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ずっと気になっていた金森からの返信は、結局八月の最終週になってからだった。
私はアンブレラの定休日である水曜に、雨守の好意で店を貸してもらって、そこで彼と話すことにした。
「それじゃあ合鍵は明日、持ってきて下さい。大丈夫だと思いますが戸締まりだけはお願いしますね」
「どうもありがとうございます」
戸口に置かれた本日のおすすめを書く小さな黒板を避けて、雨守は出て行った。
私は粉をセットしたカップにゆっくりとお湯を注ぎながら、カウンターに座る金森を見る。
「ここなら、ちゃんと話せると思ったんです」
金森は以前よりも黒く焼けていたが、開襟シャツから見える首筋から顎に掛けては幾らか痩せたように思える。
「煙草、いいですか」
「ええ……。けど吸われたんですね」
今まで一度も吸っているところを見たことがない。二人で会っている時もそうだし、ドロシーズにも灰皿が用意されているのを目にした覚えがなかった。
私は重ねられた小さな黒い灰皿の一つを取って、彼の前に置く。銘柄はよく分からなかったが、懐から取り出したジッポは金の飾りが付いた高価なもののようだった。
「いつもは吸わないんです。特に雨守さんの前では絶対に。あの人あれで、かなり恐い人なんで」
笑みを浮かべたのは、私の知らない彼を知っていると言いたかったのだろうか。
カップにゆっくりと茶色くなった液体が落ちるのを感じながら、少しずつお湯を足していく。焦らない。教わった通りに落ち着いてコーヒーにすればいい。
「実は最初にメールした時には、もっと色々と訊かないといけないと思っていたんです」
「何でも聞いて下さいよ。今日は嘘偽りを口にする気はありませんから」
確かに金森には以前なら感じた獲物を前にした肉食動物のような迫力や自信が、全く見えない。ただの歳相応の、仕事という日常に疲れた男性のそれしかなかった。
「全て嘘なんだと思ってました。けど、あれは金森さん自身の人生だったんですね」
「違いますよ。全部作り事です。何を雨守さんから聞いたか知りませんけど、俺は何不自由ない人生でしたよ」
彼は顔を背けると、煙をゆっくり吐き出した。挽いた豆の香りと混ざり合い、それは流れていく。私はお湯を入れ終えて、最後の一滴が落ちるのを待った。
「どんな酷い過去を持っていたとしても同情するつもりはありませんから、安心して下さい」
「おや、意外でしたね。海月さんはそういうのに弱いと思っていたんですが」
「強くあろうと、決めたんです」
「あいつの所為、ですか?」
鳥井祐二。その名を金森は口にしない。
「まだ祐二君には何も話していません」
「へえ。その割には随分と仲良くなったそうじゃないですか」
ひょっとして祐二君が彼に話してしまったのだろうか。けれど今日はそんな揺さぶりに付き合ってはいけない。私は小さく息を吐き出して、肝心な言葉を握る。
「今日はそういうのはいいんです。話をしましょう。もうこの関係を終わりにした方がいいんですから」
「関係? 一体いつ私と海月さんが関係したんですか? 証拠は? もうスマートフォンには写真は残っていません。あなたと私が黙っていれば、それで関係はなかったことにできます」
二つのカップから気をつけてドリッパーを持ち上げる。雫が落ちてこないことを確認し、私は布巾で底を取ると台の上に置いてから、カップの内の一つを金森烈の前に出した。
「どうぞ」
「いただきます」
彼は一度香りを楽しんでから、一口だけ飲んだ。それからまた煙草を咥えて、落ち着いた吐息を出した。
「関係はなかった。もうそれでいいじゃないですか。それとも他に何か言いたいことがあるんですか?」
「私には金森さんの考えていることがよく分かりません。雨守さんに結婚したい女性がいるって言ってたのは、誰のことなんですか? 私ですか?」
「浅野海月さん。いえ、深町海月さん。とても素敵な女性ですよ」
私の旧姓だった。
「それ、脅しなんですか?」
金森は寂しそうな笑みで首を左右にする。
「今日はそういうのはなしです、と言ったでしょう。私はただ、浅野さんの奥さん、妻、配偶者としての海月さんではなく、あなた個人と話がしたいんだ」
真っ直ぐな瞳だった。時々少年のような純粋な色を浮かべるそれが、彼の全てを否定しようという私の誓いを揺らがせた。
彼は煙草を灰皿に押し付けると、コーヒーを半分ほど飲み干す。
「まだ雨守さんの淹れたものには敵いませんね。けど、悪くない。海月さんの優しさが染み出している」
「私と、結婚したいですか?」
カウンターの高さが、自分を守ってくれている気がしていた。
けれど立ち上がった彼の手がすっと伸びて、動けない私の左手を掴んだ。
「できる訳ないじゃないですか」
「じゃあ、この手は何なんですか」
苛立ちと戸惑いが声になる。
「海月さんとなら、一緒に生きられる。そんな風に思っただけです。これ以上を望むことは、私にはできません。やっちゃいけない」
手はするすると解けて、彼は再び座ってしまった。そのまま俯いて、カウンターに突っ伏す。肘がカップに当たって、残りのコーヒーが溢れた。
「あっ」
私は布巾を手に、カウンターを出る。
彼の隣まで小走りになり、広がった茶色を拭き取った。
その体に腕を回される。
「あの」
「……あなたを大事な人から取ろうなんて、思ってないんだ」
彼の頭が私の胸の下に押し付けられる。顔を上げずに吐き出す声が、同じ男のものだろうかと思うほどに弱々しい。
「ただ、もう少しだけ、いや、一度だけでいい。自分の人生にごく普通の幸せがあったかも知れない。そう思うことのできる瞬間を、与えて欲しい。それだけでいいんだ。それ以上は何も、望まないから……」
泣いて、いる?
私は気づいたら、そっと彼の髪を撫でていた。
「一度、だけ?」
「ああ。それだけでいい」
見上げた彼は、母親に許しを乞う少年のようだった。




