5 もう一人の王子
「よいか、おまえの使命は、情に流されず、見極めることだ。その者が『世界を破滅に導く王』となる前に、必ず始末せよ」
嫌な夢見たな、とトワは頭を振った。侍従には居眠りがばれていないようで安堵する。昨晩はあまりよく眠れなかったから、昼間でも定期的に睡魔が襲ってくる。
ピー、と姫が鳴いて、トワの足に手を掛けた状態で見上げている。心配してくれているのだろうか。
「散歩でもしよか」
トワは姫を抱き上げてそう提案した。羽をパタパタと動かす姫は、賛成しているようだ。
中庭に向かう途中、トワの前を歩いていた姫が、ケイの執務室のドアをカリカリと爪でかいている。爪はきちんと切っているのでドアに傷がつくことはないはずだが、おとなしい姫がこんなことをするなんて珍しい。
ドアをノックして中をのぞく。『険・悪』と空気に書いてあるのではないかと思うほど、執務室の様子は重苦しかった。
「ええと…何かあったんですか?」
秘書官に睨まれてトワはドアから顔を引っ込めようとする。
「トワ、どうした?」
それに気づいてケイが声を掛ける。ケイの執務机の前に立っていた男が、ビクリと肩を震わせてドアのほうを伺い見た。
急に飛び立った姫が男の目の前を旋回して横切り、男が「ヒッ」と悲鳴を上げる。姫はそのままケイの肩に降り立った。
「姫と中庭に散歩に行こうとしたら、珍しく姫が執務室に寄り道したので、何かあったのかと心配になって…」
姫は小さいが霊獣だ。通常と異なる行動には意味があると思うのは人の性だろう。
「別に、特に何もないが、丁度いい、気分転換に出ようと思っていたところだ」
ケイは席を立ってドアに歩いてくる。補佐官の慌てた表情と、机の前の男の怯えた顔を見る限り、常ではないことがわかる。トワにしても、この短い付き合いで、ケイが仕事の途中で席を立つのは初めて見た。休憩を促しても、キリのいいところまで終わらないと手を止めず、お茶が冷めることもしばしばあるくらいだ。
「俺が戻るまでに、そのくだらない提案書を燃やしておけ」
ドアの手前で止まったケイは、目線だけを男にくれて、低い声でそう命じた。ひっ、と喉が張り付くような音をさせて男は返事もできずに縮みあがった。
ケイは執務室のドアを閉めると、姫を連れて歩き出す。トワはその後ろに付き従う。何があったかはわからないが、男が持ってきた提案書とやらがケイの逆鱗に触れたことだけは確かだ。ケイが疲弊していないから、声を荒げて怒ったりはしていないようだが、部屋の温度が確実に三度は下がっていた。
何があったかをトワの立場で聞くのは憚られる。だから黙ってケイの後についていく。ケイの機嫌は肩の姫が直してくれるだろう。
中庭に出て、トワは、先日見つけた姫のお気に入りの場所にケイを連れて行く。色とりどりの花が咲き乱れる小道の脇には小さな池があって、どこか故郷の風景を思い出させてトワも気に入っている。
「この花は、トウ国原産なんですよ」
傍らに咲く花を指してトワはケイに説明する。自身の記憶はないが知識は残っているという設定は、非常に便利だ。トワが敬語なのは、外に出るには当然、皇太子の護衛騎士が付くからだ。
ケイの肩から地面に降り立った姫は、ガサガサと草むらの中に入っていく。この小さな冒険がお気に入りのようで、トワは微笑ましく見ている。
そこへ、小さな影が走ってきて、ケイにぶつかった。突然のことに驚いた姫は、戻ってきてトワの陰に隠れる。
「あにうえ!」
トワは一瞬身構えたが、近衛騎士が無反応なところを見ると、日常風景なのだろう。
「ヨウ、久しぶりだな」
突っ込んできた影を抱きとめたケイが笑顔を見せる。
「こんなところでお会いするなんて、珍しいですわね」
少年のあとからやって来た女性に、ケイの笑顔が消える。服装からして高位の女性。少年の母と考えるのが妥当。
「俺だって、庭の散策くらいしますよ、皇后陛下」
皇后陛下!? 心の目でトワは二度見する。皇后陛下ということは、皇太子の母ということになるが、歳はケイとあまり変わらないように見える。いや、確か、現皇后は後妻。ケイの母の死後、皇后の地位に就いたのが第二王子ヨウの母だ。
「ピャッ」と鳴いて、姫がトワの腕の中に避難した。ヨウ王子が姫のしっぽを急に掴んだからだ。
「だめですよ、殿下。ドラゴンはしっぽを触られるのが嫌いなんです」
トワは姫を抱えてしゃがみ、幼い王子と目線の高さを同じにする。
「そおっと優しく、首の後ろを撫でてあげてください」
姫はまだ怯えているが、トワに言われたとおりにヨウ王子が小さな手で姫を触るのには耐えていた。
「かわいい! かあさま、ぼくもこの子ほしい!」
「困った子ね。すぐにケイ殿下のものを欲しがるんだから」
少年の反応は、何でも兄と同じものを欲しがる小さな弟のそれで、皇后のほうもその母親の対応なのだが、小さな違和感がトワには残った。
その違和感が何だったのか、答えのようなものが見出せたのは、その翌日だった。
「あなたがケイ殿下の新しい従者ね」
ケイは世話係と言うが、表向きは従者ということになっている。頭を下げてトワは肯定の意を示す。トワを呼び出した人物は、今のトワの立場では、簡単に口をきける相手ではない。
「ケイ殿下が城の外から連れ帰ったトウ国人なのですってね」
昨日一日で情報収集でもしたのだろうか。それとも最初から耳に入っていたか。トワが来た日は王宮は大騒ぎだったし、ケイはトワの存在を隠していない。皇后陛下が自分に何の用なのだろうと思うが、一方で何となく予想はついていた。
「あなた、ヨウ王子の教育係にならない?」
おっと、世話係から教育係に出世か。と、心の中だけでおどけてみる。
「おそれながら、他国民を王子殿下の教育係にするというのは、いかがでしょうか」
発言を許されたので口を開く。トウ国の歴史は古いので、歴史の教師というのならまだわかる。それとて、どこの誰とも知れない今のトワでは分不相応だ。
「昨日のあなたの王子の扱いは見事でした。最近少しわがままが過ぎて手を焼いていたのです」
「お褒めにあずかり光栄です。しかし、私の後ろ盾は皇太子殿下ですから、皇太子殿下の許可なくお受けすることはできません」
話はケイを通せ、が要約である。今現在、トワはケイのものだ。同じくケイのものである姫は希少すぎて譲ってほしいなどと言える代物ではない。だが、人間ならば替えがきく。兄の物を欲しがる弟に与えるには、丁度いい玩具なのだろう。
その日の夜、ケイは不機嫌を背負って自室に戻って来た。昨日の執務室と同じくらい寒い。珍しく起きていた姫が心配したように駆け寄って、ケイは姫を抱き上げる。
「皇后がおまえをよこせと言ってきた」
トワからは事の委細はケイに説明していないが、経緯は伝わっているのだろう。
「……おまえの好きにしていい。今日はもう下がっていいぞ」
姫をトワに預けると、ケイはそのまま風呂場へ消えた。それを見送って、トワは苦笑する。ピ?と首をかしげる姫を撫でて、トワは呟く。
「…難儀な人やねぇ」
風呂から上がったケイは、トワがまだいることに驚いているようだった。それを無視して、いつもどおりに髪を乾かす作業に入る。だが、今日は素直に髪を拭かせてくれない。
ふいと横を向いてしまったケイに、トワは作業を中断して声を掛ける。
「何か言いたいことがあるんやろ?」
「別に…」
これは根競べやな、とトワは沈黙を守る。
しばらく部屋に静寂が流れたあと、ケイは濡れた髪をくしゃくしゃと掻き混ぜながら、やけくそのようにまくし立てた。
「おまえは俺の臣下じゃない。俺はおまえを支配したいわけじゃない。確かにそう言ったし、それは今でもそう思ってる。おまえを俺に縛り付けたいわけじゃない。おまえはおまえの好きにすればいい。教育係はけっこうな好待遇だから、それもいい」
はー、と息を吐き出して、ケイは右手で顔を覆う。
「…………でも、おまえをとられるのは、いやだ」
声、ちっさ!
姫の足音にもかき消されてしまいそうな、そんな小さな主張だった。
「殿下」
トワはソファを回り込み、ケイの前の床にしゃがむ。ケイの顔は髪の毛と手で隠れてしまっているから見えないが、耳が赤いのがわかる。本心ひとつ言うのに顔真っ赤って、どこのツンデレお嬢様やねん、と心の中でだけツッコむ。
「殿下」
なおも顔を見せないケイに再度呼びかける。
「ケイ」
指の間からケイがこちらを伺う。母親にいたずらを見つかった子どもみたいだ。
「あんな、なんで僕が向こうに行くこと前提にしてるのか、わからへんねんけど、僕はどこにも行かへんよ」
乱れた髪を手櫛で整え、ケイの顔を現す。
「僕はここにいる。やから皇后陛下にはケイを通せって言うたん」
黒い瞳がじっと見つめる。
「僕の好きにしてええねやろ?」
頷くケイに、トワは微笑む。
難儀な人やなぁ。
それが今のところのケイの印象だ。
まっすぐで、不器用で、たまに天然。
──本当に、いつか、彼が世界を壊すようなときが来るのだろうか…?