31 涙のゆくえ
執務室にケイが入ると、補佐官が「お帰りなさいませ」と頭を下げた。
「ああ、悪かったな」
仕事を後回しにして遠乗りに行ったことを詫びる。
「いえ、問題ありません」
補佐官は、ケイの執務机に書類を置いた。
「こちらは至急のものですので、本日中にお目通しください」
補佐官の机に残りの書類が二つの山に分けて置かれていたので、それを問うと、早めの処理が望ましいが今日でなくても構わないものと、明日以降でよいものだと言う。
いつもは急ぎでないものも、処理しないとどんどん溜まって行ってしまうのでその日のうちに片付けるのだが、今日は至急のものだけを片付けることにする。
「もっと小言を言われるかと思ったが」
書類に目を通しながらケイは揶揄するように言う。
「殿下には、必要な時間であったと思いますので。トワに感謝しております」
意外な言葉に、ケイは顔を上げる。
「おまえ、トワを嫌っていたのではないのか」
トワが執務室に入るたびに睨んでいた男である。最近は慣れてきたようで睨むことも少なくなったが。
「正直、今でも警戒はしています。ですが、殿下を連れ出せるのは、彼だけでしょうから」
真面目で仕事熱心なケイは、補佐官としては有り難いが、それゆえに手を緩められず、根を詰めてしまう性分である。周りが休養を勧めても、結局なんだかんだで仕事をしてしまう。そのケイを、トワはわがまま一つであっさり外に連れ出してしまう。
それはそれで警戒すべきなのかもしれないが、今日トワがケイを外に連れ出したのは、おそらくあの件でケイが気落ちしているのを慰めるためだろうと推測できた。そのくらいに、普段からトワがケイを気遣っていることも、補佐官には見えている。
ドアをノックする音があり、補佐官が応対に出る。
「殿下、獄舎の責任者が参りました」
報告を受けて呼び込むように指示する。
一礼して入って来た牢の責任者の男は、ケイに報告書を差し出す。
「この度は、申し訳ございません」
ケイは黙って報告書を受け取り、目を通す。
死因については、候補となる毒物はいくつか推定されていたものの、特定にまでは至っていなかった。実際のところ、同じような症状を引き起こす毒物なら、何を飲んだことが原因であるかまで特定するのは難しい。
今後の対策については、牢の警備を強化するという程度の内容であり、ケイの求める対策のレベルには程遠かったが、今ここでそれを言っても仕方がない。
「下がっていいぞ」
「え?」
報告書が不十分であったことは自覚があったのか、ケイがあまりにあっさりと退室を認めるから驚いたのか、男は思わずケイを見た。
「なんだ?」
顔を上げたケイに視線を返されて、慌てて男は顔を伏せる。
「あ、いえ…。その…」
逡巡したあと、意を決したように口を開く。
「あの、殿下のお耳に入れたいことがございます」
ケイが何も言わないので、許可されたものとして男は続けた。
「あの囚人と最後に会ったのは、殿下の従者でございます」
むろんそれは牢番たちを除いて、という意味だろう。
「それがどうした?」
表情を変えずにケイは頬杖をついている。
「我々は、囚人を牢に入れるときには必ず身体検査をします。隅から隅までです。あの囚人も当然検査をして、何も持っていないことを確認しました」
「何が言いたい?」
「囚人に毒を飲ませたのは、殿下の従者という可能性はありませんか」
「俺が従者に命じたとでも言いたいのか?」
「いえ、そうではありません」
では、トワが独断で殺したとでも言いたいのか。
「俺の従者が囚人に会ったのはいつだ?」
「あの囚人が牢に入れられた日です」
「死ぬまでに随分時間が掛かっているな?」
「ですから、それは、その、毒を差し入れて飲むように仕向けたのではと…」
「ばからしい。そんなことをして、なんの意味がある?」
そんなことをする理由が、トワにはない。トワが、ヤナの父親が差し向けた間諜でもない限りは。
「それに、侍従と会ったことは従者から報告を受けている」
そもそも、侍従とトワを引き合わせたのはロンである。トワが自分から会いに行ったわけではない。
「そんなくだらないことを考えている暇があったら、さっさと戻って警備強化の方法でも考えろ」
突き放すように言って、ケイは追い払う手振りをした。それを合図に、補佐官が牢獄の責任者に退席を求める。「殿下の従者を犯人扱いして、お咎めなしなのですから、殿下の寛大さに感謝すべきです」と、補佐官はドアを閉めた。
さらさらと指通りのいいミルクティー色の髪を、タオルで丁寧に水気を取っていく。細い髪を梳きながら、襟足を持ち上げれば、美しい首筋が現れる。筋張った筋肉の付き方は男性的だが、太くはなく、白くきめ細かい肌は女性のようだ。彫刻のような造形美の持ち主は、首筋までも美しい。
この首に手を掛けて締め上げれば、儚くなってしまうかもしれない。
トワの指が首に触れても、振り向きもしない。トワが魔術を使えることを知った今でも、完全にトワに背後を預け切っているこの無防備さは、なんなのだろうと思う。
ソファに座るケイの後ろに立ち、髪を乾かすその作業は、いつもどおりのことで、ケイはトワの動きに注文を付けたりはしない。姫を膝に抱いて、されるがままだ。
肌に貼り付いた髪をすくうトワの指がケイの首筋をなぞる。
「トワ」
不意にケイが名前を呼んで、反り返るようにトワを仰ぎ見た。トワは下を向いているから向き合う形になる。もう今さら驚かないが、仰向けでも美しい男である。
ケイの手が伸びてトワの首に触れる。そのまま探るように指が動いて、ペンダントのチェーンをシャツの襟から引き出した。チェーン伝いにペンダントトップにたどり着くと、ケイの手がトップを弄ぶ。
「え、なに、どしたん?」
驚いてトワが尋ねると、「んー?」と眠そうな声が返ってくる。
「このペンダント、いつもしてるな?」
「ああ…ええと、お守りやねん」
嘘ではない。何かあったときのためにと姉に持たされたものだ。
「毒がか?」
ケイは中身のことを言っているのだろう。ペンダントトップがロケットのように開いて、中に毒にもなる丸薬が入っていることをケイは最初から知っている。
「これは…量によっては薬になるし、ほかのものと混ぜることで、別の使い道もあるから…」
「別の使い道?」
「…トウ国に伝わる特殊な技術やから、説明はでけへんけど…」
上手に口で表現できない、という意味でもあるし、人には教えられないという意味でもある。どちらの意味にしても、トワが説明しないことは伝わったのか、ケイはそれ以上は聞いてこなかった。
ケイは、ペンダントからぱっと手を離してトワを解放する。だが、ソファの背もたれに頭を預けてトワを見上げたままでいる。
「トワ、頼みがある」
「なに?」
その内容を聞いて、トワはケイを泣かせたい衝動に駆られた。その美しい顔に流れる涙は、さぞ綺麗だろう。
トワには見せてくれないその涙を、彼はこの後、トワがいなくなったら、一人で静かに流すのだろうか。それとも、それさえも自分のうちに閉じ込めてしまうだろうか。




