表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

前篇

後篇は本日22時頃投稿!

ブックマーク等で追っていただけると嬉しいです!


※結末は「表面上」ハッピーエンドです。しかし、登場人物の行動が不愉快だと感じた方もいらっしゃいましたので、「すっきり爽快な読後」とは程遠い作品であるとここで明記させていただきます。

 


 学園最後の夜は、まるで夢の中の出来事のようだった。


 卒業式の余韻がまだ胸の奥に残っている。花々の香りが漂う大広間では、シャンデリアが金色の光をこぼし、音楽隊が優雅に弦を鳴らしていた。

 煌びやかなドレスの裾を踏まないように歩きながら、レイチェル・モンフォート子爵令嬢はそっとため息をつく。

 これで学園ともお別れ。

 明日には実家に戻り、職を探したりしながら社交界へと放り込まれる――そんな予感が少しだけ、楽しみでもあった。


 そんな時、後輩たちがすすめてくれたグラスを、軽い気持ちで受け取ってしまった。

 初めてのワイン。

 舌の上で転がしたその液体は、花のように甘く、けれど後から少しだけ熱く喉を焼いた。

 しかし未知への挑戦は、レイチェルにとって少し早すぎたらしい。


「モンフォートさん、大丈夫ですか? お送りしましょうか?」


 声をかけてきたのは、担任のアーノルド・ヴァレッタ。

 25歳にして伯爵位を継ぎ、筆頭教諭に選ばれた才人で、生徒にも教職員にも慕われている。

 少し癖のある暗い茶色の髪をかき上げ、穏やかに笑うその姿は、教師というより、まだ青年のようだった。


「すみませんが、お願いします……」


 視界が少し霞んで、足元がふらつく。

 彼の手が、迷いなく背を支えた。

 冷たい夜風の中、馬車の扉を開けてくれる仕草までが丁寧で、思わず『やっぱり優しい人だな』と胸の奥で呟いた。


 ――そのあとのことは、霧の中の記憶のように曖昧だ。


 笑っていた気もする。

 何かを言おうとして、喉がうまく動かなかった気もする。

 少し苦しいような、気持ちのいいような。

 そして、どこか柔らかな声が耳元で囁いた。


「ごめん。きみのことが……どうしても、──」


 その一言が、胸の奥に刺さって離れなかった。

 気づけば、彼の指が髪に触れていた。

 心臓が跳ねて、息が詰まった。

 何かを言おうとしたけれど、言葉にならないまま――夜が、音もなく深く沈んでいった。





 目を覚ますと、外はすでに白んでいた。

 窓の外では鳥が鳴き、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。

 乱れたシーツの上で、レイチェルはゆっくりと体を起こした。


 隣では、アーノルドが静かに眠っていた。

 穏やかな寝息。緩んだ表情。

 その姿を見ていると、昨夜の出来事がじわりと胸の奥に蘇る。


 互いの名を呼び合い、愛を吐露しあった夜。


 ――あれは、夢じゃなかった。


 頬が熱くなる。

 けれど同時に、冷たい現実が押し寄せてくる。

 教師と生徒。

 卒業式の夜。

 このことを誰かが知ったら、彼の立場はどうなるだろう。


 指先が震えた。

 罪悪感なのか、恐怖なのか、それともまだ酔いの残滓なのか、自分でもわからなかった。


 彼の手が、昨夜、どれほど優しかったかは覚えている。

 強引ではなかった。

 ただ、熱に浮かされたように、お互いの境界を見失っていた――そんな夜だった。


 レイチェルは静かにベッドを抜け出し、衣服を整えた。

 鏡に映る自分の顔は、昨夜よりも少し大人びて見える。

 唇に残る温もりが、やけに現実的だった。


 机の上に一通のメモを残す。

 それは感謝とも、別れの言葉ともつかない短い文。


 ――先生、どうかお元気で。


 彼が目を覚ますより先に、部屋を後にした。

 朝靄の街は、まだ静まり返っている。

 宿の扉を出て馬車を拾うと、御者に実家の名を告げた。


 蹄の音が、遠ざかっていく。

 レイチェルは窓に頬を寄せ、薄い朝日を見上げた。

 胸の奥に、ふと甘やかな痛みが残っている。

 それはたしかに、誰かを想って過ごした一夜の証のようで――


「……素敵な夜だったな」


 小さく呟いた声は、車輪の音にかき消された。

 やがて馬車は角を曲がり、彼の眠る街を遠く離れていった。




 ◆




 あれから一ヶ月。

 レイチェルは、書斎で帳簿を手伝っていた。

 卒業後は実家に戻り、社交界に出る準備をしながら、次の道を探していた。

 ――けれど、胸の奥には、ずっと重い石のようなものが沈んでいる。

 舞踏会の夜の記憶。

 あの夜から、彼の姿を一度も見ていない。

 当たり前だ。アーノルドは教師で、今はきっと次年度の準備などで忙しいのだから。

 会いにこない。

 なのできっと、あれはアーノルドの遊びだったのだと。そう結論づけた。


 紙に書かれた数字がぼやけて見える。

 胸の奥がむかむかと揺れた。

 立ち上がろうとした瞬間、視界が反転する。


「――うっ……!」


 胃の奥からこみあげるものに逆らえず、レイチェルは机にしがみついた。

 侍女の叫び声。

 そのまま、床に膝をついて嘔吐した。


 しばらくして、慌ただしく医師が呼ばれた。

 白髪まじりの老医師は診察を終えると、静かに手を組んだ。

 そして、低い声で告げた。


「……お嬢様、おめでとうございます。お身体の具合から見て、三週間ほどのご懐妊かと」


 時間が止まったようだった。

 音が消えた。

 世界の色が、灰色に変わっていく。


「……え?」

 自分の声が、遠くから響いてくる。

 理解が追いつかない。

 でも、確かに、医師の言葉は現実だった。


 侍女たちの視線が、肌を刺すように痛い。

 廊下の向こうで、低くざわめく声が混ざり合い、やがて部屋まで届いてくる。誰かが話すたびに、心臓が小さく跳ねる音が胸に響いた。


 扉が勢いよく開き、父と母が駆け込んできた。

 空気が一瞬にして張り詰める。息を飲む間もなく、母の声が部屋を切り裂いた。


「レイチェル、本当なの?」

「だ、誰との子なんだ?!」


 言葉が喉に絡まり、重くのしかかる。

 アーノルドの名前を出してしまえば、彼の人生、将来まで壊してしまうかもしれない。

 教師と生徒——貴族社会でそれが意味するものを、レイチェルは幼い頃から知っていた。

 考えるまでもなく、背筋が凍る。


「まさか、学園で……?!」

 母の声が震え、瞳に宿った失望と怒りは、刃のように突き刺さる。

 父は怒りに打ち震え、拳を机に叩きつけた。


「まだ嫁ぎ先も決まっていないのになんてこと!」

「お前はモンフォート家の恥だ」


 その言葉は鋭く、冷たい風のように部屋を満たす。

 レイチェルの胸の奥で、何かが静かに、しかし確実に崩れ落ちていく。


「お前は勘当し、こちらで後妻でも貰ってくれるところを探す。それまで謹慎していなさい!」


 父の声は宣告そのもので、氷のように冷たい。

 床に響く靴音が、部屋から遠ざかる。振り返れば、二度と戻らないかのように。


 残されたレイチェルは、ただ両手を胸に当てて、肩を震わせる。

 目の前の世界が急に縮み、重く、息が詰まるような恐怖に包まれた。

 怖い。

 苦しい。

 けれど、胸の奥の奥で確かに感じた。


 小さな命が、静かに息づいている——。


 頬を伝う涙は、後悔の涙ではなかった。

 消え去った未来への悲しみでも、絶望の涙でもない。

 その涙は、守るべきもののために心が覚醒した証だった。


「……絶対に、この子だけは守る」


 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に柔らかな灯がともった。

 暗闇の中で唯一の希望の光。

 誰も信じてくれなくても、この小さな命だけは、全てをかけて守る——。


 レイチェルは静かに深呼吸をして、背筋を伸ばす。

 外の冷たい風が窓をかすかに揺らし、庭の樹々の影が部屋の床に長く伸びている。

 しかし、その影の中でも、心には確かな決意の光が揺るぎなく燃えていた




 ◆




 数週間が経ち、レイチェルはモンフォート家を追い出された。

 父の宣言は撤回されることなく、荷物をまとめさせられた。

 金貨の詰まった小袋を一つ――それが、家族からの最後の情けだった。


 扉が閉まる音が、やけに冷たく響く。

 その瞬間、レイチェル・モンフォート子爵令嬢は、この世から消えた。

 ただのレイチェルとして、生きていくしかなくなった。


 ――けれど、涙は出なかった。

 泣いたところで、何も変わらない。

 腹の奥の小さな命だけが、彼女を現実につなぎ止めていた。


「……強くならなきゃ。わたしが守るって決めたもの」


 春の風が吹く。

 庭に咲いたスノードロップの白が、まぶしいほどに清らかだった。

 それを最後に見て、彼女は屋敷を後にした。





 紹介状には、勤め先として『ヴァレッタ伯爵家』と記されていた。

 父は『後妻の話だった』と言っていたのに、どうやら事情が変わったらしい。

 メイドとして仕えることに、最初は戸惑いもあった。

 だが、いまさら誇りなど抱えていても、守るべき命を危うくするだけだ。


「……春は、人を雇う季節だから。きっとそういうことなんだわ」


 自分にそう言い聞かせるように、レイチェルは微笑んだ。

 それでも心のどこかで、引っかかりがあった。

 ――ヴァレッタ伯爵。

 その名は、胸の奥でずっと響いていた名前と同じだった。


 けれど、アーノルドはもう領地を離れているはずだ。

 新年度が始まれば、彼は学園の講壇に戻る。

 もし偶然出会ったとしても、きっと気づかれない。

 あの夜の出来事は、彼にとっては過ぎた一瞬――

 思い出すほどの価値もない、星の数ほどあるうちの一つだったのだろう。


 そう、何度も何度も、自分に言い聞かせた。


 レイチェルは徒歩で領地を目指した。

 馬車を使う余裕もない。

 けれど、早春の空の下を歩くのは、思いのほか心地よかった。

 風はまだ冷たく、頬を刺すようだったが、道端に咲く花々が小さな励ましをくれる。


 七日目の夕暮れ。

 丘を越えた先に、白い城が見えた。


 それが――ヴァレッタ伯爵邸だった。




 西の空は金色に染まり、沈みかけた陽が白壁を照らしていた。

 広い庭園には瑞々しい若葉と花々が咲き乱れ、噴水の水音が風に溶ける。

 遠くで見たその光景は、まるで絵本の一頁のようだった。

 ここが新しい職場だと思うと、どこか現実味がない。


 門扉は黒い鉄でできており、蔦が絡みついている。

 装飾の曲線が優雅で、見上げると胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 ――やはり、美しい屋敷。

 かつて学園で見た彼の上品な所作を思い出す。

 教師でありながら、貴族としての立ち居振る舞いを崩さない人だった。


 レイチェルは深呼吸をして、門を叩いた。

 金属の音が静かに響く。

 やがて、門番の男性が顔を出した。


「どなたです?」

「紹介状を持ってまいりました。モ……いえ、レイチェルと申します」


 危うく旧姓を名乗りそうになり、慌てて言い直す。

 自分がもうモンフォートではないのだと、あらためて思い知らされた瞬間だった。


 紹介状を受け取った門番が、目を通すと丁寧に頷いた。

「なるほど。少々お待ちください。メイド長をお呼びいたします」


 門の内側で控えていたメイドたちが、興味深げにこちらを見ている。

 彼女たちの制服は落ち着いた黒と白で統一されていて、清楚な印象を与えた。

 レイチェルは背筋を伸ばし、礼儀正しく微笑む。

 初めての職場で、恥をかくわけにはいかない。


 やがて現れたメイド長は、年配ながらも厳しい眼差しをしていた。

「紹介状を確認しました。あなたが今日から来る新入りね?」

「はい。レイチェルと申します」

「ふむ……聞いていた話より若いわね。まぁいいわ、今は春で忙しいもの。手があるだけ助かるわ」


 その言葉に、レイチェルは胸の奥でほっと息をついた。

 追い出された先で、こうして必要とされる場所がある――それだけで救われる気がした。


 ふと見上げた屋敷の塔の窓に、夕陽が反射していた。

 まるでそこから誰かが見ているような気がして、レイチェルは目を細めた。

 ――まさか、ね。

 彼はここにはいないはず。

 レイチェルのいない場所で、新しい季節を迎えているはずだ。


 それでも胸の奥に、淡い痛みが残る。

 忘れようとしても、あの夜の温もりだけは、どうしても消えなかった。


「ようこそ、ヴァレッタ伯爵邸へ」

 彼女の声が響く。

 レイチェルは小さく頷き、庭を抜けて扉の向こうへ歩き出した。




 ◆




 ヴァレッタ伯爵邸に着いて、二日目の午後。

 長旅の疲れを癒やしたあと、レイチェルは邸内の奥、使用人詰所の一角で、再びメイド長と対面した。


 ふくよかで、春の日差しのような柔らかい笑みをたたえた女性だ。

 丸い頬と穏やかな瞳のおかげで、初対面のはずなのに、レイチェルはどこか母のような安心を覚えた。

 緊張でこわばっていた肩が、ゆるりとほどけていくのが自分でも分かる。


「ええと……改めまして、レイチェルと申します。本日からこちらで……」


「聞いているわ。わざわざ歩いて来たんですって? 大変だったでしょう。まあ、うちの領地は穏やかでいいところよ。すぐに慣れるわ」


 メイド長――ミリアムと名乗ったその人は、朗らかに笑いながら、仕事の内容や給金、部屋のことなどを丁寧に説明してくれた。

 与えられた部屋は一人部屋で、窓からは庭の花壇が見える。朝は鶯の声で目を覚まし、昼は皆と簡単なまかないを囲み、夜は早く休む生活――そんな平穏が、久しく味わえなかった安らぎを胸に満たしていく。


「なんて、恵まれているのだろう」と思いながらも、レイチェルの心の底には、誰にも言えない秘密が沈んでいた。

 妊娠のこと。

 父に知られ、勘当され、名をも失った。

 ここでも知られたら、きっと――また、追い出されるに違いない。

 だから、今は隠しておこう。体調が落ち着くまで。働けるだけ働いて、少しでもこの子のために蓄えを――。


 そう決意して、レイチェルは穏やかな日々を送るよう努めた。





 けれど、夜になると、どうしようもない吐き気が襲ってくる。

 日中はなんとかごまかしていた。机に向かい、書類に目を通し、家事に手をつける——その間だけは、体の不調を押し隠せる。しかし、夜の静寂が訪れると、胸の奥からぐっとこみ上げてくる違和感が、否応なく体を支配するのだった。


 最初は誰にも気づかれなかった。

 隠そうとすれば隠せるものだったし、相手が誰か知られれば余計に騒ぎになってしまう——そんな恐怖心が、体調不良を隠すための言い訳になっていた。


 だが、その晩――寝支度をしている最中、不意に胃がひっくり返るような強烈な感覚が押し寄せた。身体の中心が波立ち、息が詰まる。


 慌てて手にしたタオルを握りしめながら、洗面所へ駆け込む。冷たい磁器の洗面台に額を押し当て、手のひらで口元を押さえると、体内で渦巻く不快感がさらに強まる。息を整えようと深く吸い込むが、吐き気は止まらない。


 そのとき、洗面所のドアが静かに開く音がした。

 偶然通りかかったのは、ミリアムだった。


 夜の柔らかな光に照らされた彼女の顔は、普段の穏やかさを保っている。だが、その瞳は一瞬で事態を理解したかのように、鋭くも優しい光を帯びている。

 ミリアムの存在は、冷たい夜の空気を少しだけ和らげ、孤独に沈みかけたレイチェルの心に、そっと手を差し伸べるようだった。


「レイチェル? どうしたの、顔が真っ青よ」


「っ、ごめんなさい……! その……」


 言葉を濁した瞬間、涙があふれた。

 もう、隠せない。隠してはいけない。

 そう思った。


「お腹に子どもがいるの、です……。

 相手は言えないのですが、わたし、この子とは一緒にいたくて……っ」


 ミリアムの前で、レイチェルは膝をつき、嗚咽をこらえることもできず泣き崩れた。

 両親に信じてもらえなかったときの冷たい痛みが脳裏をよぎる。

 また叱られる。怒鳴られる。罵られる――そう思って身をすくめた。


 だが、返ってきたのは、あまりにも優しい言葉だった。


「そう。なら、月に一度は定期検診を頼まないとね」


 あまりにも穏やかで、当たり前のように言うから、レイチェルは一瞬、意味が理解できなかった。


「い、いいんですか!? その……ここで産んでも……」


「それはあなたが決めることでしょう?

 でも、ちゃんと決意してここに来たのなら、それでいいわ。私たちもサポートするから」


 ぽたり、ぽたりと涙が頬を伝う。

 優しくされた、それだけなのに――どうして、こんなにも涙が止まらないのだろう。

 あの夜から、レイチェルの心はずっと軋み続けていたのだ。

「もう誰も信じない」「もう頼らない」と決めていたのに、こんなにも簡単に、誰かの優しさに救われてしまうなんて。


「……ありがとうございます。ありがとうございます、ミリアムさん……」


「泣かないの。お腹の子がびっくりしちゃうわ」


 ミリアムが差し出したハンカチを受け取り、レイチェルはもう一度、深く頭を下げた。


 その夜は、不思議なほどぐっすり眠れた。

 ひとりではないと思えるだけで、世界はこんなにも温かく感じられるのだと、レイチェルは夢の中でようやく知ったのだった。




 ◆




 働き始めてから数日が経った。

 朝は庭師が木々に水をやり、昼にはコックがスープを煮込む香りが漂う。夕方になると、窓の外では鳥たちが巣へ帰る歌を奏でる――そんな穏やかな日々だった。


 けれど、レイチェルはふとした瞬間に気づいた。

 雇い主であるアーノルドには、一度も会っていないのだ。


 この邸で働く以上、いつか挨拶くらいはすべきだと思っていた。

 だが彼は週末も帰宅せず、使用人たちに尋ねても「お忙しい方だから」と曖昧に笑われるばかり。


 (……本当にこの屋敷にいるのかしら)

 そんな疑問が心をかすめても、深く詮索する気にはなれなかった。

 会いたいような、会いたくないような――そんな複雑な気持ちが胸の奥に重なっていたからだ。


 それよりも今は、日々の仕事を覚えることの方が大切だった。

 同年代のメイドたちと談笑しながら掃除をし、厨房のコックが焼いたパンをつまみ食いして叱られ、夜にはミリアムと明日の予定を確認する。

 穏やかで、優しい時間。


「覚えるのが早いね」

「てきぱきしてて、見てる方も気持ちがいい」


 そんな言葉をかけられるたびに、胸がじんわりと温かくなった。

 叱責ではなく、称賛の言葉。

 冷たい目ではなく、笑顔。

 決して得られなかったものが、ここにはあった。


 そしてある日。

 いつものように掃除を終えた午後、ミリアムに呼び止められた。





「レイチェル。あなたが、大奥様付きの専属メイドに任命されたわ」


「……えっ?」


 あまりにも突然の話に、思わず声が裏返る。


「優しい方よ。それに、レイチェルが来るのを望んでいた人でもあるわ」


「望んで……いた?」


 レイチェルは首を傾げた。

 会ったこともないはずの人が、自分を望んでいたというのだ。

 ミリアムの説明を聞くうちに、雇用を決めたのはアーノルドではなく――もしかしたら、その大奥様──前伯爵夫人なのではないかと感じ始めた。


(どうして……わたしなんだろう?)


 戸惑いを抱えたまま、レイチェルは前伯爵夫人の部屋へ向かった。


 扉をノックし、静かな声で告げる。

「お初にお目にかかります。レイチェルと申します。

 本日より大奥様の専属メイドに配属されました。よろしくお願いします」


 深々と頭を下げる。

 その瞬間、頭の上に柔らかい感触が降りた。


「まあ、可愛らしい子ね」


 驚いて顔を上げると、そこには穏やかな笑みをたたえた老婦人がいた。

 皺のひとつひとつが優しさで刻まれたような、春の日差しのような顔。

 レイチェルは思わず息をのんだ。


「実はね、モンフォート子爵夫人とは学園来の仲なの。

 『娘はしっかりした子だからそんなはずない』って、私に相談をくれて……。辛かったでしょう?」


 その言葉に、レイチェルの胸の奥で何かが崩れ落ちた。


 ――お母様が、信じてくれていた。

 ――自分を責めながらも、誰かに助けを求めていた。


 こみ上げてくるものを抑えられず、レイチェルは泣いた。

 声を上げることもできず、ただ涙だけが止まらなかった。


 守るとお腹の子に誓ったけれど、どうやって守ればいいのか分からなかった。

 伯爵邸で見る男性はみんな怖くて、夜は過去の記憶が胸を締めつけた。

 それでも『母になる』と自分に言い聞かせて、気を張り続けてきた。


 だから――この人の言葉が、あまりにも温かくて。


「大丈夫。誰の人生にだって、大なり小なり間違いはあるわ。

 それを今後どうしていくかが大事なのよ」


 その言葉が、心の奥まで沁み渡った。

 涙が尽きるまで泣いたあと、レイチェルは静かに頷いた。


 それからの日々、レイチェルは前伯爵夫人にすっかり懐いた。

 彼女はまるで本当の母親のように、温かく、時には厳しく接してくれた。

 レイチェルも、使用人としての距離を保ちながらも、その優しさに救われていった。


「私には息子しかいなくて。だからレイチェルが来て、娘が出来たみたいで嬉しいわ」


 その言葉に、レイチェルは涙ぐみながら笑った。


 ――ここでなら、生きていける。

 そう、心から思えたのだった。




 ◆




 白い息が、ふう、と宙に溶けていく。

 朝の空気は澄みきっていて、吐くたびに白い靄が生まれ、すぐに消えた。

 レイチェルは厚手の毛布の上から、お腹をそっと撫でた。


 十ヶ月。

 あの夜から、もうそんなにも経ったのだと思うと、不思議な気持ちになる。

 この大きなお腹の中には、確かに命がいる。

 トクン、トクンと、内側から蹴られるたびに、その事実が胸の奥に刻まれる。


「……すごく、蹴るわね」


 小さく笑いながら、レイチェルは呟いた。

 こんなに元気なら、きっと男の子かもしれない。

 でも、もし女の子だったとしても――どちらでも我が子を愛そう。


 彼の子なら。

 アーノルドの面影を、ほんの少しでも受け継いでいるなら。


 ビターチョコのような深い髪色に、いちごジャムを溶かしたような紅の瞳。

 柔らかな口調と、穏やかな笑み。

 そんな子に育つのだろうかと、ほんの一瞬だけ夢を見た。


 だが、すぐにその想像を打ち消す。

 ――もし彼の面影を宿していたら、この屋敷内でも領内でも、噂されてしまう。

 この子を苦しめるかもしれないものを、レイチェルはこの世でいちばん恐れていた。


(どんなことがあっても、守る。わたしの命に代えても)


 その決意を胸に、窓の外を見つめる。

 雪がちらつき始めていた。灰色の雲の下、凍った庭がきらりと光を返す。

 冷たい冬の空気が、心の奥まで澄み渡っていくようだった。


 ――そのときだった。


「いっ……」


 腹の奥がきゅっと引きつり、熱を持った痛みが広がった。

 シーツの下に、ぬるりとした感覚。

 破水したのだと悟るまでに、数秒かかった。


「だ、誰か……!」


 隣室のメイドを呼び、急ぎ足音が近づく。

「レイチェルさん、すぐ医者を呼びます!」

 声が遠くに聞こえる。


 痛みが波のように押し寄せて、息が乱れる。

 握りしめたシーツが湿っている。

 寒さよりも、恐怖よりも、ただ、ひとつの願いだけが胸の中を満たしていた。


 ――どうか、無事に。


 陣痛は何度も何度も押し寄せ、そして遠のく。

 時間の感覚が溶けていく中で、レイチェルはひとつのことを思い出した。

 自分の母も、きっとこの痛みの中で、自分を産んでくれたのだろう。

 そう思うと、涙が溢れた。

 母を恨んでいた時間が、恥ずかしくなるほど短く思えた。


「もう少しですよ、レイチェルさん……! 深呼吸を!」

「っ……ぁ、あああっ……!」


 声にならない声を上げ、何度も何度も、命を押し出す。

 やがて、外の風が止んだような静寂の中――。


 小さな産声が、響いた。


「レイチェルさん、かわいい男の子ですよ」


 助産を手伝っていた医師の声が震えていた。

 胸の奥で何かがほどける。

 レイチェルは力の抜けた腕で、そっと赤ん坊を抱いた。


「……あぁ……」


 その小さな体は、あまりにも儚かった。

 まだ温かい。まだ世界のことを何も知らない。

 それでも、確かに生きている。


「……生まれてきてくれて、ありがとう……」


 涙が頬を伝う。

 嬉しくて、愛おしくて、ただそれだけで胸がいっぱいだった。


「……この子の名は、カイル、と」


 ぽつりと呟いた名は、やさしい響きをもって空気に溶けた。

 カイル。

 レイチェルの生きる意味。彼女の未来そのもの。


 だが、次の瞬間、レイチェルは息をのんだ。

 毛布の下で眠る小さな頭には、ビターチョコのような深い茶色の髪。

 閉じた瞼の奥には、きっと紅の瞳が宿っているだろう。


 ――ヴァレッタ家の色だ。


 アーノルドと、同じ色。


 胸の奥がざわつく。

 運命が、静かに繋がっているようで、怖くなった。

 けれどその不安を押し流すように、カイルが小さく泣いた。


 ぎゅっと抱きしめる。

 弱々しいはずの声が、なぜだかこの世でいちばん力強く感じた。


「……大丈夫。お母さんがいるから。どんなことがあっても、あなたを守る」


 レイチェルの腕の中で、カイルはまた大きく息を吸い、

 そして、力強く泣いた。


 それはまるで、この世界に生まれてくることを――

 喜んでいるかのようだった。




 ◆




 あれから五年が経った。


「母さん、花冠を作ったからあげるね」


「まあ……上手にできているわね。ありがとう、カイル」


 小さな手が差し出す花冠は、たんぽぽとクローバーが編まれた、少しいびつで、それでもあたたかい春の色をしていた。

 レイチェルはしゃがんで微笑み、息子の頭をそっと撫でた。

 まだ指先に残る柔らかい髪の感触が愛おしい。


 今日も空は高く、雲が羊の群れのように流れている。丘を包む風は甘く、遠くでひばりの声がした。

 ここは伯爵邸の裏にある小高い丘。

 春の午後のひととき、親子で並んで歩くのが、いつもの日課になっている。


「ほら、見て。あそこにもお花がいっぱい咲いてる!」


「ほんとね、カイル。あとで摘みにいきましょうか」


 カイルは無邪気に笑う。その笑顔は、どこかアーノルドに似ていた。

 仕草も、言葉の調子も、ふとした瞬間の目元も──。

 会ったことなどないはずなのに、血が確かに流れているのだと実感させられる。

 できることなら、レイチェルに似てくれればよかったのに。そう思うこともある。

 けれど同時に、彼の存在そのものが、レイチェルに生きる意味をくれていた。


 伯爵邸での日々は穏やかだった。

 それもこれも、前伯爵夫人のおかげだろう。

 あの人は今もレイチェルを気にかけてくれていて、母として、そして一人の女性の先輩として、多くのことを教えてくれる。

 おむつの替え方、熱を出したときの冷まし方、絵本の読み聞かせまで。

「あなたはもう立派なお母さんよ」と笑われるたび、レイチェルは胸が温かくなった。


 そんな平穏な日々の中、今日は少し特別だった。

 アーノルドが、ついにこの屋敷へ戻ってくるのだ。

 長年勤めていた学園を退き、正式にヴァレッタ伯爵家を継ぐ──。

 つまりこれからは、彼が常にこの家にいるということになる。


「……」


 レイチェルは、胸の奥にざらつくような痛みを覚えた。

 彼はきっと、もう自分のことなど覚えていない。学園時代から人気のあった人だ。

 あの後も、彼の周りにはたくさんの女性がいたはず。

 恋人のひとりやふたりいたっておかしくはない。

 そう思うと、なぜだろう、胸の奥が少し締めつけられた。


 前伯爵夫人は、そんな彼女の気持ちを察したのかもしれない。

「レイチェルは、今夜は部屋にいていいのよ。宴のことは気にしないで」

 そう優しく言ってくれた。

 申し訳なさと、救われたような気持ちが入り混じり、レイチェルは深く頭を下げた。


 ──そのとき、手を引かれていた感覚がふっと消えた。


「痛っ!」


「カイル!? 大丈夫、転んじゃったのね……。少し血が出てるわ」


 小さな膝から赤い血がにじんでいた。レイチェルはすぐに抱き上げ、ハンカチで押さえながら微笑む。


「もう帰りましょうか。お屋敷で手当てしないとね」


「うん……ごめん、母さん」


「いいのよ。痛いの、ちょっとだけ我慢できる?」


「うん!」


 カイルの声は涙混じりだったけれど、すぐにいつもの調子に戻った。

 レイチェルは彼を抱いたまま、丘を下りる。春草を踏みしめるたび、さくさくと柔らかな音がした。

 風が吹き上げて、レイチェルの髪を大きく揺らす。

 遠くの空が金色に傾き、伯爵邸の白い外壁が陽に照らされて輝いていた。


 丘の上には、まだ摘み残された花々が咲き誇っていた。

 風に揺れるたび、まるで「おかえり」と囁くように、白や黄の花弁が舞い上がる。


 アーノルドがこの景色を見て育ったのだと思うと、少し胸が苦しくなった。

 すると突然、





 ──不意に、後ろから抱き止められた。


 あたたかい腕が、レイチェルの身体をやさしく包み込む。

 春風が吹き抜け、花の香りが漂った。その中に、懐かしい匂いが混じる。

 嗅覚が、過去を呼び覚ます。

 あの夜。月の光の下で、何度も名を呼ばれ、抱かれた夜。

 もう二度と思い出したくなかった記憶が、鮮明に脳裏を駆け巡った。


「……ねぇレイチェル。その子、僕との子どもだよね?」


 その声は、耳の奥で震えた。

 ゆっくりと横を見れば、そこには紅い瞳。

 あの夜と同じ、熱を帯びた色でレイチェルを見つめている。

 目を逸らそうとしても、吸い込まれるように離せない。


「アーノルド、せんせ……」


 震える声で名を呼ぶと、彼は苦く笑った。


「もう先生じゃなくて、今はきみの雇い主なのに。……酷いな」


 そう言う彼の表情には、影があった。

 懐かしいはずの笑顔が、どこか寂しげに見える。


「違い、ます……。この子は、その、他のメイドから子守りを頼まれて……」


 咄嗟に嘘が口をつく。

 けれどアーノルドは、その言葉をやわらかく笑い飛ばした。


「はは、せめてレイチェルに似てたらなぁ……。でも残念。全部、僕に似てる。

 それにこの五年間、僕はあの夜、レイチェルしか抱いていない」


 心が、音を立てて崩れていく。

 積み上げてきた平穏という名の防壁が、粉々に砕けていく。


 ──会いたくなかった。


 会ってしまえば最後、自分がカイルの母として立っていられる自信がなかった。

 認めるのが怖かった。

 あの日、アーノルドを本気で好きになってしまったことを。

 この穏やかな日常が壊れてしまうことを。


「でも、私とは遊びだったのでしょう? いいではありませんか。お互い、水に流せば……」


 言葉が震える。逃げ出したいのに、足が動かない。

 まるで影が地面に縫い付けられたように。


「そんなことはない!」


 アーノルドの声が、風を裂いた。

 思わずレイチェルの肩がびくりと震える。

 抱きしめられているカイルも、警戒したように顔を上げた。紅い瞳が、父のそれと同じ光を宿している。


 カイルの頭を撫でながら、レイチェルは俯いた。

 このあと、どんな言葉が続くのだろう。

 聞きたいような、聞きたくないような。


 けれど、次に口にされたのは、あまりにも優しい言葉だった。


「ずっとレイチェルが好きだった。でも、生徒と教師という関係で、無理に迫って拒絶されるのが……怖かった。だからなにも言えなかった」


 その声音には、懺悔にも似た痛みがあった。


「それにレイチェルはあの夜、酒を飲んでいただろう? 最初は、ただ心配だったんだ」


 風がそよぎ、木々の葉がさざめく。遠くで鳥が鳴く。

 そんな穏やかな風景の中で、アーノルドの声だけが現実を縫い止める。


「それから馬車に乗って、レイチェルの蕩けた横顔を見て。

 ……我慢できなかった。本当に、すまなかった」


 あの夜の記憶が、また蘇る。

 好きだった人が、今、目の前で自分に許しを乞うている。

 恨み言のひとつも言おうと思っていたのに、なにも出てこない。


「許してくれとは言わない。

 だからせめて、その子の成長を見届ける権利をくれないだろうか?」


 アーノルドは、静かに頭を下げた。

 その姿が、あまりに真っ直ぐで、レイチェルは言葉を失った。


 ──怖かったはずの人が、今はこんなにも弱く、優しく見える。


 レイチェルは、腕の中のカイルと目を合わせた。

 カイルは少しだけ呆れたように息を吐き、アーノルドを見上げて言った。


「おじさん、って今は言うけど、母さんが好きなら好きって言葉にしなよ。

 ……本当に好きなの?」


「もちろんだ!」


 アーノルドは反射的に大声を出した。

 その瞬間、自分でも驚いたのか、慌てて口を押さえ、視線を逸らす。


 カイルは小さく笑って、もう一言。


「じゃあ、僕じゃなくて母さんに言って」


 その言葉に、アーノルドは息を呑んだ。

 そして、ゆっくりとレイチェルを見つめる。

 彼の瞳は熱を帯び、真剣で、どこまでもまっすぐだった。


 ──見つめられるだけで、心臓が痛い。

 聞きたくない。聞いたら、もう戻れなくなる。

 けれど、聞かせてほしい。

 矛盾する思いに胸が締めつけられる。


「レイチェル、好きだ。誰よりもきみを愛している。

 ……今はこれしかないけど。僕と、結婚してほしい」


 差し出された手のひらには、小さな花の指輪。

 庭で咲いていた白い花を編んだだけの、簡素で、けれど世界で一番美しい指輪だった。


 その瞬間、レイチェルの中で時間が止まった。

 あの人気で完璧な教師としてのアーノルドではなく、ひとりの人間としての彼が、今ここにいた。


 頬を撫でる風が優しい。

 背後の丘では、春の花々がゆらゆらと揺れ、光を反射して輝いていた。


 ──花冠と、花の指輪。


 レイチェルには、五年ぶりに、大切なものが増えた。







いつも応援コメント、評価、リアクションありがとうございます!


ぜひ面白ければ★★★★★、退屈だったら★☆☆☆☆をお願いします。


ここまで読んでくださったみなさんに感謝!!



追記

11月10日誤字訂正

妊娠の辻褄が合わなくなっていました……。

ご指摘ありがとうございます!



本日22時頃後篇投稿予定!

⬇️お時間あればこちらもどうぞ!虐げられヒロインが幸せになるお話です⬇️

【名も無き愛玩令嬢が聖女レティシアと呼ばれるまで。】

https://ncode.syosetu.com/n9396lg/




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ