B6.地下牢
B6.地下牢
甲斐が、ゆっくりと階段を下りた。
「この足音は、甲斐さん?」
地下牢の榛名が顔を上げる。
「正解。――大丈夫そうね」
鉄格子越しに見る榛名はやつれていたが、目に生気が宿っていた。
「これのどこが大丈夫なんです?」
首輪が赤く光っている。〈隷〉の魔術が作動中だ。
「本名を言ってしまったのね」
「迂闊でした。……リョウの墓碑銘に、わたしの名を刻もうと思って。解除方法は?」
榛名が首輪を指で軽くはじくと、光が点滅し、軽く絞まる。
「第三者には解除できないそうよ。――旦那曰く」
「そうですか。――旦那は?」
宝珠の光が点滅を終えると、首輪がゆっくりと元の大きさに戻る。
「魔術に夢中になっているわ」
「でしょうね。まるで、周の文王みたい」
「ああ、そういうことか」
甲斐が深く目をつむり、ゆっくりと開いた。
「何がです?」
「どんな心境かと聞いたら、『女臣日日』と言われたのよ。てっきり、『女性の臣下の毎日』という意味かと思って、『公爵閣下の〈魔法使いの弟子〉を注視せよ』という指示かと考えていた……」
「(文王の名の)『姫昌』は思いつかなかったんですか?」
「解けたけれど、誰のことをさすのか分からなかった」
甲斐が苦笑する。
「ああ、一番残念なパターンですね」
榛名が笑顔を見せた。
「陸奥さんなら、知っているかと。中国古典、大好きですから」
「あら意外。彼、工学部じゃあなかった?」
「第二外国語が中国語です。前は電子機器メーカーの営業で、上海駐在。例のパンデミックで合弁会社が倒産、帰国。神戸市生まれ。震災で家族を亡くしています」
「……」
「保安部は全員天涯孤独ですが、生まれながらたった一人になったのは彼だけです」
「よく知っているわね」
「再従姉の元夫ですから。離婚原因はDV。――ああ、陸奥さんではなく、再従姉の。結婚式で一回会ったきりで、陸奥さん本人は覚えていません」
「他に伝えることは?」
「本読みたい」
榛名が棒読みした。
「思い出せばいいでしょう?」
文学部だった榛名はウォーキングディクショナリー(生き字引)だ。かなりの知識を有する。
「違うんです。あの……活字。そう、字が読みたいんです。新聞でもチラシでも電話帳でも帳簿でもいいから字が読みたい。――ああもうおかしくなっちゃう」
榛名が両手を上げ、手をバタバタしてみせた。
「電話帳って、もうないでしょう?」
「楽しかったんだけどなあ……」
榛名が遠い目をした。
「登場人物が多いとか?」
「通字を見つけて、本家の住所から家系を追うんです」
「通字?」
「諱の一つです。名前に特定の漢字を使ったものです。徳川家なら、家康の『家』とか」
「ああ、真田幸村の『幸』とか?」
「そう、それです。ただ、幸村は信繁なんですけどね」
「それは飽きないでしょうね。――まあ明日の朝には釈放の予定だから辛抱して。じゃあね」
甲斐が気だるそうに、手を振った。




