僕たちのスタート
僕の右手の人差し指は生まれつき短かった。母は自分のせいだとずいぶん責めていたという。僕にとってはそれが普通だったから、不便ではあったけど気に病むことはなかった。物心ついた時には左手で何とかしていたし、何より二つ上の兄が優しくしてくれた。
兄はいつでも僕を守ってくれた。小学校の行き帰りはいつも一緒。僕の手を引き、駄菓子屋に行って、夏でも冬でもアイスを食べた。両親の仕事は遅かったから、兄と二人で過ごす時間は長かった。兄が中学生になる頃には、兄が料理を作るようになり、僕はその実験台になった。失敗したぐちゃぐちゃのオムライスを笑いながら食べた。
優秀だった兄は、もっと上の大学を狙えたのだが、家から通いたいからと近所のところに進学した。僕は高校二年生になっており、身の回りのことなら大体自分でするようになった。
「竜彦、今晩何がいい?」
ある日、高校から帰宅した僕に兄が聞いてきた。
「どうしようか。一緒にスーパー行って決める?」
「そうしよう」
冷たい風が吹きすさぶ冬の日だった。僕はマフラーをぐるぐる巻きにして坂道を歩いた。もうそろそろ本格的に進路を決めなければならなかった。お金なら心配ないからと言われていたので、なんとなく進学を考えていた。
スーパーに着くと、鶏肉が安かった。鍋にすることに決め、兄がカゴを持ち、僕が食材を入れていった。スナック菓子も放り込んだ。
「僕が作るよ」
「大丈夫か?」
「うん。練習したいしさ」
僕は左手で包丁を持って野菜を切った。右手の人差し指がなくても慣れれば何とかなるものだ。それに、僕だっていつまでも家族の世話になるわけにはいかない。いつかは独り立ちする。そのための準備を進めたかったのだ。
「できたよ、兄ちゃん」
「ありがとう」
味付けは市販の鍋の素を使った。問題ない。兄は好き嫌いが多いので、僕は黙ってシイタケを全て取った。締めの雑炊も僕が作り、満腹になった。
「はぁ……美味かった。やっぱり冬は鍋だな、竜彦」
二人でソファに座ってコーヒーを飲んだ。兄は僕の肩に頭を乗せてきた。
「兄ちゃん、どうしたのさ」
「いや……竜彦も俺からどんどん離れていくんだと思うと、寂しくてさ。こうして料理もできるようになったし」
他の家の兄弟がどうなのか僕は知らないけれど、おそらくうちの兄は過保護だ。指のことが影響しているのだろう。僕は言った。
「そりゃあ、僕だって大人になるよ」
「うん……そっか。そうだよな」
兄の声は沈んでいた。僕は努めて明るく言った。
「そうだ。タイピングもかなりできるようになったよ。完全に自己流だけどね。いつか小説書きたいんだ」
「ああ、竜彦ネット小説よく読んでるもんな」
「書けたら兄ちゃんが最初に読んでよ」
「今どこまでできてる?」
「んーと、設定だけ」
僕は家族共用のノートパソコンを開いた。名前もつけていないフォルダには、僕のファンタジー世界の設定やキャラクター表を入れていた。兄はそれを黙々と読んだ。
「ここまでできてるんなら書き始めてみれば?」
「その……書き出しが浮かばないんだよね」
流行りの転生要素やチート要素はない、重厚なファンタジーを書いてみたかった。主人公は少年で、家族をモンスターに殺された過去を持っていた。兄は新しくファイルを作って書き始めた。
「僕は幸せな人生を送ってきた」
そう打った。
「それが書き出し?」
「うん。主人公の幸せな日常が壊れるところから始まるんだろう? だったらその日常を描写した方がいいよ」
兄の言うことはもっともだと思った。それから、兄は僕の右手の甲をそっとさすってきた。
「竜彦は……今、幸せか?」
「うん。どうしてそんなこと聞くの?」
「ああ……俺ってちゃんと兄ちゃんやれてるか?」
「できてるよ。兄ちゃんは僕の自慢だ」
「そうか。今のままが、いいよな」
兄の言いたいことが掴めなかった。僕は兄の瞳をのぞきこんだ。
「そんな顔しないでくれよ、竜彦」
「今日の兄ちゃん何だか変だよ。何かあったの?」
「いや……俺はずっと前から、おかしかったんだよ」
兄は僕の短い人差し指を舐めた。それが始まりだった。
「兄ちゃん……?」
他の指もしゃぶられて、僕の手は兄の唾液でベトベトになった。
「ごめん。竜彦……好きだ。好きなんだよ」
「僕も兄ちゃんが好きだよ?」
「竜彦の思ってる好き、と俺のは違う。家族なのに、兄弟なのに変だよな」
こんなことまでされたのだ。兄の気持ちはよくわかった。
「僕……兄ちゃんならいいよ。もっとしたい?」
「したい」
僕たちは唇を重ねた。ついばむように、何度も。舌が入ってきて、僕の口の中を乱された。終わると二人とも息が切れていて、見つめ合い、長い時間を過ごした。口を開いたのは兄だった。
「歯止め……きかなくなるかもしれない。竜彦のこと、メチャクチャにするかも」
「僕は……僕は兄ちゃんを受け入れたい」
兄はまた、僕の人差し指を口に含んだ。これからどうなるのか、僕にも、きっと兄にもまだわからない。けれど、僕たちはスタートを切ってしまった。兄弟の形は、すでに変わったのだ。