悪役令嬢らしいので、断罪し返します。
「アイリッシュ・アルンベル!! ――お前はここにいる可憐なミーナを、醜い嫉妬により虐め、私物を壊し、挙句のはてに暴力まで振るったそうだな! そんな者が王族の仲間入りするなど許せる事ではない! よって、この場で婚約の破棄を言い渡す!」
学園の卒業パーティーという名の舞踏会。保護者の他に、卒業生はダンスのパートナーとして一人だけ招待ができるため、王宮の舞踏会に匹敵する人数と言われている。そんな華やかな舞踏会の最中、私の婚約者でこの国の第一王子、金髪碧眼の王族らしい色を持つビルビリッツ・イデランが女性と腕を組み、私の前に立つ。
――彼の婚約者でアルンベル公爵家の長女、アイリッシュ・アルンベルは私のことだ。
ストレートが自慢の薄いブラウンの髪は、本日パーティーということで、侍女が張り切って結ってくれている。この日の為に誂えたドレスは澄んだ水色の瞳と同じ色である。シフォンを何層にも重ねてあり、動くたびにフワッと広がり、私の可憐さと華やかさを表してくれる自慢の一着だ。
「わたくしには全く心当たりのないことにございます。御言葉ですが、何か思い違いをしていらっしゃるのではありませんか?」
会場中の注目を浴びているのを全身で感じ取るが、動揺する様子を見せるつもりなど微塵もない。
「ミーナがお前にやられたと言っているのだ!惚けても無駄だ!」
「けれどやっていないことを認めることはできかねます。ミーナ嬢でしたか、あなたとは言葉を交わすのは今が初めてだったかと思いますが、記憶違いでしょうか?」
噂好きのご令嬢方に、ビルビリッツが男爵家のご令嬢と親密な関係にあると、何度か聞いてはいた。
噂の方と特徴やお名前が一緒なので、ビルビリッツにエスコートされている目の前の女性が、ミーナ・シズッツ男爵令嬢であるのはすぐにわかった。ピンクブロンドの少しウェーブした髪に茶色の瞳と、可愛らしい容姿をした女性だ。
婚約者がいる男性、しかも複数相手に、ミーナは体に触れたり、二人っきりで密室に篭るなどをしたらしく、目撃した令嬢から話が広がり孤立状態になっていると聞いている。当初は諌めるだけの言葉だったのが、改善がなかったことから非難に変わっていったようだ。
しかし、わたくしが直接ミーナと関わったことは一度もない。
「そんなことありません! 何度も私を呼び出し、男爵令嬢如きがと罵倒したり、ノートや教科書だけでなく祖母の形見のペンまで壊したではありませんか! それに、いま私が学園内で女性の方々から無視をされ続けているのだって、アイリッシュ様が権力を利用したからですよね?!」
ミーナは瞳を潤ませビルビリッツの腕に隠れるような態度でありながら、口調ははっきりしており、まるで舞台女優のように更に激しくさせる。
「そして三日前、私が学園の図書室で読書をしていたら、急に掴みかかられ、頬を叩かれました!」
この発言には、流石に騒つく。
女性へ、しかも女性貴族への暴行は如何なる事情であれ、許される事ではないからだ。
「困りましたわ。本当にわたくしではないのです。それに動機がございません」
「私がビル様と親しくしているからだと、アイリッシュ様自身が仰っていたではありませんか! 三日前だって、私がビル様に舞踏会に誘って頂いたことを知ったからではないのですか?」
なるほど、一学年下のはずのミーナがどうしてこの場にいるのだろうかと思っていたが、婚約者がいるにも関わらず、ビルビリッツがパートナーとして招待していたからだ。
先程とはまた違った騒めきが起こる。
「わたくしは、ミーナ様の記憶違いも考慮致しましたが、ミーナ様は飽くまでそれはわたくしアイリッシュであったと仰るのですね?」
「ええ、そうです。それに私には証人もおります」
(お?)
それまで動揺を見せなかった私だが、この発言には少し反応してしまった。隠すのも手間なので、わざとらしく手に持っていた扇を広げ口元に持っていく。
この反応にミーナは明らかに嬉しそうにし、嬉々として隣のビルビリッツにお願いすると、彼もまた機嫌を良くする。ビルビリッツが証言を頼む、と証人を呼び寄せる。
三名の男性がビルビリッツの側へやってきた。
宰相の息子、スネイプ・ホーネン侯爵子息。近衛騎士団副隊長の息子、タケット・ゴーン伯爵子息。最後に家が大きな商会を営む、ノビー・ドラト伯爵令息だ。
一度騒めくと抑えられないのか、それとも故意に抑えるのを辞めたのか、ヒソヒソと外野が騒ぐ。
それは三人全員が、ビルビリッツと同じ生徒会役員を務め、卒業後の側近候補者であり、どう捉えても、ビルビリッツに有利な証言しかしないような者たちだからだろうか。
ビルビリッツたちには、会場の騒めきが聞こえないのだろうか。いや、これを己れの都合よく捉えているのかもしれない。そう思わざるを得ないように、ビルビリッツは自信に満ちたように声高にする。
「この者たちが、お前がミーナにした数々のことを見たと証言している! しらばっくれるのもいい加減にしろ! 醜いぞ!」
醜いとは酷い言い様である。
不愉快極まりない。
呆れようにため息のような深呼吸を一つし、それまで広げていた扇をパチリと閉じると、令嬢らしい微笑みに少し困惑の色を浮かべながら、会場二階を見上げる。視線の先は主賓席で事を見守るビルビリッツの両親、国王陛下と王妃殿下である。
しばらく見つめると、陛下が渋い顔をしながら一つ首を縦に振った。
もう一度深呼吸をすると、ビルビリッツたちに向き直る。
「――わたくしは殿下の婚約者です。殿下はご存じだと思いますが、わたくしにも近衛から護衛がついております。」
それだけ告げると流石のビルビリッツでも察したようで、血の気が引いたような顔をする。今頃気付くとか、やはり少し足りないようだと思いながら隣のミーナに視線を移す。
こちらは何もわかっていないらしい。
「護衛がいるということは、もちろんその身の安全を守って頂いていることになりますが、同時に監視されているとも言えます」
ミーナは、だからそれが何?自慢?とでも言いたげな顔だ。どうやら最後まで丁寧に教えて差し上げなければならないらしい。
「ですから、わたくしが仮にミーナ様の私物を傷つけたり、ましてや暴行などすれば、護衛が必ず見ているはずです。殿下、わたくしの担当騎士から証言をさせますか?」
顔色が優れないビルビリッツからは反応がない。
「で、でも、ちょっと待ってください! 学園内でビル様やアイリッシュ様の側に、騎士様がいるのを一度も見た事はありませんわ!」
「そうですわね。殿下は断られたと聞いております。実力がございますからね。わたくしは少々我儘を申し、学園内の護衛は他の生徒に気付かれないようにして頂いておりました」
ビルビリッツは所謂脳筋。頭を使う事は得意ではないが、武術はかなりのものだ。その為、学園内では護衛をつけていない。
私はもちろん武術に長けている訳ではない。ただ、学園では普通の生徒と同じように過ごしたかった為、陛下にお願いをし、近衛騎士団でも専門部隊で一般には公にされていない“影”と呼ばれる方々に護衛して頂いていた。私自身も護衛方法も、顔や性別など全く知らない程だ。
「それに先程仰った暴行についてですが三日前というとわたくしはとある方と一日ご一緒で、学園にも来ておりません」
「とある方とは誰なのですか? 護衛の存在もはっきりしないというのに、またそうやって曖昧にされるのですか?」
「そうです。せめてその方のお名前は教えて欲しいですね」
「こちらには三人の証人がいるのですよ」
私が明確な証人を出さないのを良い事に、ビルビリッツが黙っているのにも関わらず、ミーナや生徒会の三人は自分達こそが正しいと主張する。
どうしたものかと思いながら声を上げようとした時――、
「わたくしですよ」
二階から透き通る声が発せられる。主賓席に座る王妃殿下だ。
会場全体が一言一句聞き漏らさないかのように、シンと静まり返る。
「三日前なら、アイリッシュは朝から晩餐まで、一日王宮でわたくしと一緒でしたわ。――わたくしが証人では不足でしょうか?」
(さすがですわね)
不足など誰が思うだろうか。完全に嫌味であるが、そう感じさせない独特の雰囲気は真似しようにも決して真似ができない。
そう、とある方というのは王妃の事だ。
あの日は、王妃から呼び出しを受け王宮に出向いたものの、私からも要件があったため長引いてしまい、最終的に晩餐までご一緒したのだ。
用件が終わってから、学園でも約束があったのだが、それは無しにせざるを得なかった。もしかしたら、ミーナたちはその約束を知っていたのかもしれない。
ビルビリッツはその日の晩餐は不在だったので、私が一日王宮にいた事を知らなかったのだろう。
「少なくとも、暴行に関しては冤罪ということですね。どうしてミーナ様や御三方はそのような事を言い出されたのでしょうか? ねぇ、ビルビリッツ殿下?」
いつまでも固まり黙っているビルビリッツを冷ややかな目で見る。会場も同じようにビルビリッツたちの言葉に注目する。
「どうして、どうしてそんなに冷静なのですか! 婚約破棄をされたのですよ!? 婚約者の隣に別の女性が立っているのですよ!?」
ミーナがプルプルと震えたかと思うと、すごい剣幕で詰め寄る。
(別の女性って、ご自分のことですわよね?)
どういう意図なのかわからない。わかりたくもないが。彼女はもっと私が乱れると想像したのだろうか。期待を裏切るようだが、動揺する事なく淡々と答える。
「どうしてか、でございますか?それはただ殿下をお慕いしていないからですわ。寧ろ、嫌悪しているくらいです」
「アイリッシュ嬢! 不敬ですよ!」
流石にスネイプが非難する。
「あら、ではわたくしに罪を着せようとなさった皆様の行為は如何なのですか? スネイプ様、どうしてこのような事を? タケット様? ノビー様?」
私は生徒会役員ではないが、全員同学年であり、婚約者のビルビリッツの側近候補なのでそれなりに面識はある。
ビルビリッツを含め男性陣の顔色は優れない。それとは対照的に、ミーナは怒りでなのか顔を赤くしている。
「あら、反応がございませんのね。でしたらわたくしの方から皆様に説明をして差し上げますわね」
本日一の笑顔を向ける。
本日、この場で述べるつもりはなかった。しかし、嘆かわしい事に予想通り、ビルビリッツたちが私の断罪を強行したがために、私も断罪し返さなければならなくなった。
「わたくしは殿下たち生徒会の不正を告発しようとしておりました」
一言発すると、騒めき所の騒ぎではなくなる。もちろん私を批判する言葉もある。
「静まれ」
自分の内に響くような、重くそれでいてスッと耳に入る声がすると、会場が一瞬にして静まり返る。
声の主は、この国の国王陛下である。
「既に余も心得ておる事。この件はアイリッシュが糾弾すべきと、余が判断した」
異論など認めぬ、と言わんばかりの国王の迫力に、誰一人として、糾弾されかけているビルビリッツでさえ声を上げない。
これ以上にない後ろ盾である。
ビルビリッツたちと向き合う形ではあるが、会場の人々に聞かせるように話し出す。
それを見つけたのは、忙しいからとビルビリッツの命令のような形で、学園祭の前後に生徒会のお手伝いをした時だった。
普段部外者が見る事がない生徒会帳簿。
ビルビリッツの婚約者だからと信用したのか、はたまた気付かないと侮ったのか、本当に特に何も考えてなかったのか、とにかく無防備に帳簿の記帳をお願いされたのだ。
最初は私もなにも考えず記帳していたのだが、なにか違和感を感じ、過去数ヶ月の記録を遡り、またビルビリッツが生徒会に入る前の帳簿も出した。そうやって違和感の正体を突き止めた。
生徒会予算が不正に流出していた。
学園の生徒会予算と言えど、不正は不正。王国の公爵として籍を置く身として、それを放っておくことはできず、公爵家の手も借りながら調べ上げた。
あろうことか、この国の第一王子であるビルビリッツが私的利用のため不正していたのだ。それがバレないよう、会計担当のスネイプが改ざんし、ノビーが実家の商会からタダ同然に商品を仕入れて協力をしていた。
これには二階の保護者席に座るドラト伯爵と思われる人が呻き声を漏らす。商会に不利益となる息子の悪行に、彼が関わっていたとは思えない。これからの事に苦悩しているのだろう。
本人たちはもちろん、その保護者たちは誰もが顔を青くしている。国王も心得ていること。弁解の余地があるとは思えないのだろう。
学園内のこととはいえ、当事者たちには罰が与えられる。彼らがこれから国の中心に立つというのは皆無であり、親族にもなんらかの処分が下ることだろう。
「アイリッシュ・アルンベル公爵令嬢、ビルビリッツ・イデランとの婚約白紙を願い出る」
「承知致しました」
原則として下の身分から婚約破棄はできない。願い出るというのは、王家の非を認めると同義である。
「近衛! ビルビリッツ・イデラン及び以下四名を王城へ連れて行け」
聞きたい事が山ほどある、と言う国王は酷く冷たく、喉の奥がヒュッと鳴る。
ビルビリッツたちを近衛騎士が連れて行く。五人共特に抵抗を見せる事なく、連れて行かれる様は、力のない弱きもののように見え、少し胸が痛む。
(本当にわたくしが悪役のようですわ)
「愚息が場を荒らした事、皆に詫びを入れる。余は立ち去る故、そのまま舞踏会を楽しんで欲しい。卒業生の諸君、卒業おめでとう。――ビアンカ、頼んだ」
自分の姪であるビアンカ公爵令嬢に仕切り直しのファーストダンスを頼むと、王妃を連れ会場を後にする。連なるように関係者たちも退出していく。
指名されたビアンカ様はダンスの妖精と呼ばれるほど、妖精が舞っているかのようにダンスが上手な方だ。この様な事があった後にもそれは変わらない。場の空気が変わる。
一曲目が終わり、大歓声のあと、続々ダンスホールに笑顔の男女が集う。
この光景を見届けてから、一度も踊る事なく帰りの馬車に足を向ける。
「アイリッシュ」
廊下を歩いていると、一人の男性から声を掛けられる。
艶のある黒髪、銀色に近い灰色の瞳の男性は、ベンジャミン・イシュール。イシュール公爵家の長男で、私の幼馴染だ。
「帰るんだろ? 送る」
「……ありがとう」
差し出された手を取る。
触れるのも、ましてこうやって話しかけられたのはビルビリッツと婚約する前で、実に七年ぶり。
彼の実家は第二王子を推す派閥で、アルンベル家は基本的に中立派だったものの、私がビルビリッツと婚約したことで、ベンジャミンは家から私との接触は控えるように言われたはず。私もベンジャミンと関わるのを辞めざるを得なかった。
特に会話する事なく、正面エントランスまで出ると、イシュール家の家紋の馬車が停まっており、御者が扉を開ける。
戸惑っているとベンジャミンが先に乗り込み、手を差し伸べる。
「送ると言ったよな?」
「え? でもここまでかと……。貴方は折角だし残って」
「いいんだ。特にパートナーも決めてないし。家まで送らせて欲しい」
きっと引き下がらないだろうと思い、その手を取り馬車に乗る。何故かベンジャミンは隣に座ってきたが、それも特に何も言わない。
「――キャッ」
「大丈夫か?」
しばらく乗っていると、石でもあったのか、少し馬車が揺れた。心配したベンジャミンに肩を抱かれる。距離が近く、流石に鼓動が速くなる。けれど、ベンジャミンの熱が心地良いとも感じる。じんわり目頭が熱くなり、鼻の奥がツンっとするのに気付く。
慌てて気持ちを立て直すが、肩を抱く手に力が込められ抱き寄せられる。
「アイリー……。君はよく頑張った。今日も、その前からも」
「ベン……、わたし……」
ベンジャミンには私がずっと平静を装っていたのがわかっていたらしい。久しぶりに家族以外の愛称呼びに心が揺さぶられ、堪えていた涙が頬を伝う。
あんな大勢の前で、この国の王子を糾弾したのだ。国王の後ろ盾があったとて、18歳の令嬢には荷が重すぎる。ただ、絶対にやり遂げてみせる、と意地にも似た感情だった。
王家の都合でなりたくもない第一王子の婚約者となり、学業の傍ら辛い王妃教育を受け、交友関係を広げるためお茶会にも積極的に参加した。多忙の中でも成績上位であり続けることも求められた。王族になるのだからと、制約も多かった。
苦しかったがこの国の未来の為とずっと耐え、七年間頑張ったのだ。
それなのにあの王子は!認め感謝するどころか、不正を働き、冤罪を着せ、私を断罪しようとしたのだ。
悔しいし虚しい。けれど背中を摩るベンジャミンの手が温かく、落ち着く。
「弱くていいんだ。もう第一王子の婚約者ではなくなったんだ。俺の前だけでも頑張るのはやめて欲しい」
そっか、もうビルビリッツの婚約者ではないんだ。もう頑張らなくてもいいのか。解放されたんだ。自由だ。
辛い日々を思い出し、ベンジャミンの胸で子供のように泣きじゃくる。
どれほど時間が経っただろうか。馬車はいつの間にか止まっていた。きっとアルンベルの屋敷に着いたのだろう。
そろそろ帰らねば、と顔を上げると、ベンジャミンの灰色の瞳と目が合う。自分でも顔に熱が集まるのがわかる。
「みっともない姿を……。申し訳ありません」
「いや? 俺を信頼してくれてるんだな、と嬉しく思ったし、それに俺の胸で無防備に泣くアイリーはとても可愛らしかったよ」
「か、――っ」
満面の笑みだ。そんなベンジャミンに可愛らしかったと言われ動揺するが、これは小さな子に対する可愛いと一緒。ベンジャミンがクスクスと顔を赤くしている私を笑っているのがいい証拠だ。
「揶揄わないで。そういうのになれてないのよ」
つい先程まで婚約者がいた身だが、そんな甘い関係でも、婚約者が社交辞令でも言う様なこともなかった。
「揶揄ってない。本心だ。――ああ、そろそろ帰らないとだね」
私たちより遅れて会場を出たらしい両親を
乗せたと思われる馬車が近づく。
「今日は送ってくれてありがとう。あ、その、できたら声を出して泣いてしまった事は誰にも秘密にして欲しいの」
成人した貴族が人前で涙を流しただけでなく、声を出して泣きじゃくったのだ。恥ずかしい事この上ない。
「当たり前だ。あんな可愛いアイリーを知るのは俺だけでいいんだから」
「もう、またそうやって!」
「怒るなって。ほら、今日はもう帰ってしっかり休め。目を冷やして貰う事を忘れるなよ?」
御者に合図をし、馬車の扉を開けさせる。先に降り、私をエスコートしてくれたかと思うと、額に口づけをしてきた。
「ご無沙汰しております。ベンジャミンです。アイリッシュ嬢を一人にする事はできず、断りもなくお送りしたご無礼お許しください」
「ああ君か。君なら許そう。寧ろ今日のような日に、娘を一人にしないでくれた事、有り難く思う」
ベンジャミンは固まる私を他所に、後ろの馬車から降りてきた両親に挨拶をする。どうやら両親には扉が影になったおかげで口付けされたのは見えなかったらしい。いや、ベンジャミンはわかってやったのかもしれない。
固まったまま父に連れられ屋敷に入る。舞踏会の事があったためか、様子がおかしい私に誰一人して言及することはない。
寝る準備を完了した侍女が出て行って、やっとハッと意識を戻す。
高々、額に口付けされただけだと人は思うだろう。しかし先程も述べた通り、私はそんな甘い経験がない。それに相手が問題だ。
ベンジャミンは私の初恋相手。
ビルビリッツと婚約した後も心にはいて、学園で見かけると、つい視線だけ追ってしまったことは一度や二度ではない。
舞踏会で起きた、断罪式のことなどもうすっかり頭から抜け落ちたようだった。
それから、ベンジャミンと何度かデートを重ね、プロポーズでまた泣いてしまうのは、もう少し後の話。