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夜空の星になったきみへ

作者: 晴日

夜更けの書斎に、静かな風が入り込んでいた。 机の上には一冊の本。刷りたての紙の匂いが、まだ濃く漂っている。

 世間では、僕を「若きベストセラー作家」と呼ぶらしい。 華やかな肩書きや成功を口にする人は多い。けれど、そんな言葉に僕は一度も価値を感じたことはなかった。 なぜなら――僕が本当に書きたかったのは、ただ一つの物語だからだ。

 最後のページにペンを走らせる。 あとがき。どの作品よりも、この言葉を書くのに時間がかかった。

――これは、一人の少女に捧げる物語です。 僕に夢を与え、そしてその夢を最後まで見届けることなく消えていった君へ。

 インクがにじみ、視界がぼやける。 思い出すのは、あの夏の午後、図書室で響いた声。

『私、最初の読者になってもいい?』

 あの瞬間


第1章 最初の読者


 蝉の声が窓越しに揺れて、放課後の図書室は夏の光に包まれていた。

 空気は蒸し暑く、冷房の効かない室内には古い紙の匂いが漂っている。

 僕――天野悠人――は、机に広げたノートに集中していた。

 ペン先が紙を走る音だけが静かに響き、外の喧騒とは別世界のようだった。


 物語はまだ完成していない。

 主人公も結末も、すべて僕の手の中で迷子のままだ。

 誰にも読ませられない。いや、読んでもらうつもりもなかった。

 僕の夢――小説家になること――は、まだ秘密にしておくべきものだったからだ。


 「ねえ……それって、小説?」


 突然の声に、僕は思わずペンを止めた。

 振り返ると、長い黒髪の少女が立っていた。

 日差しを受けて髪が光り、瞳は好奇心に満ちている。

 少し汗ばむ頬も、笑顔も――すべてが、僕の心を揺さぶるためだけに存在しているようだった。


 「ち、違う……ただのノートだ」

 ぎこちなく首を振る僕に、彼女は屈託なく笑った。


 「ふーん、でも面白そうだよ。読ませてくれない?」


 誰にも見せたことのない、僕だけの世界。

 秘密の中に隠した夢を、たった一人に見られるという恐怖と興奮が、胸の奥で混ざり合った。


 しばらく沈黙が続く。

 彼女は机に腰掛け、背筋を伸ばして、ノートに視線を落とす。


 「私、最初の読者になってもいい?」


 その言葉に、心臓が跳ねた。

 夢を形にすること――誰かに届けること――その瞬間の喜びを、僕は初めて知った気がした。


 夏の光が二人の間に降り注ぐ。

 窓の外では蝉が鳴き、机の上には未完成の物語。

 その空間のすべてが、僕の人生を変える一瞬だった。


 ノートをそっと差し出すと、彼女は目を輝かせてページをめくった。

 文字を追う目がきらきらと光るのを見て、僕は密かに誓った。


 ――いつか、この物語を君に届けよう。

 そして、君に読まれるために、僕は書き続ける。

 放課後の光はゆっくりと色を変え、机の上の文字にも柔らかく影を落とす。

 紗菜はときどき顔を上げ、僕の方をちらりと見て笑う。

 「ここ、すごく面白いね」

 「……面白い?」

 「うん。読みながら、主人公の気持ちが伝わってくる」


 僕の胸は、温かさで満たされる。

 誰かに認められることの喜びと、誰にも見せられなかった世界を理解される幸福。

 それは言葉では言い表せない感覚だった。


 「ねえ、悠人くん」

 ふと彼女が声を落とす。


 「ん?」

 「君の物語って、書いてる時どんな気持ち?」


 僕は言葉に詰まり、窓の外の蝉の声に耳を澄ませた。

 「……正直、怖い」

 「怖い?」

 「うん。誰かに見られたら、つまらないって思われるかもしれない」


 紗菜は小さく笑って、僕の手を軽く叩く。

 「大丈夫。私は楽しみにしてるから」


 その笑顔に、僕の心はふわりと軽くなる。

 ――僕は、紗菜のために書く。

 この小さな図書室で芽生えた想いが、物語を紡ぐ力になった。

 夕陽が差し込む図書室で、二人は言葉を交わし、ページをめくり、ペンを走らせた。

 風がカーテンを揺らし、蝉の声が遠くへ消えていく。

 それでも、僕の胸の中の時間は、紗菜と共にゆっくりと流れた。


 ――ここから、僕の物語は始まる。

 そして、紗菜との物語も。


第2章 放課後の共犯者


 翌日も、紗菜はいつものように図書室に現れた。

 「今日の続きは書いてきた?」

 ドアを開けるなり、屈託なく笑いながら尋ねる。まるで、僕が小説を書くこと自体が彼女の一日の一部であるかのようだった。


 「……少しは」

 僕は渋々ノートを差し出す。


 紗菜は机の椅子を引き寄せ、ページをめくった。

 文字に沿って指先が滑るたび、目を輝かせる。

 髪を耳にかける仕草や、真剣な顔つきは、どこか愛おしいとさえ思えた。


 「ここ、主人公が迷ってるのに描写が浅いよ」

 「……そんなこと言うのは簡単だよ」

 「簡単じゃないのはわかってる。でもね、こういう葛藤があるから面白いんだよ」


 彼女は笑って、またページに目を戻した。

 その真剣さに押されるように、僕の手も自然と動き始める。

 誰かに期待される喜びを、僕は初めて味わった。


 午後の光がゆっくりと図書室を満たす。

 長い影が床に伸び、机の上の文字に柔らかく影を落とす。

 僕は気づく――紗菜がいなければ、この物語はここまで生き生きとしていなかった。


 「ねえ、悠人くん」

 ふと、紗菜が声を落とす。


 「ん?」

 「主人公、君に似てるよ」


 胸がぎゅっと締めつけられる。

 「……僕に?」

 「うん。臆病で、人に本音を言えない。でも、すごく優しい」


 その視線は、僕の心の奥まで透かして見ているようで、恥ずかしくて目を逸らすしかなかった。


 「……臆病だよ」

 小さく答えると、紗菜は微笑みながら小さく手を叩いた。


 「じゃあ、これから少しずつ強くなればいいじゃん。物語みたいに」


 その言葉に胸の奥がじんわりと温かくなる。

 彼女と過ごす放課後は、僕を少しずつ変えていった。

 日が傾く頃、図書室の空気はさらに柔らかくなり、窓から差し込む光が机の上のノートを黄金色に染める。

 紗菜はページをめくりながら、ふと僕を見上げる。


 「ねえ、悠人くん、次はどんな物語を書くの?」

 「……まだ決まってない」

 「じゃあ、一緒に考えようよ」


 その提案に、心臓が少し跳ねた。

 僕の物語は、紗菜と一緒に作るものになったのだ。

 孤独な放課後はもう、二度と戻らない。


 机の上に置かれたノートと、二人の影。

 外の蝉の声はやがて夕暮れの静けさに変わり、僕たちは言葉とペンを通して、ひとつの世界を生み出し続けた。

第3章 言葉を交わすたびに


 夏休みが近づくにつれ、図書室で過ごす時間はさらに増えていった。

 授業が終わると、僕は自然に図書室の扉を開け、紗菜を探す。

 彼女はいつもと変わらず笑顔で待っていて、僕の心は少しだけ落ち着く。


 「ねえ、悠人くん」

 紗菜が差し伸べるページには、僕が書いた物語の主人公が迷う場面があった。

 「主人公、もっと迷ったほうが面白くなるよ。だって、迷うってことは……まだ強くなる余地があるってことだから」


 僕はその言葉にハッとする。

 迷いを恐れていた自分の心が、少しずつほどける感覚。

 紗菜の一言で、物語も、僕自身も、変わることができる気がした。


 「……そうか、迷ったほうがいいんだね」

 「うん!」

 その声には小さな力があって、僕の胸にそっと触れる。

 放課後の空気は柔らかく、窓から差し込む光は徐々に夕陽に変わる。

 カーテンが揺れるたび、机の上のノートに長い影が伸びる。

 紗菜はページをめくりながら、ふと僕の方を見る。


 「ねえ、悠人くん」

 「ん?」

 「物語を書くとき、楽しいことだけじゃなくて、悲しいことも思い出してる?」


 胸がぎゅっと締めつけられる。

 悲しいこと……紗菜と過ごす時間の楽しさが大きい分だけ、その裏にある怖さも知っている。

 僕は少し黙った。


 「……少し」

 紗菜は頷き、軽く笑う。

 「そうなんだ。じゃあ、次はその気持ちも書いてみて」


 彼女の笑顔には不思議な力がある。

 悲しみも迷いも、逃げずに受け止めてくれる気がする。

 僕はそのたびに、少しずつ勇気をもらった。

 ある日、図書室でのいつもの時間に、紗菜は少し顔色が優れないように見えた。

 「……大丈夫?」

 僕の声に、彼女は無理に笑った。

 「うん、ちょっと疲れただけ」


 けれど、目の奥に微かに影が揺れるのを僕は見逃さなかった。

 その時はまだ、深く考えなかった。ただ、心のどこかで不安が芽生える。


 それでも二人の時間は続く。

 ノートに向かい、ペンを走らせる。

 紗菜が笑うたび、僕はまた書き続ける力をもらう。

 言葉を交わすたびに、心が触れ合うたびに、僕たちの距離は確かに近づいていた。

 夕陽が図書室の壁に長い影を落とす。

 蝉の声は遠くなり、教室には静かな空気だけが残る。

 僕は心の奥でそっと誓った。


 ――紗菜のために、この物語を完成させる。

 そして、彼女が笑って読んでくれる日まで、僕は書き続ける。

第4章 夕暮れの約束


 放課後、図書室の窓から差し込む光は、日ごとにオレンジ色を強くしていた。

 夏休みも目前。教室は静まり返り、外の蝉の声だけがかすかに聞こえる。


 「悠人くん、今日はどこまで書いたの?」

 紗菜は机の上のノートを覗き込みながら、目を輝かせて尋ねる。


 「まだ途中……」

 僕は少しうつむき気味に答える。

 ページに書き込む文字は多くないが、紗菜の目に読まれることで、少しずつ勇気が湧く。


 「ふーん、じゃあ続きを一緒に考えようよ」

 彼女はノートの端にペンを置き、僕の隣に腰掛けた。

 その距離の近さに、心臓が小さく跳ねる。


 「主人公、次はどうする?」

 「……うーん、迷ってる」

 「じゃあ、その迷いを書こうよ。読んでる人に伝わるように」


 紗菜はそう言って笑う。笑顔が柔らかくて、僕の心の緊張をほどいてくれる。

 この人は、僕の物語にだけでなく、僕自身にも色をつけてくれる。

 その日、紗菜は少し顔色が悪く、手をテーブルの下に隠していた。

 「……大丈夫?」

 僕はそっと訊く。

 「うん、大丈夫。ちょっと暑いだけ」

 けれど、微かに震える手の先を見逃さなかった。


 胸の奥に小さな不安が芽生える。

 でも彼女はいつも通り笑っている。

 その笑顔に、僕は安心してしまい、疑念を心の奥に押し込める。

 ノートに向かう時間が静かに過ぎる。

 会話は途切れず、でも無理に話さなくても居心地がいい。

 僕たちの間には、言葉以上の何かが流れているようだった。


 夕暮れの光が机の上を朱色に染め、窓の外には金色の風が揺れる。

 紗菜はふと僕の顔を見上げて、笑いながら言った。


 「ねえ、悠人くん。約束しよう」

 「……約束?」

 「うん。この物語、絶対最後まで書き上げるって。私、最初の読者でいるから」


 その言葉に、胸が熱くなる。

 小さな図書室で交わされた約束は、僕にとってこれまでで一番大きな支えになった。


 「……約束する。絶対、完成させる」

 僕は真剣に答えた。


 紗菜は満足そうに笑い、ページをめくる。

 その笑顔を見て、僕は心の奥でそっと思った。


 ――この人のために、僕はどんな困難も乗り越えられる。

第5章 秘密


 夏休み前のある日の放課後、図書室には二人だけが残っていた。

 外は蝉の声が遠くなり、夕暮れの光が机の上のノートを柔らかく照らす。


 「ねえ、悠人くん」

 紗菜が小さな声で呼びかける。

 「うん?」

 「……私、ちょっとだけ言わなきゃいけないことがあるの」


 心臓が跳ねる。

 紗菜が何を言うのか、少し怖くて、でも知りたくて、胸がざわつく。


 「……実は、私、病気があって」

 言葉はゆっくり、でも確かに紗菜の口から紡がれた。

 「え……?」

 僕は息を飲む。想像もしていなかった言葉に、頭の中が真っ白になった。


 「急に倒れたりすることもあるし……無理しちゃいけないって、いつも言われてる」

 紗菜は顔を伏せ、髪で目を隠すようにして話す。

 「でも、悠人くんと一緒にいる時間は、特別にしたくて……」


 胸が締めつけられる。

 紗菜は、僕に心配をかけまいと、無理をして笑っていたのだ。

 その姿を想像すると、言葉にならない痛みが胸に広がった。

 僕はゆっくりと紗菜の手を握った。

 「……ごめん、知らなくて」

 「ううん、いいの。今まで通りでいてほしいだけ」

 その声には強さがある。けれど、僕にはその裏に隠された弱さも見えた。


 「約束する。無理はさせない。でも、一緒に物語は書こう」

 僕の言葉に、紗菜は小さく頷き、微笑む。

 笑顔は変わらないけれど、どこか儚げで、夕陽に溶けるようだった。

 その日以来、僕たちの放課後は少し変わった。

 紗菜は無理をせず、でも僕との時間は大切にする。

 僕も、彼女の体調に気を配りながら、物語を書き続ける。


 図書室の空気はいつも通り柔らかく、言葉を交わすたびに心が通い合う。

 けれど、心のどこかで、切なさと不安がそっと影を落としていた。


 ――彼女が笑ってくれる時間を、少しでも長く守りたい。

 その気持ちが、僕のペンに力を与えた。

第6章 小さな嘘


 夏休みが近づく放課後の図書室は、夕陽の光で壁がオレンジ色に染まっていた。

 僕たちはいつものようにノートを広げ、ペンを走らせる。

 でも、どこかいつもと違う空気があった。


 「悠人くん……あのね」

 紗菜は小さく声を落とした。


 「うん?」

 「今日は、ちょっとだけ早く帰らなきゃいけないの」


 いつもの元気な声とは違い、少しだけかすれたように聞こえる。

 僕は胸の奥に不安を覚えた。

 「大丈夫?」

 「うん、大丈夫……ほんとに、少しだけ」


 でも、彼女の目はどこか遠くを見ているようで、微かに揺れていた。

 ノートに書き込みながら、僕は心の中で考える。

 紗菜の体調のことを知ってから、僕は些細な変化も見逃せなくなっていた。

 ほんの少しでも元気がないと、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。


 「ねえ、悠人くん……ごめんね」

 「なにが?」

 「今日も私、元気なふりして……」

 小さな声が、机の上のノートよりも静かに響く。


 その瞬間、胸に熱いものが込み上げた。

 笑顔でいる紗菜を見ているだけでは、真実はわからない。

 でも、それでも一緒にいたい――その気持ちが僕を強くする。

 夕陽が窓を赤く染める。

 紗菜はペンを置き、僕に向かって笑う。

 「じゃあ、また明日ね」

 「うん……気をつけて帰ってね」


 その笑顔の裏にある小さな嘘を、僕は知ってしまった。

 でも、今はそれを問い詰めることはできない。

 大切なのは、紗菜と過ごす時間を守ること――その思いだけが、僕の胸にあった。

 帰り道、僕はノートに向かいながら考えた。

 彼女が笑ってくれるために、僕ができることは何か。

 物語を書き続けること、見守ること、そして一緒に過ごす時間を大切にすること。


 ――小さな嘘も、きっと彼女の優しさの一部だ。

 僕はそのことを心に刻み、ペンを走らせた。

第7章 冬の気配


 冬の足音が、校舎に少しずつ近づいていた。

 放課後の図書室には、夏の光とは違う、白く柔らかな光が差し込む。

 窓の外では、寒々しい風が枝を揺らし、落ち葉を舞い上げている。


 「寒くなったね、悠人くん」

 紗菜はセーターの袖を少し引き上げ、肩をすくめる。

 「うん、冬が来たね」

 僕は答えながら、机の上のノートに目を落とす。


 物語を書く時間は変わらない。けれど、放課後の空気には、冬の冷たさと温もりの混ざった特別な静けさがあった。

 紗菜は少し咳をし、手を口に当てる。

 「……大丈夫?」

 「うん、ちょっとだけ」


 その声の奥に、かすかな疲れが隠れているのを僕は感じた。

 夏の頃よりも、少しだけ彼女の体に無理が出ている――そんな気がして、胸が痛む。

 僕はノートを開き、ペンを走らせながらも、時折紗菜の方を見る。

 「ねえ、悠人くん」

 「ん?」

 「主人公、今のままだと強くならないよね」

 「え……?」

 「だって、迷って逃げるだけじゃ面白くない。ちゃんと向き合わなきゃ」


 紗菜の目は真剣で、でもどこか儚げだ。

 その言葉に、僕はハッとした。

 紗菜は、僕にだけでなく、主人公にも真実を見せてくれているのだ。


 「……向き合うね」

 僕は小さく答える。

 日が傾くと、図書室の光はさらに柔らかくなり、二人の影が長く伸びる。

 紗菜は少し無理をして、笑顔を作る。

 でも、その笑顔を見ていると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

 大切にしなければ、この時間を、彼女の笑顔を――


 ノートに文字を書きながら、僕は心の中で誓った。

 ――紗菜が笑っていられる時間を、少しでも長く守る。

 そのために、僕は物語を書き続け、そばにいよう。

 冬の風が窓を吹き抜け、教室に冷たい空気を運ぶ。

 外では落ち葉が舞い、蝉の声はもう遠い記憶となっていた。

 けれど、図書室の中の僕たちには、暖かな時間が流れている。

 それは、言葉を交わすたびに、互いの存在を確かめ合う時間だった。


 ――冬の寒さの中でも、この時間だけは二人だけの季節であり続ける。

第8章 雪の匂い


 冬休みが近づくある日の放課後。

 図書室の窓からは、かすかに雪の匂いが漂ってきた。

 外は白い世界に包まれ、教室の中の光は柔らかく反射している。


 「雪だね……」

 紗菜がつぶやく。窓の外を見つめながら、頬を赤く染めている。

 「うん、もう冬だね」

 僕はそう答えつつ、紗菜の横顔に目をやる。


 冬の寒さにも負けず、彼女の笑顔はあたたかかった。

 でも、その笑顔の裏に、かすかな疲れが見え隠れしているのも、僕にはわかる。

 ノートを開き、ペンを走らせながら、僕はそっと声をかける。

 「無理してない?」

 紗菜は少し驚いたように僕を見て、そして笑った。

 「大丈夫だよ。悠人くんといると、元気出るんだ」


 その言葉に、胸がじんわり熱くなる。

 僕は文字を書く手を止め、彼女の顔を見つめた。

 ――この人のために、物語を書き続けたい。

 その思いが、胸の奥で確かに強くなる。

 放課後の図書室には、雪の匂いと冬の光が入り混じる。

 窓の外では、雪が舞い、枝や屋根に薄く積もっている。

 紗菜はページをめくりながら、ふと小さな声で言った。


 「ねえ、悠人くん……」

 「うん?」

 「私、この物語、最後まで読めるかな」


 胸がぎゅっと締め付けられる。

 その声は、笑顔で包まれているけれど、どこか不安も含んでいる。

 僕は迷わず彼女の手を取った。


 「大丈夫。絶対に完成させて、悠人くんに読んでもらうんだ」

 その言葉に、紗菜の目が一瞬潤む。

 僕はそっと微笑み返し、ペンを握り直した。

 雪の匂いが教室に溶け込み、二人の息が白く混ざる。

 言葉にできない気持ちが、静かに、確かに心を通り抜ける。

 小説を書くこと、互いの存在を守ること、そして笑顔で過ごすこと。

 それらすべてが、二人の冬の時間を形作っていた。


 ――雪の匂いと共に、この時間も心に刻まれる。

 紗菜と過ごす、最後まで大切にしたい冬の午後。

第9章 告白の予感


 冬休みも間近になり、図書室の空気はひんやりと澄んでいた。

 窓の外では雪が静かに舞い、机の上のノートには僕たちの物語が少しずつ形を成していた。


 「悠人くん……」

 紗菜がふと声を落とす。僕はすぐに視線を向けた。


 「うん?」

 「ねえ、主人公の気持ち、もっとはっきり描いてほしいな」


 彼女の目が真剣で、でもどこか柔らかい。

 その視線に、僕の胸が少し高鳴る。

 ――僕の気持ちも、そろそろ伝えなきゃいけないかもしれない。

 ノートを閉じ、僕は深呼吸した。

 「紗菜……」

 「うん?」

 「その、ありがとう。いつも読んでくれて、アドバイスしてくれて……」

 声が少し震える。

 「悠人くん……?」

 紗菜が眉をひそめる。その顔が愛おしくて、思わず手を握りたくなる。


 「僕……紗菜のことが、ずっと――」

 言葉はそこで止まった。

 胸の奥の思いが溢れそうで、でも同時に怖かった。

 紗菜は少し微笑み、でもその笑顔には不安の影もあった。

 「悠人くん……?」

 その声に、僕は全てを伝える決意を固める。


 「紗菜……僕は、君のことが好きだ」

 ゆっくり、でも確かに紡いだ言葉。

 図書室の静かな空気が、一瞬で熱を帯びたように感じる。


 紗菜は目を丸くして驚き、そして少し間を置いて微笑んだ。

 「……私も、悠人くんのこと、ずっと好きだった」


 胸が熱くなる。雪の匂いと冬の光に包まれた図書室で、二人の心が初めて言葉で交わされた瞬間だった。

 その日から、物語を書く時間はさらに特別になった。

 紗菜と過ごす時間は、ただの放課後ではなく、二人だけの世界。

 会話を交わし、笑い合い、時には小さな葛藤も乗り越える。


 ――告白の瞬間は終わったけれど、ここからが僕たちの本当の物語の始まりだった。

第10章 最後の夏休み


 夏休みの初日、空は透き通るように青く、蝉の声が校庭に響いていた。

 図書室は相変わらず静かで、僕たちのノートの文字だけが熱を帯びるように机の上で輝いていた。


 「悠人くん、今日も書くの?」

 紗菜は机の上に手を置き、笑顔で尋ねる。

 「うん、今日は少し長く書こうと思って」

 「じゃあ、私もずっと読むね」


 彼女の笑顔に、胸の奥が熱くなる。

 でも、どこか表情の端に疲れの影が見える。

 夏の光が肌を焼き、汗ばむ頬を照らす中で、僕はその影を見逃さなかった。

 午後の図書室、二人だけの世界。

 紗菜はページをめくりながら、ふと小さくため息をつく。


 「……ねえ、悠人くん」

 「ん?」

 「この夏休み、いっぱい物語を書こうね」


 言葉の裏に、少しの切なさが滲む。

 僕はその意味をすぐには理解できなかった。

 ただ、彼女と過ごす時間がいつもより尊く感じられた。

 夕方になり、図書室の光がオレンジ色に変わる。

 紗菜は少し顔色が悪く、机に伏せるようにして休む。

 「大丈夫?」

 「うん……少し疲れただけ」


 でも、僕は知っていた。

 紗菜は無理をして笑っている。

 その笑顔の奥にある小さな秘密――それが、この夏休みの時間をより儚く、かけがえのないものにしていた。

 ノートに向かう僕のペンは、以前よりも力強く、しかし繊細に走る。

 紗菜のために、物語を完成させたい――その気持ちが、胸の奥で炎のように燃える。

 言葉一つひとつに、彼女の存在が反映される。


 「悠人くん……」

 紗菜が小さく呼ぶ。

 「うん」

 「私……最後まで、最初の読者でいるから」


 その言葉に、僕は息を詰める。

 この瞬間のために、僕はずっと書き続けてきたのだ。

 けれど、心の奥で、何かが胸にひっかかる。


 ――紗菜の時間は、永遠じゃない。

 それでも、僕はこの夏の一瞬を、最大限に輝かせたいと思った。

 夕陽が窓を赤く染める。

 ノートの文字も、紗菜の笑顔も、図書室の静けさも、すべてがこの夏休みに刻まれる。

 そして、二人の物語は、かけがえのない瞬間として、僕の胸に深く残るのだった。

第11章 涙の告白


 夏休みも終わりに近づいたある日の放課後、図書室にはいつもの静けさが広がっていた。

 机の上のノートには、二人で紡いできた物語が少しずつ完成に近づいている。


 「悠人くん……話があるの」

 紗菜の声は、いつもより少し震えていた。

 「うん……どうした?」

 僕は胸の奥に小さな不安を覚えながら、そっと彼女の方を見る。

 紗菜は目を伏せ、深く息をついた。

 「実は……ずっと隠してきたけど、私の病気、本当はもっと悪いの」

 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。

 「……もっと悪い?」

 「うん……もう、長くはないのかもしれない」


 その瞬間、言葉が喉に詰まった。

 今まで笑って過ごしてきた日々のすべてが、胸に重くのしかかる。

 紗菜の体調の変化や、無理をして笑っていたことの意味が、一気に理解できた。

 僕は目を潤ませながらも、強く紗菜の手を握る。

 「そんな……でも、僕は……」

 「悠人くん……泣かないで」

 紗菜は微笑む。笑顔は変わらないけれど、その瞳には涙が光っていた。


 「私はね……最後まで、悠人くんと一緒に物語を作りたかった。だから、最初の読者でいるって約束したの」

 その言葉に、胸の奥が痛くなる。

 笑顔の裏にある切なさが、言葉以上に伝わる。

 僕は声を詰まらせながらも、小さな声で答える。

 「……わかった。最後まで一緒に、物語を作ろう。どんなことがあっても」

 紗菜は目を潤ませ、でも笑顔で頷く。


 雪の匂いのする冬の午後、図書室に二人だけの世界があった。

 言葉にできない思いが、互いの心を深く結びつける。

 涙をこらえながらも、僕たちはペンを取り、物語を書き続けた。

 夕陽が窓を赤く染め、長い影が机に落ちる。

 その光の中で、紗菜の笑顔は儚く、美しく輝いていた。

 僕は心の奥で誓った。


 ――紗菜のために、この物語を完成させる。

 そして、最後まで一緒に過ごす時間を、決して忘れない。

第12章 最後のページ


 夏休みの終わり。図書室にはいつもの静かな空気が流れていた。

 でも、今日は特別だ。

 机の上のノートには、二人で紡いできた物語の最後のページが広がっている。


 「悠人くん……」

 紗菜は小さく呼ぶ。声には、いつもより柔らかさと儚さが混ざっていた。

 「うん」

 僕は手を握り返す。

 紗菜は微笑む。けれど、その笑顔の裏には、わずかな痛みが隠れている。

 「最後のページ、書き終わった?」

 「うん……君と一緒に書けてよかった」

 言葉にするだけで、胸が熱くなる。


 紗菜はゆっくり頷き、目を閉じる。

 「ありがとう……悠人くん」

 その声が、胸の奥に深く響く。

 二人で過ごした日々の記憶が、一気に蘇る。

 最初の出会い、笑い合った日々、些細な会話……すべてが、今、最後のページに重なる。

 涙がこぼれそうになる。

 でも、紗菜の手を握りながら、僕は強く心に刻む。


 ――どんなに短い時間でも、君と過ごせたこの日々は、僕の宝物だ。

 ノートの最後の行にペンを走らせる。

 物語の結末は、悲しみと優しさ、そして希望で彩られた。

 紗菜がそっと微笑む。その笑顔を見て、僕は心の底から決意する。


 ――この物語を完成させ、君の存在を永遠に伝える。

 どんなに離れても、忘れない。

 そして、いつかまた、君に読んでもらえる日まで、僕は書き続ける。

 夕陽が図書室を赤く染め、二人の影が長く伸びる。

 その影は、物語と同じく、時を超えて心に刻まれる。

 最後のページを閉じる瞬間、僕は確かに感じた。


 ――君と過ごした日々が、僕の人生の中で最も美しい章であることを。

あとがきに刻む名前


 夜更けの書斎に、静かな風が入り込んでいた。

 机の上には一冊の本。刷りたての紙の匂いが、まだ濃く漂っている。


 世間では、僕を「若きベストセラー作家」と呼ぶらしい。

 華やかな肩書きや成功を口にする人は多い。けれど、そんな言葉に僕は一度も価値を感じたことはなかった。


 なぜなら――僕が本当に書きたかったのは、ただ一つの物語だからだ。


 最後のページにペンを走らせる。

 あとがき。どの作品よりも、この言葉を書くのに時間がかかった。


――これは、一人の少女に捧げる物語です。

 僕に夢を与え、そしてその夢を最後まで見届けることなく消えていった君へ。


 インクがにじみ、視界がぼやける。

 思い出すのは、あの夏の午後、図書室で響いた声。


『私、最初の読者になってもいい?』


 あの瞬間から、僕の人生は始まったのだ。

 紗菜の笑顔、無邪気な言葉、そして病気のことを告げられた日……すべてが、この物語の一行一行に刻まれている。


 この本は、紗菜と僕が過ごした時間、そして紗菜が僕にくれた勇気の証だ。

 僕はそっとペンを置き、深呼吸する。

 心の奥で、まだ聞こえてくる彼女の笑い声に耳を傾けながら、静かに呟いた。


 ――ありがとう、紗菜。君と出会えて、本当に良かった。


 机の上で本を閉じ、窓の外に目を向ける。

 街の灯りが淡く瞬き、夜風が優しく吹く。

 あの夏から数年経った今も、紗菜の存在は僕の心の中で色褪せることはない。


 そして、いつかまた――この物語を誰かが手に取り、涙し、笑う日が来るだろう。

 その時、僕は紗菜に、そっと語りかけるだろう。

――「君と過ごした時間は、ずっと僕の中で生き続けているよ」と。

そこで僕は本を閉じた。

表紙には、

作者 天野悠人

題名 夜空の星になった君へ。


本作『夜空の星になったきみへ』を最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。

 高校という限られた時間を舞台にしながら、二人の心の距離、そして抗えない別れを描くことは、私自身にとっても大きな挑戦でした。

 「もし自分が大切な人の最期に立ち会ったら、どんな言葉を交わすのか」

 「別れの先に、残された人はどう生きていけるのか」

 そんな問いを抱きながら、筆を進めていきました。

 切ない物語でありながらも、悠人くんのように前向きに人生を全力で生きていけるような人になりたいと思ってくれたらそれ以上の喜びはありません。

本作の構想は「小説家を目指す悠人くん、読者第一号の紗菜ちゃん」をどう一つの線で結ぶか、というテーマから始まりました。

 「日常」と「非日常」をどう織り交ぜるかを意識し、どのような内容で、どうしたらもっとより読んでくださった皆さんの心を掴めるか、読者の方に二人の時間を「自分の記憶のように感じてもらう」というところを目指しました。

そして紗菜ちゃんはいなくなっても

 別れは決して終わりではなく、記憶と共に未来へ受け継がれていくもの。

 本作が、あなた自身の大切な人との思い出をそっと照らす物語になれば幸いです。


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