30 カラス
遠乗りから帰ったケイは、中庭で呼び止められた。トワは厩に馬を返しに行っている。
「ケイ」
木陰から現れたのはヤナだ。
日が傾いてもう薄暗くなり始めているから、彼女がずっとここにいたとは考えにくい。ケイが遠乗りに行ったことを誰かから聞き、帰る頃合いを見計らって来たのか、あるいは、ケイが帰った報告を受けて急いでここまで来たのか。
「どうした?」
辺りに誰もいないことを気配で確認してから、ケイは昔と同じような口調で返す。
「聞いたわ、彼のこと」
「ああ…大丈夫か?」
訃報が彼女の耳に届くまでに時間が掛からないことは予想していた。
「大丈夫よ、ヨウが側にいてくれたから」
「そうか」
暗くてよく見えないが、ケイはヤナの表情に目を凝らす。
「泣くなよ。今の俺は、何もしてやれない」
涙をぬぐってやることも、側にいて慰めてやることも。
「…あなたのそういうところ、ほんと嫌だ」
拗ねたような怒ったような口調でヤナが言う。昔からよく言われた台詞だが、実は彼女の言う「そういうところ」がどういうところなのか、ケイは未だによくわかっていない。
「でも、ヨウを連れて来てくれて、ありがとう」
「ああ」
その様子から、ヨウを側に居させたのは間違いではなかったと胸をなでおろす。彼女の瞳に涙の跡はないようだ。
実際、ヤナはその訃報を耳にした時、膝から崩れ落ちそうになった。だが、丁度侍女がヨウを連れて帰って来たところで、ヤナはなんとか堪えることができた。ヨウをヤナのもとに連れて行くよう指示したのがケイだと侍女から聞き、ヤナはぎゅうとヨウを抱きしめた。
ヨウは何事が起こっているのかはよくわかっていないようだったが、母の様子がいつもと違うことは感じ取ったようで、子どもながらに気遣って他愛のない話を続け、慰めるようにずっと側にいた。
今は、剣術の稽古で疲れたのか、眠ってしまっている。
あなたは大丈夫なの?と訊こうとして、ヤナはやめた。訊けば、「トワがいるから大丈夫だ」と答えられて腹を立てることになりそうな気がする。今日の遠乗りだって、トワのわがままに付き合って行ったものだとヨウの侍従から聞いてイラっとしたのだ。
かつては、ヤナのわがままだってケイは聞いてくれた。今だって、頼めば聞いてくれるかもしれない。ここで慰めて欲しいと言わんばかりに泣けば、優しく抱き締めてくれるかもしれない。
だけどそんなことは、ヤナはしない。
ヤナは自分の立場をわきまえているし、ケイがその立場を冒してまで自分に執着していないこともわかっていた。
だから、余計に腹立たしい。
もう決して、ヤナのものにはならない、その隣を、当たり前のような顔をして享受しているあの男が。
「なんだ? 何か言いたいことがあるのか?」
ヤナは気づかぬうちに眉根を寄せて口をへの字にしていたらしく、それが彼女が不満を抱えているときの表情だと知っているケイは、顔を覗き込む。
そのやさしさが、苦しい。
トワの話題を出すのは癪に障るし、「わたしだってあなたを心配しているのよ」などとは言えないヤナは、息子に助けを求める。
「ヨウが、今日とても楽しかったみたいで、ずっとあなたの話をしていたわ」
「そうか」
それがヤナの言いたいことだとは思わなかったが、ケイは追及せずに相槌を打った。
ケイのその反応にほっとしつつ、一方で少し寂しさも感じながら、ヤナは当り障りのない話を続けた。ケイが執務室に戻るまでのその短い間だけでも、彼と一緒にいたかった。
一見冷たく見えるケイの本質は、優しい人だと知っていたから。
遠乗りに使った二頭の馬を厩舎に戻したトワは、鞍を外して飼葉と水をやる。
「付き合ってくれてありがとうね」
トワに鼻筋を撫でられた馬は満足そうに目を細めた。ケイの乗っていた馬を撫でてやったところで、馬たちが怯えたように嘶いた。
横切る黒い影にトワは手を伸ばす。
トワに脚を掴まれたカラスが「ギャー」と鳴く。構わずにトワは手に力を込めてカラスの影を握りつぶす。再びトワが掌を開いた時には、もうカラスの姿はなかった。
馬たちを落ち着かせるように撫でた後、トワは厩舎の裏手へと回った。人気のない茂みに向かって声を掛ける。
「鴉、出ておいで」
それは静かな声だったが、有無を言わせぬ力があった。命令し慣れている者のそれだ。
「は、こちらに」
暗がりから湧いて出たように、黒ずくめの男が現れた。トワの前に跪き、うやうやしく頭を垂れて胸に手を当てる。
「お久しぶりにございます。殿下におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
丁寧な話し方をするから、文字にすればコウ国の人間と同じような言葉遣いになるが、イントネーションはトウ国訛りだ。
「前置きはええよ。なんの用?」
場にそぐわない慇懃な挨拶をする男を遮ってトワは言う。
「殿下のお帰りが遅いのでご心配なされたようで、様子を見てくるようにと」
男は“誰が”とは言わなかったが、トワにはその主語がわかる。
「お遣いご苦労さん。問題ないから帰ってええよ」
普段のトワからすれば、ずいぶんと冷たい印象の受け答えをするが、男は慣れているのか、むしろ、何が楽しいのかニヤついた笑みを絶やさずにいる。
「僭越ながら、この鴉めがお手伝いいたしましょうか?」
「…さっきのあれは、手伝いのつもりなん?」
カラスの幻影は、この男の遣う大烏の妖魔が作り出したものだ。トウ国では妖魔を遣う者はいるが、妖魔の幻影などという厄介なものを扱うのは、この男くらいだ。
「妖魔に襲われて命を落としたとすれば、処理しやすい筋書きかと」
「へー。僕のためにそこまで考えてくれはったん」
ただ音が口から出ているだけ、というような話し方をトワはする。
「ほんまに僭越やね。おまえの役目はなんやの?」
男とは対照的に、トワの顔は完全に表情を消し去っている。
「は、出過ぎた真似をいたしました」
男は頭を下げる。あっさり引き下がるところを見ると、トワの監視以上の命は受けていないのだろう。
「ですが、殿下はあの御仁にお心を傾けていらっしゃるご様子」
人の心を解さないようなこの男に言い当てられてトワの心臓はきしむ。
「彼の御仁は鏡が示した破滅の王。殿下のご決心がつかぬようなら、」
「分をわきまえや」
鋭い声で男を制する。
「これは僕に預けられた件や。おまえの指図は受けない」
「失礼いたしました」
丁寧な受け答えをするものの、ずっと薄笑いを浮かべている慇懃無礼な男に、トワは宣言する。
「いつ、どこで、どう殺すかは、僕が決める」




