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「いやあ、ほんと灯里はよくモテるな」
既に二本目の缶ビールを開けて、保広はご機嫌に焼き鮭のこんがりとした皮を口に運ぶ。
「だからまだ彼氏じゃないんだって」
帰りに一緒になったらしく、灯里は保広に買ってもらったミニ和菓子の詰め合わせを開けて、それを夕飯代わりに食べていた。私はほうれん草の玉子とじを小皿に取り、二人の楽しげな空気を見守りながら食べる。母譲りの出汁のよく利いた優しい甘みが広がった。
「今度は俺のいる前に連れてきなさい。ちゃんと相応しいかどうか、見極めてやろう」
「何言ってんのよ。お父さんなんかに見せたらどうせあれが駄目ここはもっとこうすべきって文句しか言わないじゃない。中学ん時の山本君、あれが原因で別れたようなもんだからね」
「中学ん時? あの野球部の坊主か。あいつは別れて正解だ。冗談の一つも付き合えないような堅い奴は社会に出ても成功しないからな」
小さい頃から、保広と灯里はよく馬が合った。ファザコン、と言うのかも知れない。それでも親子仲が悪いよりはずっといいと思ってきたけれど、灯里が自分を遠ざけるようになった今では、わざとそういうポーズを見せているのかも知れない、という気持ちもある。
「おい、海月。何かあったか?」
「え? どうしてです?」
「いや、ずっと黙り込んで。そりゃ灯里の新しい彼氏って聞くとまた不安になるのも分かるよ。分かる。けど、娘だっていつかは結婚してこの家を出ていくんだ。俺だってその時には泣くよ。泣いちゃう。でもそれは親の役目だろう?」
「もう酔ったんですか?」
「今日は気分がいいんだ。もう一本だけだから。ね。海月ちゃん」
仕方がないですね。と私は席を立ち、冷蔵庫から新しい缶ビールを持ってくる。
「あ、わたしが注いだげる」
「そう?」
灯里に渡すと、慣れた手つきでプルトップを開けてグラスを少し傾ける。どこで覚えたのか、五センチ程の泡を乗せた黄金色の液体を仕上げると、
「お母さんのより美味しいから」
そう言ってから保広に渡した。それを嬉しそうに鼻の下を長くして半分ほど飲むと、ぼそりと「幸せっていうやつだよな、これが」と漏らす。今にも泣き上戸になりそうだと思った時だった。
「ところでお母さん、聞いたんだけど鳥井さんの店、行ったんだって?」
声の調子が変わる。
「え、ええ。友理恵さんに誘われて、キャンドル教室に通ってるの。その店で鳥井さんが働いてて」
「じゃあどうしてこの前、何も言ってくれなかったの? わたしそれ聞いて、またかって思ったよ」
また。
「何よ。心配しなくても何も言ってないわよ」
「言っとくけどわたし、まだあのこと許してないからね」
あのこと。
「中学の時に勝手に名前使ってネット彼氏作ってたこと、友達にバレて変な噂広まったんだから。もしまたわたしの人生を勝手に利用したら、あんたの世界、無茶苦茶にしてやるから」
「おいおい灯里。もういいじゃないか。母さんだって反省してるし、それにあれはただ偽名を使ったってだけで」
「偽名ならエリザベスでもキャサリンでも何でも関係ないのにすればいいじゃない? なんでわたしの名前なのよ。絶対なんか考えがあったんだから」
私は何も言えなくなる。
十年前のほんの出来心と遊び心の結果が、未だに尾を引き続けているのだ。
「灯里」
席を立ち上がった娘に、真面目な声で保広が呼びかける。
「お前はまだ若いんだから、過去のつまらないことに囚われて大切な人を傷つけるような真似はもうやめなさい」
灯里は一瞬文句を返そうと口を開いたが、私を一瞥すると背を向けて自分の部屋に入って行ってしまった。
「……全く。ああいう頑固なところはどっちに似たんだか」
そうぼやいた保広は溜息を入れたグラスを飲み干すと、
「ビール好きは俺似なんだがな」
私を見て優しく笑った。