28 碧の湖畔
「わあ、綺麗や…」
碧の湖面にキラキラと陽光が反射して輝くのを見て、思わずトワは声を上げた。
ケイと一緒に遠乗りでやってきた場所は、この、ケイとトワが初めて出会った湖だった。どこに行きたいか問うケイに、トワが「ケイが好きなところに連れて行って」と答えた結果である。
馬を降りて水辺の木に繋ぎ、水を飲ませ、草を食ませる。
水辺に近づくと、湖を囲う豊かな緑を映した水面は、底が見えるほどに澄んで、水中の魚が自由に泳ぐ様子が見て取れる。
前にトワがここに来たときは、術の力の大きさに酔って意識を失ってしまっていたし、意識を戻してからもケイの天然なマイペースに振り回されていたから、景色の美しさに気を配る余裕がなかった。
あの術には澄んだ水が必要だから、この湖が選ばれたのにも納得がいく。
トワが水際を覗き込んでいる間、ケイは木々の間にできた草地に座ってトワを目で追っていた。
戻って来たトワはケイの右隣に腰を下ろす。
しばらくの間は会話もなく、二人してぼーっと湖を眺めていた。ここでは流れる時間も穏やかで、いつも何かに追い立てられるように仕事をしているケイの気を緩められる場所なのだろう。
さわやかな風が吹き、ケイのさらさらした髪を揺らしている。
「…ありがとな」
やがて、ケイがぽつりと言った。
「ん?」
「あの場から連れ出してくれて」
やはりトワの意図に気づいていたのか。
「…なんや、城内におらんほうがええんちゃうかと思ってな」
あそこでは、どこにいても人の目がある。皇太子殿下であるケイが独りになれる場所は寝室だけで、けれど寝室に昼間から籠るわけにはいかない。
「僕のことは気にせんと、泣いたらええよ」
トワがケイのほうを向くと、ケイもトワを見ていて、なんだか微妙な表情をしている。
「胸貸そか?」
「いらん」
おどけたように言えば、速攻ですっぱりと拒否される。
「…でも、ちょっと、背中貸せ」
ケイの手が、隣に座っているトワの肩を自分とは反対側に押しやり、トワの背をケイに向けさせる。素直に従うと、ケイの顔が見えなくなったところで、トワの背中に温もりが加わった。
ケイの額がトワの背中に押し付けられる。
なんとなく、目を閉じてそうしているんだろうとケイの姿が想像できて、けれどもそう簡単に泣いてはくれないなとトワは黙って背中を貸した。
素直に胸の中で泣いてくれれば、抱き締めて背中を擦ってやって、甘やかしてやれるのに、この見た目繊細そうな王子様は、なかなかの強情っ張りだ。
トワは足をクロスさせた体育座りの姿勢で、流れる雲や飛ぶ鳥を眺めたり、水面にはねる魚に気を取られたりしながら、ケイの気が済むまでそうしていようとじっとしていた。
「……ここでおまえを見つけた時、」
ケイが囁くように話し出した。
「探していたものを見つけた気がして」
背中のケイが額を離さないまま喋るから、トワの心臓に直接ケイの声の響きが伝わってくる。
「かなり強引に連れ帰った」
ケイの口から語られる初めて会った時のことにトワは緊張する。
「…探していたって、何を?」
「わからん。感覚的に、そう思っただけだ」
ケイはその感覚を説明する気はないようで、さらに端的な言葉に凝縮する。
「だから、運命だと思った」
普段はその見た目に反して王子様な台詞など吐かないくせに、急にこんなことを言うから困る。
運命なんかやないんよ、ケイ。
俺はおまえに会いにきたんやから、出会うのは必然だったんよ。
そうは言えないトワは、楽しそうな声を作って話す。
「それであんなむちゃくちゃな理論を展開してたわけやね。僕かてちょっと心配になるくらいやったもん」
トワの言葉にケイは額を離す。
「おまえ、よくあんな強引なのに付いてきたな」
トワは振り返ってケイを見遣る。ケイはいつもより少し気の弱そうな笑みを浮かべていた。
「…まあ、命と衣食住を保障してくれはるって言うし、なんや、ええ人そうやなぁ思て」
ケイが言わなくてもトワはケイに付いていくつもりだったから、理由などあってないようなものだが、いい人だと思ったのは本当だ。
あまりに前情報と違うから驚いた。
「でも、お城の人たちはびっくりしてはったね」
「ああ。侍従にも、犬猫じゃないんだから、気軽に人間を拾ってくるなと注意された」
トワが最初に城に行った日、面倒を見てくれた侍従が彼だった。
「トワが俺に害をなさない限りは面倒を見るが、そうでなければ、自分が殺すとまで言っていたくせに……自分が先にいなくなるなんて、酷いよな」
曲げた膝の上に両手を置いて、顎を乗せたケイは目を伏せる。綺麗な横顔は愁いの色が濃いのに、どこか拗ねたようにも感じる。
「…いや、酷いのは俺か。あいつを見捨てた」
先にケイの信用を裏切ったのは彼だが、ケイは彼を死なせてしまったことを言っているのだろう。
「自殺やないと思うよ」
ケイが黒目だけをトワに向ける。
「彼、最後に会うた時、そんな感じやなかったもん」
彼は、ケイに殺されたがっていた。だから、自ら死を選ぶとは思えない。
「……あの時、俺が殺してやるべきだったのかもしれない」
再び目を伏せて、ケイは静かに言った。彼が、到底命を狙えるはずもないナイフをケイに向けた意図を、ケイもわかっていたのだ。
「それが嫌で、止めに入ったんよ」
きっぱりとしたトワの言葉に、ケイは顔を上げる。
あの時、侍従の意図をわかっていながら、ケイがそれを理解していることもわかっていながら、それでもトワは彼を止めたのだ。彼の描くシナリオ通りに、ケイに命を負わせたくない一心で。
「彼のしたことは、どんな事情があれ、すべては、彼の決めたことや」
侍従と話をした時、彼は、自分の命を捨てる覚悟があったのだろうと思った。それは幼い妹を助けるためなのか、ケイを裏切った自分を責めるためなのか、そこまではわからなかったけれど。
企てが失敗したなら命を失うことも承知の上だったのだろう。だから、せめてケイに殺されたいと願った。でも…
「彼の命をケイが負うのは、それは、僕が嫌やってん」
ともすれば独占欲のようにも思える自分の感情に、あの時トワは戸惑った。だけど、こういうことなのだと結論付けた。
「僕の命かて同じ。僕に何かあったとしても、ケイが責任感じる必要あらへん。僕の命は僕のもんや。背負わんでええ」
ケイは真っ直ぐにトワを見つめる。
「おまえに何かあったら、俺は、」
ケイが言い終わらないうちに、トワは立ち上がって弓を手にした。素早く矢をつがえて引き絞る。




