォート子爵令嬢はそっとため息をつく。
これで学園ともお別れ。
明日には実家に戻り、職を探したりしながら社交界へと放り込まれる――そんな予感が少しだけ、楽しみでもあった。
そんな時、後輩たちがすすめてくれたグラスを、軽い気持ちで受け取ってしまった。
初めてのワイン。
舌の上で転がしたその液体は、花のように甘く、けれど後から少しだけ熱く喉を焼いた。
しかし未知への挑戦は、レイチェルにとって少し早すぎたらしい。
「モンフォートさん、大丈夫ですか? お送りしましょうか?」
声をかけてきたのは、担任のアーノルド・ヴァレッタ。
25歳にして伯爵位を継ぎ、筆頭教諭に選ばれた才人で、生徒にも教職員にも慕われている。
少し癖のある暗い茶色の髪をかき上げ、穏やかに笑うその姿は、教師というより、まだ青年のようだった。
「すみませんが、お願いします……」
視界が少し霞んで、足元がふらつく。
彼の手が、迷いなく背を支えた。
冷たい夜風の中、馬車の扉を開けてくれる仕草までが丁寧で、思わず『やっぱり優しい人だな』と胸の奥で呟いた。
――そのあとのことは、霧の中の記憶のように曖昧だ。
笑っていた気もする。
何かを言おうとして、喉がうまく動かなかった気もする。
少し苦しいような、気持ちのいいような。
そして、どこか柔らかな声が耳元で囁いた。
「ごめん。きみのことが……どうしても、──」
その一言が、胸の奥に刺さって離れなかった。
気づけば、彼の指が髪に触れていた。
心臓が跳ねて、息が詰まった。
何かを言おうとしたけれど、言葉にならないまま――夜が、音もなく深く沈んでいった。
目を覚ますと、外はすでに白んでいた。
窓の外では鳥が鳴き、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
乱れたシーツの上で、レイチェルはゆっくりと体を起こした。
隣では、アーノルドが静かに眠っていた。
穏やかな寝息。緩んだ表情。
その姿を見ていると、昨夜の出来事がじわりと胸の奥に蘇る。
互いの名を呼び合い、愛を吐露しあった夜。
――あれは、夢じゃなかった。
頬が熱くなる。
けれど同時に、冷たい現実が押し寄せてくる。
教師と生徒。
卒業式の夜。
このことを誰かが知ったら、彼の立場はどうなるだろう。
指先が震えた。
罪悪感なのか、恐怖なのか、それともまだ酔いの残滓なのか、自分でもわからなかった。
彼の手が、昨夜、どれほど優しかったかは覚えている。
強引ではなかった。
ただ、熱に浮かされたように、お互いの境界を見失っていた――そんな夜だった。
レイチェルは静かにベッドを抜け出し、衣服を整えた。
鏡に映る自分の顔は、昨夜よりも少し大人びて見える。
唇に残る温もりが、やけに現実的だった。
机の上に一通のメモを残す。
それは感謝とも、別れの言葉ともつかない短い文。
――先生、どうかお元気で。
彼が目を覚ますより先に、部屋を後にした。
朝靄の街は、まだ静まり返っている。
宿の扉を出て馬車を拾うと、御者に実家の名を告げた。
蹄の音が、遠ざかっていく。
レイチェルは窓に頬を寄せ、薄い朝日を見上げた。
胸の奥に、ふと甘やかな痛みが残っている。
それはたしかに、誰かを想って過ごした一夜の証のようで――
「……素敵な夜だったな」
小さく呟いた声は、車輪の音にかき消された。
やがて馬車は角を曲がり、彼の眠る街を遠く離れていった。
◆
あれから一ヶ月。
レイチェルは、書斎で帳簿を手伝っていた。
卒業後は実家に戻り、社交界に出る準備をしながら、次の道を探していた。
――けれど、胸の奥には、ずっと重い石のようなものが沈んでいる。
舞踏会の夜の記憶。
あの夜から、彼の姿を一度も見ていない。
当たり前だ。アーノルドは教師で、今はきっと次年度の準備などで忙しいのだから。
会いにこない。
なのできっと、あれはアーノルドの遊びだったのだと。そう結論づけた。
紙に書かれた数字がぼやけて見える。
胸の奥がむかむかと揺れた。
立ち上がろうとした瞬間、視界が反転する。
「――うっ……!」
胃の奥からこみあげるものに逆らえず、レイチェルは机にしがみついた。
侍女の叫び声。
そのまま、床に膝をついて嘔吐した。
しばらくして、慌ただしく医師が呼ばれた。
白髪まじりの老医師は診察を終えると、静かに手を組んだ。
そして、低い声で告げた。
「……お嬢様、おめでとうございます。お身体の具合から見て、三週間ほどのご懐妊かと」
時間が止まったようだった。
音が消えた。
世界の色が、灰色に変わっていく。
「……え?」
自分の声が、遠くから響いてくる。
理解が追いつかない。
でも、確かに、医師の言葉は現実だった。
侍女たちの視線が、肌を刺すように痛い。
廊下の向こうで、低くざわめく声が混ざり合い、やがて部屋まで届いてくる。誰かが話すたびに、心臓が小さく跳ねる音が胸に響いた。
扉が勢いよく開き、父と母が駆け込んできた。
空気が一瞬にして張り詰める。息を飲む間もなく、母の声が部屋を切り裂いた。
「レイチェル、本当なの?」
「だ、誰との子なんだ?!」
言葉が喉に絡まり、重くのしかかる。
アーノルドの名前を出してしまえば、彼の人生、将来まで壊してしまうかもしれない。
教師と生徒——貴族社会でそれが意味するものを、レイチェルは幼い頃から知っていた。
考えるまでもなく、背筋が凍る。
「まさか、学園で……?!」
母の声が震え、瞳に宿った失望と怒りは、刃のように突き刺さる。
父は怒りに打ち震え、拳を机に叩きつけた。
「まだ嫁ぎ先も決まっていないのになんてこと!」
「お前はモンフォート家の恥だ」
その言葉は鋭く、冷たい風のように部屋を満たす。
レイチェルの胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に崩れ落ちていく。
「お前は勘当し、こちらで後妻でも貰ってくれるところを探す。それまで謹慎していなさい!」
父の声は宣告そのもので、氷のように冷たい。
床に響く靴音が、部屋から遠ざかる。振り返れば、二度と戻らないかのように。
残されたレイチェルは、ただ両手を胸に当てて、肩を震わせる。
目の前の世界が急に縮み、重く、息が詰まるような恐怖に包まれた。
怖い。
苦しい。
けれど、胸の奥の奥で確かに感じた。
小さな命が、静かに息づいている——。
頬を伝う涙は、後悔の涙ではなかった。
消え去った未来への悲しみでも、絶望の涙でもない。
その涙は、守るべきもののために心が覚醒した証だった。
「……絶対に、この子だけは守る」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に柔らかな灯がともった。
暗闇の中で唯一の希望の光。
誰も信じてくれなくても、この小さな命だけは、全てをかけて守る——。
レイチェルは静かに深呼吸をして、背筋を伸ばす。
外の冷たい風が窓をかすかに揺らし、庭の樹々の影が部屋の床に長く伸びている。
しかし、その影の中でも、心には確かな決意の光が揺るぎなく燃えていた
◆
数週間が経ち、レイチェルはモンフォート家を追い出された。
父の宣言は撤回されることなく、荷物をまとめさせられた。
金貨の詰まった小袋を一つ――それが、家族からの最後の情けだった。
扉が閉まる音が、やけに冷たく響く。
その瞬間、レイチェル・モンフォート子爵令嬢は、この世から消えた。
ただのレイチェルとして、生きていくしかなくなった。
――けれど、涙は出なかった。
泣いたところで、何も変わらない。
腹の奥の小さな命だけが、彼女を現実につなぎ止めていた。
「……強くならなきゃ。わたしが守るって決めたもの」
春の風が吹く。
庭に咲いたスノードロップの白が、まぶしいほどに清らかだった。
それを最後に見て、彼女は屋敷を後にした。
紹介状には、勤め先として『ヴァレッタ伯爵家』と記されていた。
父は『後妻の話だった』と言っていたのに、どうやら事情が変わったらしい。
メイドとして仕えることに、最初は戸惑いもあった。
だが、いまさら誇りなど抱えていても、守るべき命を危うくするだけだ。
「……春は、人を雇う季節だから。きっとそういうことなんだわ」
自分にそう言い聞かせるように、レイチェルは微笑んだ。
それでも心のどこかで、引っかかりがあった。
――ヴァレッタ伯爵。
その名は、胸の奥でずっと響いていた名前と同じだった。
けれど、アーノルドはもう領地を離れているはずだ。
新年度が始まれば、彼は学園の講壇に戻る。
もし偶然出会ったとしても、きっと気づかれない。
あの夜の出来事は、彼にとっては過ぎた一瞬――
思い出すほどの価値もない、星の数ほどあるうちの一つだったのだろう。
そう、何度も何度も、自分に言い聞かせた。
レイチェルは徒歩で領地を目指した。
馬車を使う余裕もない。
けれど、早春の空の下を歩くのは、思いのほか心地よかった。
風はまだ冷たく、頬を刺すようだったが、道端に咲く花々が小さな励ましをくれる。
七日目の夕暮れ。
丘を越えた先に、白い城が見えた。
それが――ヴァレッタ伯爵邸だった。
西の空は金色に染まり、沈みかけた陽が白壁を照らしていた。
広い庭園には瑞々しい若葉と花々が咲き乱れ、噴水の水音が風に溶ける。
遠くで見たその光景は、まるで絵本の一頁のようだった。
ここが新しい職場だと思うと、どこか現実味がない。
門扉は黒い鉄でできており、蔦が絡みついている。
装飾の曲線が優雅で、見上げると胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
――やはり、美しい屋敷。
かつて学園で見た彼の上品な所作を思い出す。
教師でありながら、貴族としての立ち居振る舞いを崩さない人だった。
レイチェルは深呼吸をして、門を叩いた。
金属の音が静かに響く。
やがて、門番の男性が顔を出した。
「どなたです?」
「紹介状を持ってまいりました。モ……いえ、レイチェルと申します」
危うく旧姓を名乗りそうになり、慌てて言い直す。
自分がもうモンフォートではないのだと、あらためて思い知らされた瞬間だった。
紹介状を受け取った門番が、目を通すと丁寧に頷いた。
「なるほど。少々お待ちください。メイド長をお呼びいたします」
門の内側で控えていたメイドたちが、興味深げにこちらを見ている。
彼女たちの制服は落ち着いた黒と白で統一されていて、清楚な印象を与えた。
レイチェルは背筋を伸ばし、礼儀正しく微笑む。
初めての職場で、恥をかくわけにはいかない。
やがて現れたメイド長は、年配ながらも厳しい眼差しをしていた。
「紹介状を確認しました。あなたが今日から来る新入りね?」
「はい。レイチェルと申します」
「ふむ……聞いていた話より若いわね。まぁいいわ、今は春で忙しいもの。手があるだけ助かるわ」
その言葉に、レイチェルは胸の奥でほっと息をついた。
追い出された先で、こうして必要とされる場所がある――それだけで救われる気がした。
ふと見上げた屋敷の塔の窓に、夕陽が反射していた。
まるでそこから誰かが見ているような気がして、レイチェルは目を細めた。
――まさか、ね。
彼はここにはいないはず。
レイチェルのいない場所で、新しい季節を迎えているはずだ。
それでも胸の奥に、淡い痛みが残る。
忘れようとしても、あの夜の温もりだけは、どうしても消えなかった。
「ようこそ、ヴァレッタ伯爵邸へ」
彼女の声が響く。
レイチェルは小さく頷き、庭を抜けて扉の向こうへ歩き出した。
◆
ヴァレッタ伯爵邸に着いて、二日目の午後。
長旅の疲れを癒やしたあと、レイチェルは邸内の奥、使用人詰所の一角で、再びメイド長と対面した。
ふくよかで、春の日差しのような柔らかい笑みをたたえた女性だ。
丸い頬と穏やかな瞳のおかげで、初対面のはずなのに、レイチェルはどこか母のような安心を覚えた。
緊張でこわばっていた肩が、ゆるりとほどけていくのが自分でも分かる。
「ええと……改めまして、レイチェルと申します。本日からこちらで……」
「聞いているわ。わざわざ歩いて来たんですって? 大変だったでしょう。まあ、うちの領地は穏やかでいいところよ。すぐに慣れるわ」
メイド長――ミリアムと名乗ったその人は、朗らかに笑いながら、仕事の内容や給金、部屋のことなどを丁寧に説明してくれた。
与えられた部屋は一人部屋で、窓からは庭の花壇が見える。朝は鶯の声で目を覚まし、昼は皆と簡単なまかないを囲み、夜は早く休む生活――そんな平穏が、久しく味わえなかった安らぎを胸に満たしていく。
「なんて、恵まれているのだろう」と思いながらも、レイチェルの心の底には、誰にも言えない秘密が沈んでいた。
妊娠のこと。
父に知られ、勘当され、名をも失った。
ここでも知られたら、きっと――また、追い出されるに違いない。
だから、今は隠しておこう。体調が落ち着くまで。働けるだけ働いて、少しでもこの子のために蓄えを――。
そう決意して、レイチェルは穏やかな日々を送るよう努めた。
けれど、夜になると、どうしようもない吐き気が襲ってくる。
日中はなんとかごまかしていた。机に向かい、書類に目を通し、家事に手をつける——その間だけは、体の不調を押し隠せる。しかし、夜の静寂が訪れると、胸の奥からぐっとこみ上げてくる違和感が、否応なく体を支配するのだった。
最初は誰にも気づかれなかった。
隠そうとすれば隠せるものだったし、相手が誰か知られれば余計に騒ぎになってしまう——そんな恐怖心が、体調不良を隠すための言い訳になっていた。
だが、その晩――寝支度をしている最中、不意に胃がひっくり返るような強烈な感覚が押し寄せた。身体の中心が波立ち、息が詰まる。
慌てて手にしたタオルを握りしめながら、洗面所へ駆け込む。冷たい磁器の洗面台に額を押し当て、手のひらで口元を押さえると、体内で渦巻く不快感がさらに強まる。息を整えようと深く吸い込むが、吐き気は止まらない。
そのとき、洗面所のドアが静かに開く音がした。
偶然通りかかったのは、ミリアムだった。
夜の柔らかな光に照らされた彼女の顔は、普段の穏やかさを保っている。だが、その瞳は一瞬で事態を理解したかのように、鋭くも優しい光を帯びている。
ミリアムの存在は、冷たい夜の空気を少しだけ和らげ、孤独に沈みかけたレイチェルの心に、そっと手を差し伸べるようだった。
「レイチェル? どうしたの、顔が真っ青よ」
「っ、ごめんなさい……! その……」
言葉を濁した瞬間、涙があふれた。
もう、隠せない。隠してはいけない。
そう思った。
「お腹に子どもがいるの、です……。
相手は言えないのですが、わたし、この子とは一緒にいたくて……っ」
ミリアムの前で、レイチェルは膝をつき、嗚咽をこらえることもできず泣き崩れた。
両親に信じてもらえなかったときの冷たい痛みが脳裏をよぎる。
また叱られる。怒鳴られる。罵られる――そう思って身をすくめた。
だが、返ってきたのは、あまりにも優しい言葉だった。
「そう。なら、月に一度は定期検診を頼まないとね」
あまりにも穏やかで、当たり前のように言うから、レイチェルは一瞬、意味が理解できなかった。
「い、いいんですか!? その……ここで産んでも……」
「それはあなたが決めることでしょう?
でも、ちゃんと決意してここに来たのなら、それでいいわ。私たちもサポートするから」
ぽたり、ぽたりと涙が頬を伝う。
優しくされた、それだけなのに――どうして、こんなにも涙が止まらないのだろう。
あの夜から、レイチェルの心はずっと軋み続けていたのだ。
「もう誰も信じない」「もう頼らない」と決めていたのに、こんなにも簡単に、誰かの優しさに救われてしまうなんて。
「……ありがとうございます。ありがとうございます、ミリアムさん……」
「泣かないの。お腹の子がびっくりしちゃうわ」
ミリアムが差し出したハンカチを受け取り、レイチェルはもう一度、深く頭を下げた。
その夜は、不思議なほどぐっすり眠れた。
ひとりではないと思えるだけで、世界はこんなにも温かく感じられるのだと、レイチェルは夢の中でようやく知ったのだった。
◆
働き始めてから数日が経った。
朝は庭師が木々に水をやり、昼にはコックがスープを煮込む香りが漂う。夕方になると、窓の外では鳥たちが巣へ帰る歌を奏でる――そんな穏やかな日々だった。
けれど、レイチェルはふとした瞬間に気づいた。
雇い主であるアーノルドには、一度も会っていないのだ。
この邸で働く以上、いつか挨拶くらいはすべきだと思っていた。
だが彼は週末も帰宅せず、使用人たちに尋ねても「お忙しい方だから」と曖昧に笑われるばかり。
(……本当にこの屋敷にいるのかしら)
そんな疑問が心をかすめても、深く詮索する気にはなれなかった。
会いたいような、会いたくないような――そんな複雑な気持ちが胸の奥に重なっていたからだ。
それよりも今は、日々の仕事を覚えることの方が大切だった。
同年代のメイドたちと談笑しながら掃除をし、厨房のコックが焼いたパンをつまみ食いして叱られ、夜にはミリアムと明日の予定を確認する。
穏やかで、優しい時間。
「覚えるのが早いね」
「てきぱきしてて、見てる方も気持ちがいい」
そんな言葉をかけられるたびに、胸がじんわりと温かくなった。
叱責ではなく、称賛の言葉。
冷たい目ではなく、笑顔。
決して得られなかったものが、ここにはあった。
そしてある日。
いつものように掃除を終えた午後、ミリアムに呼び止められた。
「レイチェル。あなたが、大奥様付きの専属メイドに任命されたわ」
「……えっ?」
あまりにも突然の話に、思わず声が裏返る。
「優しい方よ。それに、レイチェルが来るのを望んでいた人でもあるわ」
「望んで……いた?」
レイチェルは首を傾げた。
会ったこともないはずの人が、自分を望んでいたというのだ。
ミリアムの説明を聞くうちに、雇用を決めたのはアーノルドではなく――もしかしたら、その大奥様──前伯爵夫人なのではないかと感じ始めた。
(どうして……わたしなんだろう?)
戸惑いを抱えたまま、レイチェルは前伯爵夫人の部屋へ向かった。
扉をノックし、静かな声で告げる。
「お初にお目にかかります。レイチェルと申します。
本日より大奥様の専属メイドに配属されました。よろしくお願いします」
深々と頭を下げる。
その瞬間、頭の上に柔らかい感触が降りた。
「まあ、可愛らしい子ね」
驚いて顔を上げると、そこには穏やかな笑みをたたえた老婦人がいた。
皺のひとつひとつが優しさで刻まれたような、春の日差しのような顔。
レイチェルは思わず息をのんだ。
「実はね、モンフォート子爵夫人とは学園来の仲なの。
『娘はしっかりした子だからそんなはずない』って、私に相談をくれて……。辛かったでしょう?」
その言葉に、レイチェルの胸の奥で何かが崩れ落ちた。
――お母様が、信じてくれていた。
――自分を責めながらも、誰かに助けを求めていた。
こみ上げてくるものを抑えられず、レイチェルは泣いた。
声を上げることもできず、ただ涙だけが止まらなかった。
守るとお腹の子に誓ったけれど、どうやって守ればいいのか分からなかった。
伯爵邸で見る男性はみんな怖くて、夜は過去の記憶が胸を締めつけた。
それでも『母になる』と自分に言い聞かせて、気を張り続けてきた。
だから――この人の言葉が、あまりにも温かくて。
「大丈夫。誰の人生にだって、大なり小なり間違いはあるわ。
それを今後どうしていくかが大事なのよ」
その言葉が、心の奥まで沁み渡った。
涙が尽きるまで泣いたあと、レイチェルは静かに頷いた。
それからの日々、レイチェルは前伯爵夫人にすっかり懐いた。
彼女はまるで本当の母親のように、温かく、時には厳しく接してくれた。
レイチェルも、使用人としての距離を保ちながらも、その優しさに救われていった。
「私には息子しかいなくて。だからレイチェルが来て、娘が出来たみたいで嬉しいわ」
その言葉に、レイチェルは涙ぐみながら笑った。
――ここでなら、生きていける。
そう、心から思えたのだった。
◆
白い息が、ふう、と宙に溶けていく。
朝の空気は澄みきっていて、吐くたびに白い靄が生まれ、すぐに消えた。
レイチェルは厚手の毛布の上から、お腹をそっと撫でた。
十ヶ月。
あの夜から、もうそんなにも経ったのだと思うと、不思議な気持ちになる。
この大きなお腹の中には、確かに命がいる。
トクン、トクンと、内側から蹴られるたびに、その事実が胸の奥に刻まれる。
「……すごく、蹴るわね」
小さく笑いながら、レイチェルは呟いた。
こんなに元気なら、きっと男の子かもしれない。
でも、もし女の子だったとしても――どちらでも我が子を愛そう。
彼の子なら。
アーノルドの面影を、ほんの少しでも受け継いでいるなら。
ビターチョコのような深い髪色に、いちごジャムを溶かしたような紅の瞳。
柔らかな口調と、穏やかな笑み。
そんな子に育つのだろうかと、ほんの一瞬だけ夢を見た。
だが、すぐにその想像を打ち消す。
――もし彼の面影を宿していたら、この屋敷内でも領内でも、噂されてしまう。
この子を苦しめるかもしれないものを、レイチェルはこの世でいちばん恐れていた。
(どんなことがあっても、守る。わたしの命に代えても)
その決意を胸に、窓の外を見つめる。
雪がちらつき始めていた。灰色の雲の下、凍った庭がきらりと光を返す。
冷たい冬の空気が、心の奥まで澄み渡っていくようだった。
――そのときだった。
「いっ……」
腹の奥がきゅっと引きつり、熱を持った痛みが広がった。
シーツの下に、ぬるりとした感覚。
破水したのだと悟るまでに、数秒かかった。
「だ、誰か……!」
隣室のメイドを呼び、急ぎ足音が近づく。
「レイチェルさん、すぐ医者を呼びます!」
声が遠くに聞こえる。
痛みが波のように押し寄せて、息が乱れる。
握りしめたシーツが湿っている。
寒さよりも、恐怖よりも、ただ、ひとつの願いだけが胸の中を満たしていた。
――どうか、無事に。
陣痛は何度も何度も押し寄せ、そして遠のく。
時間の感覚が溶けていく中で、レイチェルはひとつのことを思い出した。
自分の母も、きっとこの痛みの中で、自分を産んでくれたのだろう。
そう思うと、涙が溢れた。
母を恨んでいた時間が、恥ずかしくなるほど短く思えた。
「もう少しですよ、レイチェルさん……! 深呼吸を!」
「っ……ぁ、あああっ……!」
声にならない声を上げ、何度も何度も、命を押し出す。
やがて、外の風が止んだような静寂の中――。
小さな産声が、響いた。
「レイチェルさん、かわいい男の子ですよ」
助産を手伝っていた医師の声が震えていた。
胸の奥で何かがほどける。
レイチェルは力の抜けた腕で、そっと赤ん坊を抱いた。
「……あぁ……」
その小さな体は、あまりにも儚かった。
まだ温かい。まだ世界のことを何も知らない。
それでも、確かに生きている。
「……生まれてきてくれて、ありがとう……」
涙が頬を伝う。
嬉しくて、愛おしくて、ただそれだけで胸がいっぱいだった。
「……この子の名は、カイル、と」
ぽつりと呟いた名は、やさしい響きをもって空気に溶けた。
カイル。
レイチェルの生きる意味。彼女の未来そのもの。
だが、次の瞬間、レイチェルは息をのんだ。
毛布の下で眠る小さな頭には、ビターチョコのような深い茶色の髪。
閉じた瞼の奥には、きっと紅の瞳が宿っているだろう。
――ヴァレッタ家の色だ。
アーノルドと、同じ色。
胸の奥がざわつく。
運命が、静かに繋がっているようで、怖くなった。
けれどその不安を押し流すように、カイルが小さく泣いた。
ぎゅっと抱きしめる。
弱々しいはずの声が、なぜだかこの世でいちばん力強く感じた。
「……大丈夫。お母さんがいるから。どんなことがあっても、あなたを守る」
レイチェルの腕の中で、カイルはまた大きく息を吸い、
そして、力強く泣いた。
それはまるで、この世界に生まれてくることを――
喜んでいるかのようだった。
◆
あれから五年が経った。
「母さん、花冠を作ったからあげるね」
「まあ……上手にできているわね。ありがとう、カイル」
小さな手が差し出す花冠は、たんぽぽとクローバーが編まれた、少しいびつで、それでもあたたかい春の色をしていた。
レイチェルはしゃがんで微笑み、息子の頭をそっと撫でた。
まだ指先に残る柔らかい髪の感触が愛おしい。
今日も空は高く、雲が羊の群れのように流れている。丘を包む風は甘く、遠くでひばりの声がした。
ここは伯爵邸の裏にある小高い丘。
春の午後のひととき、親子で並んで歩くのが、いつもの日課になっている。
「ほら、見て。あそこにもお花がいっぱい咲いてる!」
「ほんとね、カイル。あとで摘みにいきましょうか」
カイルは無邪気に笑う。その笑顔は、どこかアーノルドに似ていた。
仕草も、言葉の調子も、ふとした瞬間の目元も──。
会ったことなどないはずなのに、血が確かに流れているのだと実感させられる。
できることなら、レイチェルに似てくれればよかったのに。そう思うこともある。
けれど同時に、彼の存在そのものが、レイチェルに生きる意味をくれていた。
伯爵邸での日々は穏やかだった。
それもこれも、前伯爵夫人のおかげだろう。
あの人は今もレイチェルを気にかけてくれていて、母として、そして一人の女性の先輩として、多くのことを教えてくれる。
おむつの替え方、熱を出したときの冷まし方、絵本の読み聞かせまで。
「あなたはもう立派なお母さんよ」と笑われるたび、レイチェルは胸が温かくなった。
そんな平穏な日々の中、今日は少し特別だった。
アーノルドが、ついにこの屋敷へ戻ってくるのだ。
長年勤めていた学園を退き、正式にヴァレッタ伯爵家を継ぐ──。
つまりこれからは、彼が常にこの家にいるということになる。
「……」
レイチェルは、胸の奥にざらつくような痛みを覚えた。
彼はきっと、もう自分のことなど覚えていない。学園時代から人気のあった人だ。
あの後も、彼の周りにはたくさんの女性がいたはず。
恋人のひとりやふたりいたっておかしくはない。
そう思うと、なぜだろう、胸の奥が少し締めつけられた。
前伯爵夫人は、そんな彼女の気持ちを察したのかもしれない。
「レイチェルは、今夜は部屋にいていいのよ。宴のことは気にしないで」
そう優しく言ってくれた。
申し訳なさと、救われたような気持ちが入り混じり、レイチェルは深く頭を下げた。
──そのとき、手を引かれていた感覚がふっと消えた。
「痛っ!」
「カイル!? 大丈夫、転んじゃったのね……。少し血が出てるわ」
小さな膝から赤い血がにじんでいた。レイチェルはすぐに抱き上げ、ハンカチで押さえながら微笑む。
「もう帰りましょうか。お屋敷で手当てしないとね」
「うん……ごめん、母さん」
「いいのよ。痛いの、ちょっとだけ我慢できる?」
「うん!」
カイルの声は涙混じりだったけれど、すぐにいつもの調子に戻った。
レイチェルは彼を抱いたまま、丘を下りる。春草を踏みしめるたび、さくさくと柔らかな音がした。
風が吹き上げて、レイチェルの髪を大きく揺らす。
遠くの空が金色に傾き、伯爵邸の白い外壁が陽に照らされて輝いていた。
丘の上には、まだ摘み残された花々が咲き誇っていた。
風に揺れるたび、まるで「おかえり」と囁くように、白や黄の花弁が舞い上がる。
アーノルドがこの景色を見て育ったのだと思うと、少し胸が苦しくなった。
すると突然、
──不意に、後ろから抱き止められた。
あたたかい腕が、レイチェルの身体をやさしく包み込む。
春風が吹き抜け、花の香りが漂った。その中に、懐かしい匂いが混じる。
嗅覚が、過去を呼び覚ます。
あの夜。月の光の下で、何度も名を呼ばれ、抱かれた夜。
もう二度と思い出したくなかった記憶が、鮮明に脳裏を駆け巡った。
「……ねぇレイチェル。その子、僕との子どもだよね?」
その声は、耳の奥で震えた。
ゆっくりと横を見れば、そこには紅い瞳。
あの夜と同じ、熱を帯びた色でレイチェルを見つめている。
目を逸らそうとしても、吸い込まれるように離せない。
「アーノルド、せんせ……」
震える声で名を呼ぶと、彼は苦く笑った。
「もう先生じゃなくて、今はきみの雇い主なのに。……酷いな」
そう言う彼の表情には、影があった。
懐かしいはずの笑顔が、どこか寂しげに見える。
「違い、ます……。この子は、その、他のメイドから子守りを頼まれて……」
咄嗟に嘘が口をつく。
けれどアーノルドは、その言葉をやわらかく笑い飛ばした。
「はは、せめてレイチェルに似てたらなぁ……。でも残念。全部、僕に似てる。
それにこの五年間、僕はあの夜、レイチェルしか抱いていない」
心が、音を立てて崩れていく。
積み上げてきた平穏という名の防壁が、粉々に砕けていく。
──会いたくなかった。
会ってしまえば最後、自分がカイルの母として立っていられる自信がなかった。
認めるのが怖かった。
あの日、アーノルドを本気で好きになってしまったことを。
この穏やかな日常が壊れてしまうことを。
「でも、私とは遊びだったのでしょう? いいではありませんか。お互い、水に流せば……」
言葉が震える。逃げ出したいのに、足が動かない。
まるで影が地面に縫い付けられたように。
「そんなことはない!」
アーノルドの声が、風を裂いた。
思わずレイチェルの肩がびくりと震える。
抱きしめられているカイルも、警戒したように顔を上げた。紅い瞳が、父のそれと同じ光を宿している。
カイルの頭を撫でながら、レイチェルは俯いた。
このあと、どんな言葉が続くのだろう。
聞きたいような、聞きたくないような。
けれど、次に口にされたのは、あまりにも優しい言葉だった。
「ずっとレイチェルが好きだった。でも、生徒と教師という関係で、無理に迫って拒絶されるのが……怖かった。だからなにも言えなかった」
その声音には、懺悔にも似た痛みがあった。
「それにレイチェルはあの夜、酒を飲んでいただろう? 最初は、ただ心配だったんだ」
風がそよぎ、木々の葉がさざめく。遠くで鳥が鳴く。
そんな穏やかな風景の中で、アーノルドの声だけが現実を縫い止める。
「それから馬車に乗って、レイチェルの蕩けた横顔を見て。
……我慢できなかった。本当に、すまなかった」
あの夜の記憶が、また蘇る。
好きだった人が、今、目の前で自分に許しを乞うている。
恨み言のひとつも言おうと思っていたのに、なにも出てこない。
「許してくれとは言わない。
だからせめて、その子の成長を見届ける権利をくれないだろうか?」
アーノルドは、静かに頭を下げた。
その姿が、あまりに真っ直ぐで、レイチェルは言葉を失った。
──怖かったはずの人が、今はこんなにも弱く、優しく見える。
レイチェルは、腕の中のカイルと目を合わせた。
カイルは少しだけ呆れたように息を吐き、アーノルドを見上げて言った。
「おじさん、って今は言うけど、母さんが好きなら好きって言葉にしなよ。
……本当に好きなの?」
「もちろんだ!」
アーノルドは反射的に大声を出した。
その瞬間、自分でも驚いたのか、慌てて口を押さえ、視線を逸らす。
カイルは小さく笑って、もう一言。
「じゃあ、僕じゃなくて母さんに言って」
その言葉に、アーノルドは息を呑んだ。
そして、ゆっくりとレイチェルを見つめる。
彼の瞳は熱を帯び、真剣で、どこまでもまっすぐだった。
──見つめられるだけで、心臓が痛い。
聞きたくない。聞いたら、もう戻れなくなる。
けれど、聞かせてほしい。
矛盾する思いに胸が締めつけられる。
「レイチェル、好きだ。誰よりもきみを愛している。
……今はこれしかないけど。僕と、結婚してほしい」
差し出された手のひらには、小さな花の指輪。
庭で咲いていた白い花を編んだだけの、簡素で、けれど世界で一番美しい指輪だった。
その瞬間、レイチェルの中で時間が止まった。
あの人気で完璧な教師としてのアーノルドではなく、ひとりの人間としての彼が、今ここにいた。
頬を撫でる風が優しい。
背後の丘では、春の花々がゆらゆらと揺れ、光を反射して輝いていた。
──花冠と、花の指輪。
レイチェルには、五年ぶりに、大切なものが増えた。
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追記
11月10日誤字訂正
妊娠の辻褄が合わなくなっていました……。
ご指摘ありがとうございます!
本日22時頃後篇投稿予定!
⬇️お時間あればこちらもどうぞ!虐げられヒロインが幸せになるお話です⬇️
【名も無き愛玩令嬢が聖女レティシアと呼ばれるまで。】
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