37 硝子玉の心
「ケイ殿下をお慕いしています」
後にも先にも、そんなふうにじっと目を見て言われたことはなかった。
すでに有力貴族の娘と婚約していた自分に対して、ストレートな言葉を投げつけるものだと、ずいぶんと──
無遠慮な女だと思った。
カーテンを通して差し込む朝の光に、ケイは薄く目を開けた。ベッドに仰向けになったまま、ぼんやりと天井を見上げる。
唐突に、顔が見たいな、と思った。
「…トワ」
「はいはい、なんでしょう」
思わぬ返事があって、ケイは勢いよく声のほうへ顔を向ける。入口からこちらへ向かって歩いてくるから、トワは丁度ケイを起こしに来たところなのだろう。
「珍しいやん、起こす前に起きてるなんて」
おどけた調子で言いながらトワはケイに近づく。
「なんや厭な夢でも見たん?」
ベッドサイドに立つと、トワはケイの顔を覗き込んだ。
「なんでわかる?」とはケイは口にしなかったが、軽く目を見開いたそれでトワは「んふふ」と笑う。
「わかるよ、ケイ、わかりやすいねんもん」
ケイのことをそんなふうに言うのは、古い付き合いの親友と侍従以外には、トワくらいのものだ。
「ほんなら、厭な夢の世界にもっぺん引っ張られんうちに起きてしまい」
二度寝したからといって夢の続きを見ることはまずないだろうが、いぎたないケイが珍しく目を覚ましているのを、もう一度寝かせるわけにはいかないから、トワは適当な理由を付けて起こそうとする。
「んー…」
もう目は冴えてしまっているのに、なんとなく起き上がる気分にはなれなくて、ケイは寝転がったまま唸る。
放っておけばもう一度瞼がくっついてしまいそうなケイの顔の前にトワは顔を出して二度寝を阻止する。
「ほら、ケイ、どうせもう起きなあかんのやから、起きてしまお」
寝ぼけているのか焦点の定まらないケイの黒い瞳は硝子玉のようにつるんとして見えて、黒曜石の眼やな、などと、どうでもいいことを思う。
「ん」
小さな声とともに伸ばされた両手が「起こして」と言っていた。下唇を少し突き出した表情が甘える幼子のようだ。
ふふ、と小さく笑ってトワはケイの両腕を引っ張って抱き起こす。ケイをベッドに座らせるために脇の下に手を入れると必然的に距離が近くなる。その隙を狙ったかのように、伸びていたケイの腕がぎゅとトワの首の後ろに巻き付いた。
「なにぃ? どしたん? 今日はずいぶん甘えんぼさんやねぇ」
背中をトントンと優しく叩いてやると、肩口に額をすり寄せて来る。
なんやこれ、この可愛い生き物。
ほんまにこれ、あの舞踏会でキラキラしてた王子かいな。ていうか、普段仏頂面のあの無愛想王子かいな。
戦場でのケイは見たことはないが、赤夜叉と恐れられるくらいだから、こんな状態なわけがないし、あの舞踏会で見た戦闘能力が彼の戦場での実力だろうし、剣術の稽古の時だってちょっと好戦的な空気をまとっている。
それが、なにこれ。寝起きってだけで、こんなふにゃふにゃするもんかいな。大丈夫か、これで。襲撃とか受けて生き残れるんか?
と、余計なお世話なことを考えるくらい、今日のケイは質が悪い。普段も寝起きは悪いけれど、今日は質の違う悪さだ。
「そんなに厭な夢やったん? 怖かった?」
肩口に額を付けたままケイは首を振る。
「……おまえは、」
くぐもった声が小さく聞こえる。
「俺のこと、好きじゃなくていいからな」
「え? ……は?」
言っていることと行動が一致していない。首に回ったこの腕は、これは、どう考えても愛してほしい子どもの甘えたやろが。
するりと離れた腕はトワを解放し、ケイはトワと目を合わせないままベッドを降りる。
「ちょ…ケイ」
夜着を脱ぎ捨てたケイに慌ててシャツを着せかけ、夜着を拾う。ケイは何事もなかったかのように、いつもどおりの身支度を始める。
さっさと顔を洗ってソファに座るケイの背後に立って髪を梳く。さらさらと手触りの良い細い髪を束ね、なんとなくケイがすぐに離れていってしまわないように、いつもより手間のかかる編み込みをしてハーフアップにする。
「…なあ、さっきの、どういう意味なん?」
たまらずにトワは尋ねる。
「さっきの?」
「『好きじゃなくていい』って、なに?」
「そのままの意味だ」
「なん、それ…」
自分はいつも全身でトワへの愛情を隠そうともしないくせに、自分のことは好きじゃなくてもいいって、どういう意味だ?
確かに、トワには、ケイがくれるものを同じようには返せない。けれども、それでも……。
「…ほんなら、なんのために僕はいるん…?」
傍から見たケイは、孤高の人だ。強固な信念を持っていて、他者にも自分にも厳しい。強くて凛々しくて、すっと背筋を伸ばして立っている。一人でも決して倒れない。それに反発を抱く者や、やっかみを向けられることもあるが、それを気にする素振りもない。そんなケイだから、部下は畏怖しながらも付いて来るし、憧れの眼差しを向ける。
でもトワの知るケイは、そんな強さの裏側に、小さな子どものような甘えや不安を隠し持っている。
それを、向けていい相手がトワだから、側に置きたがるのだと思っていた。それなのに、トワにまるで興味がないような、そんな言いぐさは、なんだか…何も期待されていないようで…そんなのは、
“寂しいやんか”
そう口に出しそうになって、吸った息を小さく吐き出して口を噤む。
自分は、こんなことを言える立場ではないのだ。
「おまえがなんの目的で俺の側にいるかなんて知らん。そんなことはどうでもいい」
……心臓が、飛び出すかと思った。
この人は、どこまで見えているのか。ケイがはっきりとは言わないから、トワも何も言わない。言えるわけがない。だが、きっと、トワの後ろめたい部分を、的確に感じ取っているのだろう。
「側にいれば、それでいい」
それなのに、ケイは、そんなものは些細なことだと捨て置く。
「言っただろう、おまえならなんでもいいって」
寝起きの低くかすれた声でぼそぼそとケイは喋る。淡々としているのに、まるで睦言のように甘く響くその言葉に、トワは戸惑う。こんな時に凝った髪型にした自分を恨む。だが、同時に、ケイが振り返れない状況にした自分を褒めたい。今、あの目を見たら、泣き出してしまいそうだ。
髪を編む手を止めないまま、必死で躱す言葉を考える。なのに、何も思いつかなくて、いつもどおりの声を装って、
「あほちゃう」
そう悪態をつくのが精一杯だった。




