3 死亡動機X-2
司書室には、幸村という先生がいる。
司書教諭で、国語教師のこの先生は、いつも司書室で本を読んでいたり、何か書き物をしたりしている。少し風変わりな先生で、生徒との雑談好きでも有名な人だ。
この時間帯なら、きっとまだ残ってる。
気を紛れさすには、もってこいの先生なのだ。話題だったら、授業中に見た夢の話でもすればいい。せっかくだから、相談してみよう。不気味な夢だったから、何か厭な感じが抜けない。
廊下を歩くと、案の定、司書室には明かりが点っていた。
やっぱり、今日もまだ居るらしい。
キィッ
ドアを開ける。
先生は、やっぱり熱心に何か書き物をしていた。
チラリと、こちらを見る。
「やあ、どうしたんだい。深田信司君」
そして、机に顔を向けたまま、まるで独り言でも呟くかのようにそう言ってきた。
「こんにちは、先生。今日も、また何か書いているんですか?先生は、その仕事をやるために、この学校に来ているみたいですね」
僕は、先生にそう話し掛けた。
先生が何を書いているのかを僕は、詳しくは知らない。ただ、聞いた話によると、この学校の記録を熱心に綴っているのだそうだ。何の為に、そんな事をやっているのかは、皆目分からず、変な趣味という事で、生徒間では片付けられてる。
先生はそれを聞くと、不服そうな顔をして、
「そんな訳は、ないだろう。学校には、教師として授業をやりに来てるんだよ。この書き物は、学校にいる間の暇な時間にやっているだけだ」
と言った。
この変な書き物をするついでに、教師の仕事をやっているとしか思えない。
そして、先生は僕を見ると、更に続けてこう語った。
「だいたい、この学校の生徒は図書室を使わなすぎるんだ。だから、こうして司書教諭をしている僕としては、暇を持て余す事になってしまう。だから、その暇な時間を有効活用してる、それだけじゃないか。君だって、放課後でまだ図書室は使える時間帯だっていうのに、図書室には入らないで、暇つぶしに司書室の方に入ってきてるし」
「僕はただ、先生に相談事があって、ここに来ただけですよ」
僕は先生にそう言われて、少しだけ嘘をついた。
「相談事?」
先生は、その言葉に反応する。目の色が変わった。
「一体、どんな?」
もしかしたら、僕が過去にあんな事件を起こしているからだろうか。そういった事に、先生は敏感になっているのかも知れない。
そう真剣になられると、何だか話しづらい。
「いえ、そんな大した事でもないんですけど、ただ……」
僕は、僕の見た夢の話をできるだけ、不気味に語った。そうすれば、先生の真剣さに応えられると思ったからだ。その方が、先生の琴線にも触れるだろうし。
ところが、先生は僕が語り終えると、呆れた顔をして、
「あのね、深田君。君は何て不敬な生徒なんだ」
と、溜め息混じりにそう言ってきた。
「えっ…」
僕は、その言葉に竦んだ。
「だって……、先生は、こういう話、好きじゃないですか」
そして、慌ててそう問い質した。
すると、先生はこう説明してきた。
「あのね、そういう問題じゃないよ。生徒が教師に向かって、授業中に居眠りした時に見た夢の話をするなんて、一体、どういう了見なんだ?」
「あっ…」
僕は、真っ赤な顔になった。
「すいません……」
僕がそう謝ると、先生は
「まぁ、こういう事は、親しくなると感覚が麻痺して、よくある事だから、べつにいいけど、君みたいな大人しい子までそうだと、僕の方にも何か問題があるかな」
と、表情を崩してそう言った。
僕の態度を見て、僕を安心させるために、そんな事を言ったのかもしれない。時々、そんな優しさを見せるから、幸村先生は生徒に人気があるのかも。
「それで、君はつまり、その不気味な夢がなんであるか知りたい訳だね」
ガラッと急に、先生は僕の相談事に話題を戻した。
「はい、何であんな夢を見たのか、気持ち悪くて…」
「そんなに心配をするような事でもないよ。もし君が、その夢の事を予知夢か何かだと思っていて不安を感じているのなら、見当違いだよ。そんな夢、何で君が見たかなんて、簡単に説明がつく」
「えっ、だって、あんな不気味な夢…」
僕が、そう言いかけると、先生はそれを途中で制し、
「君は、寝ているのだか起きているのだか分からない半端な状態で、その夢を見たのだろう?」
と尋ねてきた。
「はい」
「そして、その夢で見た光景は、ほとんど白しかなかった」
「はい、真っ白でした」
「白は、夢判断でいえば意識のシンボルなんだ。そして、黒は反対に無意識のシンボル。君は白の所為で不快を感じ、人影に連れ去られる過程で、快楽を感じて、それに気づいた瞬間に恐怖を感じたと言ったね」
「はい、その通りです」
「それは、つまり、自我が無意識の中にある欲求を無理矢理に抑えている事だと判断できる。そして、この場合のシチュエーションを考えるなら、単に授業中に寝たいという欲求と、いやダメだと判断する君の自我が責めぎ合ってる事を表しているだけだろう」
「じゃあ、何で黒い場所に放り込まれると分かった途端に、恐くなったんですか?」
「自我が、無意識に抵抗したからだろうな」
「起きたら、見たはずの顔を忘れていたのは?」
「それは、最初から正体などなかったんだろう。ただ、見たはずだという意識が、そう思わせているだけなのではないかな」
何だか、少し納得がいかなかった。僕は確かに誰かの顔を見ている。
そう言うと、先生は
「それなら、それは自分自身の顔だったか、別の解釈で、君が肉体関係を結びたいと思っている意外な人物の顔かもしれないな」
と言った。
「何ですか?それは・・」
「君は、黒い人物にさらわれたのだろう?誰かにさらわれる夢、あるいはさらう夢は、セックスに深い関わりがあるとされているんだ。だから、そう解釈するなら、この場合、その人影は自分の好きな相手という事になる。そして、忘れている、という事は、君の自我が認めたがっていない相手である可能性が高い。という事はそれは意外な人物かもしれないって事さ、もしかしたら、同性かもしれない」
先生は笑いながら、そう説明した。
多分、僕をからかってるんだ。
「それでも、まだ納得がいかないのなら、こんな解釈もできる。白は意識のシンボルとされている他、純真なもの、或いは『死』のシンボルとも言われている。また、黒も『死』を暗示すると言われているから、先の解釈と合わせて、君は表層意識では死を怖れているが、深層意識では死を望んでいて、生きている現実を厭がっている。そして、君を無意識へと誘うのは、死を望む自分自身のドッペルゲンガーか、或いは自分を殺してくれる他の誰かか…、という事になる」
それは……、
僕は先生のその言葉を聞いて、急に深刻な気分になった。
その解釈が、一番しっくりくる。
先生は、僕のあの過去の事件を踏まえた上で、そんな夢の解釈を僕に聞かせたのだろうか?
先生の意図は分からない。ただ、その先生の言葉は僕の心にずっしりと響き、僕を戦慄させた。
僕は……、まだ自殺したがっているんだろうか?
死神を呼ぶ鈴。
水島君の、あの言葉が妙に暗示的に僕の心に蘇った。あの時に感じた、不気味な不安と共に……。
気づくと、先生は僕を真っ直ぐに見据えていた。
「深田君」
その目は優しかった。
「君は、どうやら文化によるカタストロフィー、それが起こす本末転倒に犯されている」
そして、奇妙な事を言った。
「えっ?」
僕は、その言葉に呆気となった。
先生は、それに構わず喋り続けた。
「君のその不吉な予感の原因は、外にあるのじゃない、君の内にあるんだ。君は、逃れられない心の内の本末転倒に囚われているんだよ」
先生の言葉は意味が分からない。
「あの……、先生、何の事ですか?」
僕がそう質問すると、先生は
「君は自分が不幸である事を、自分自身で望んでいるんだよ」
と、僕の事をそう指摘してきた。そして、
「いいかい、深田信司君。今から僕が説明する事は、人が自虐的になるという心理状態の一例に過ぎない。自分が自分を傷つけるという心理があるんだ、という事を、よく理解してもらうために言うのだから、その辺を勘違いしないでくれ…」
と、そう前置きをすると語り始めた。
「自分が被害者である事、つまり自分が不幸な人間である事、それはある意味では、対人関係において、こういう立場にいる事と同じだと解釈できるんだ。自分は可哀想な人間で、他人よりも不幸だ。だから、人から護ってもらったり、庇ってもらったりするのは当然な事で、自分は他人よりも上の立場にいる。つまり、被害者である事も、一つの優越なんだよ。これは、屈折したナルシズムとしても捉えられるね。この心理に嵌ってしまった人は、だから、自らを優越な立場に位置付けるために、自らを常に不幸な環境に置こうとする、或いは、自分は不幸だと思っていたがるんだ」
「もしかして、それが今の僕ですか……」
僕は、恐る恐る尋ねた。
自分の中の醜さを認めるのが嫌だったから。
すると、先生は
「そうかもしれない。だけど、違うかもしれないんだよ。始めに言っただろ、これは自虐の心理の一例に過ぎないって。もっとも、誰の心にもこうした心の成分は、少しはあるんだ。だから、君の自虐の心理にも、この心理はあるんだろうね。ただ、この心理作用だけがある訳じゃないだろう。自虐、マゾヒズムの心理をこれだけで説明しようとするのは暴論だと思うよ」
と答えた。僕は、更に尋ねる。
「じゃあ、一体、僕の心は……」
「それは、もっと自虐、自殺というモノの原理を、全体的に捉えないと見えてこないと思う。そこでだ、深田君。君は、どうして人は自殺するのだと考える?」
「生きているのが辛くて、それで死んだ方が楽になれると考えるからではないのですか?逃げているんだと思います」
僕は、即答した。
実体験から出た結論だ。
「うん、そうだね。それでもいい。でも、その場合、本質的には自殺ではないとは思わないか?意志のベクトルは、飽くまで楽になりたいという方向に向いている。つまり、自分自身を傷つけたい訳ではなく、反対にこれ以上、苦しい思いをしたくないから、全てを終わりにしようとして、自殺するんだ。この場合、意志のベクトルは死ではなく、むしろ生きようとする方向に向いているのじゃないだろうか」
「生きる方に…?」
僕は先生の言葉をよく吟味した。
自殺が、自虐の延長線上にある行為なら、確かに、辛さから逃げるための自殺という理屈はおかしいように感じる。
自分を傷つけたいのなら、自分が不幸にある状況は、却って望ましいはずだ。
先生は、僕の表情を読み取ったのか、こんな事を言った。
「そう、だから僕は、それを『逃避としての自殺』とする事にした。これは、マゾヒズムの様な、自虐、自分を傷つけたいと願う心理とは別のものだ。死が苦しみから逃れられる手段だ、という知識がなくては、発生しないものだからね。世の中には、どう考えても不幸には見えないのに、自殺をしてしまう人がいる。否、むしろ、そんな人の方が多いのじゃないだろうか。彼らの自殺を説明するには、君の言った理屈だけでは足りないよ」
先生は、僕の考えを否定はしなかったが、肯定もしなかった。まるで、何かのクイズみたいに僕自身に考えさせようとしている。これはまるで授業だ。ヒントを与え、本人に考えさせる。そして、考え出した結論に補足をする。
先生は、僕が理解できるように、努力しているんだ。
「それでは、先生は何で人は自殺をすると思うんですか?」
僕は先生の態度をそう捉え、先生の講義を聴いているようなつもりで、そう質問した。
「さっき言っただろ、自虐の心理だよ。自分自身を壊そうとする意志が働くためだ」
先生は、簡潔にそう答える。僕は、それでは納得しない。
「あの…、具体的に言うと、それはどんな事なんですか?」
「うん。深田君、君はカタストロフ、それによる精神の浄化作用、つまり悲しい事があると却ってその事によって、精神が浄化されるという現象がある事を知っているかな?」
「はい」
「それでは、その効果は、どんな必要から、人間の心理特性として存在しているのだろうと思う?いいかい、これは言い換えれば、不幸になる、つまり自虐によって快感を覚える作用なんだよ」
「えっ…と」
僕は、言葉に詰まる。
急には、答えは出てこない。
先生は、優しく笑って、
「あせる事はない。ゆっくり考えるといい。これは、そんなに難しい事じゃないよ。まずは、こういった作用がないと、どんな困った事が起きるか、実生活に照らし合わせてみて考えるといい」
と、やっぱりヒントを言ってくれた。
僕は、必死に考える。
「あっ…、えっと。もしかして、身を護るためですか?ストレスの解消手段をそういう所に用意しておかないと、精神が耐え切れなくなってしまうから」
僕はとっさに思いついた事を、そう適当に言った。
「そうだね。まず考えられるのは、それだ。大怪我をした時に、痛みをあまり感じなかったり、気を失ってしまったりして、精神を護る作用がある。極度の疲労で、脳内麻薬を分泌したりする現象もあるしね。悲しみによって起こるカタルシスも、それかもしれない」
先生は、そう補足をするそして、
「でも、それだけじゃない」
自説を唱え始めた。
「自分を破壊しなくてはいけない事態、そいう状況も世の中には存在するんだよ。例を出すのなら、新しい環境に直面して、今までの自分を変えなくてはいけない状況かな。その為には、今までの自分をある程度、壊さなくてはいけないんだ。それを起こすために、自虐を求めるという心理作用が、人間の心の中には存在するのじゃないだろうか」
「?」
僕は、その説明をよく理解できなかった。
「分からないかな」
先生は、そう尋ねてくる。
「はい、よく分かりません」
僕は、正直に答えた。
「なら、分かりやすい例を上げて、説明しよう」
先生は、そう言うとまた語り出す。
「自分の理想像ってのが、あるだろう。その理想の自分は、やっぱり現実の自分とは違う訳だ。そして、もし、そのなりたいと思っている自分と、現実の自分を見比べ、そのギャップに苦しんだ場合、その人の心理の中では何が起こるだろうか?」
僕は、何も応えない。
その説明に"何か"を感じたが、それは言葉にはならなかった。
先生は、続けた。
「そうなると、現在の自分を拒否する。つまり、自分を嫌うという心理が生まれるんだ。そして、自分が変わる事を望む。自分が傷つく事に喜びを感じるようになる」
「それは…」
自然に口が開き、僕は自分でも無意識の内に、何かを言い掛けた。すると先生は、それを制する様に
「もちろん、これは心の中の、そういった成分だけを抜き取って考えた場合の結論だよ。実際の人間の心はもっと多様で、複雑な要因が多数、絡み合っている。だから、誰の心の中にでも、こういった心理過程が起こっているとは単純には、言い切れない。それに、これも自虐の心理の一例にしか過ぎない」
と、説明をした。
それが、僕の心の内に起こっている現象だという確証はない、という事を言いたかったのだろうと思う。
「ただ、自分の精神を護るにしろ、自分自身が変わるためにしろ、それらは全て、本来、生きる為にあるんだ。それが、自殺と結びつくのは明らかに脳の、精神の異常だろう」
「えっ」
僕は、その言葉に反応する。
「自殺は、異常な状態で起こる現象なのですか?」
「当たり前だろう。生命は本来、生きるべくプログラムされているモノだ。それなのに、人間の脳は自殺を認めてしまうんだよ。異常な状態が発生しているとしか考えられない」
幸村先生は、静然とそう語った。
「恐らく、自虐の心理が自殺と結びついてしまうのは、文化が関係しているのだと思う」
そして、そう続けた。
「文化が?」
「そう、文化だよ。自虐は人間以外の生物にだって存在しているんだ。ただ、それが観察されにくいだけなのだろうと思う。それなのに、自殺が確認されるのは人間の場合が圧倒的に多い。これは、死の文化による意味付けに問題があるのだと思う」
僕は、完璧には先生の言う事を理解できなかったが、文化が原因で自殺が起こるという事は分かった。
そう言われてみれば、文化を持たない人、つまり野生児だとかが、自殺をするというのは想像がつかない。
先生は、更に語る。
「俗に言う、狂言自殺なんてモノがあるだろう。他人に構ってもらいたくて、そんな行動を執るのだけど、それは、死が文化社会圏内において、重大な悲劇的な事件だから成立するんだ。もし、死が軽く見られていたら、そんな行為に意味はなくなるだろう。もちろん、自殺の全てが狂言の類だなんて言っている訳じゃない。つまり、文化によって死は、悲劇的な意味合いを持たされてしまったという事が言いたいんだ。特に、自らその命を絶つ自殺は、最大級の悲劇として、大抵の場合、取り扱われる。そして、思い出してくれ、自虐の心理の一つには、自分が不幸な立場にいるという認識をしていて、それを求めているというのがあるんだ。そして、ここで文化によって、最大級の不幸は自殺であるという意味付けが与えられる。本来、自分を護るため、生きる為にある自虐の心理は、その文化によって与えられた究極のカタストロフをもって、暴走し、人を死に追いやるんだ。つまり、本末転倒を起こしているんだよ」
幸村先生の語り口調は、最後にはやや、熱を帯びていた。
「その証拠に、自殺は流行る。人は、辛い状況にあろうがなかろうが、この本末転倒さえ起これば、自殺してしまうんだよ」
そして、最後にそう結んだ。どうやら、先生の講義はだいたい終わったらしい。そして、先生のその目は優しい目に戻っていた。
「いいかい深田君。自分から、不幸を望んじゃいけない。自虐の心理は、必要な時に、必要なだけ活用するべきなんだよ。文化という幻想、そんなモノが起こす本末転倒の犠牲になって、死んでいくなんて馬鹿馬鹿しいよ」
結局、先生は僕に、その事が言いたかったらしい。
僕は自分の見た夢に、不吉な意味を与えたがっていた。それは自虐の心理だ。先生は、その僕の態度を見て、忠告してくれたのだろうと思う。
説明するのに随分と遠回りしたけど、何となく分かった。
「自分の事を、不幸だと思っていたがる心理何てものに、ずっと執り憑かれた状態が仕合せだなんて、僕には思えない。君がまず、脱却しなくちゃいけないのは、その心理だよ。それで初めて、君は心の不安、夢に対する不吉な予感から解放されるんだ」
先生は、更にそんな事を語った。
先生の話はそれで終わりだった。この先生は目的の事を話し終えると、それ以上をあまり語らない。だから僕は、先生にお礼を言うと、そのまま司書室を出て行った。
廊下に出ると、もう、辺りは暗くなっていた。もう、夕刻を過ぎている時間なのだ。
分かってはいたけど、長いこと話し込んでしまった。あの先生の生徒に対する反応は、いつもは簡素なのに、時として、本当に情感たっぷりに会話を盛り上げてくれる。
僕は、暗くなって誰も見えなくなった廊下を歩きながら、心の中で、少し幸村先生にお礼を言った。
それから、そのまま帰ろうかと思ったけど、気づくと鞄を持っていなかった。どうやら、教室に忘れてしまったらしい。だから僕は、教室まで取りに戻る事にした。
日中、かなり騒がしいだけに夜の学校の静寂さは不気味に感じられる。廊下をコツコツと歩く音が反響して、誰かにつけられているような気分になった。
こんな時には、何か出そうだ。
そう思った瞬間、
チリーン。
と、鈴の音が聞こえた。
僕は、びっくりして音源を見る。
するとそこには、ドアがあった。
このドアは、生徒会室への出入り口だ。音は、どうやらこの中から響いてきたらしい。
チリーン。
また鳴った。
そこで僕は、思い出した。確か、水島君は鈴を持っていた。この鈴の音は、その音じゃないだろうか?
生徒会室に電灯は点いていないけど、もしかしたら、生徒会はまだやっているのかもしれない。
ガタゴトとなんだか、物音もする。
水島君も大変だ。
僕はそんな事を思いつつ、その場所を後にした。
しばらく、歩き続ける。
本当に、人の気配がしない。
誰か、部活で残っていても良さそうなものだけど、誰にも巡り合わなかった。
あと階段を一つ昇りきれば、すぐそこに僕の教室はある。
途中で足を止め、階段の踊り場から、外の景色を見た。
月が、出ていた。満月で、綺麗だった。その満月に照らされて、階段の中頃くらいまでがよく見えた。その先は、微かな明るさがフェードアウトしていって、くらく、暗く、冥かった。
まるで、それは無限に続く闇の深淵のように見え、そこに進まなくてはいけないという現実に、僕は微かな恐怖感を覚えた。
黒に入る。
昼間に見た夢が、再び蘇った。
それを、馬鹿な事だと、打ち消しながら、僕は一歩一歩、階段を上がっていった。
周りが、徐々に暗くなっていく、僕の姿は黒に入滅していく。
階段を昇りきり、廊下へと出た。
真っ暗だった。近くに窓がなく、月明かりが入ってこないからだ。
その時、泣き声が……。
シクシクシク、シクシクシク
それは女の人の声で、その暗闇の中に確かに響いていた。
ギクリ。
衝撃に近い鋭利な恐怖が僕を襲った。
この時間帯に、こんな場所で、普通じゃない。
じっとりと汗が滲む。
理解できないモノに、直面しているのだろうか?まさか、本当に、
そして、確信した。
その泣き声は、僕の教室の中から聞こえてきている。
僕は、恐怖を好奇で折りたたみ、一歩足を教室内に踏み入れた。
目が暗さに慣れていない。が、ぼやけた暗がりの中、誰かが黒板の前にいるのが分かった。
泣いている。
僕は、歩み寄った。
「どうしたんですか?」
そう話し掛ける。
やはり、その人物は女性みたいだった。こんな時間、こんな場所で、どうして彼女は泣いているのだろう。
すると、彼女は僕を避ける様に、黒板の前から移動し、窓の方に行った。
彼女の体がなくなると、黒板が露になり、そこにはなにかが書かれていた。暗がりの中ではあるが、白いチョークで書かれたそれは、かろうじて読む事ができる。
勝手に女になっちまえ!
そこには、確かにそう書かれていた。
どういう意味だろう?訳が分からない。
ギッ
(えっ?)
何かが軋む音がした。違和感のある、その場で、何でそんな音が聞こえてくるのか分からない、謎の音。
その音は、彼女が向かった方角、窓の方から聞こえた。
窓の方を見ても、僕は、そこに彼女の姿を確認できず、困惑してしまった。わずかな刻逡巡した後、僕は教室のその暗がりの中でも、更に暗がり、窓から死角になっている部分。教室の前の角に、何かが揺れているのを発見した。
ゆらゆら ゆらゆら
それが何であるかを僕の脳は認知する事ができず、どうやってそれがそこにぶら下がっているのかが不思議だった。
ゆらゆら ゆらゆら
どうやらそれは、教室の天井に取り付けられたスクリーン、今は丸められたそれに紐を括り付け、ぶら下がっているらしかった。
ゆらゆら ゆらゆら
不気味に無機質に垂れ下がるそれ。心の何処かでは、分かっていた、それが何であるのかを。僕は、それに向かって近づいて行った。
ゆらゆら ゆらゆら
はっきりとした輪郭を、その物体は持ち始める…。
その過程で僕の感覚から、リアリティーは急速に失われ、僕は判然としない世界を歩いた。
少女が、揺れている。
縊れている。首から吊るされている。
死に顔が、目に、焼きついた。
その顔は、どこかで見た事があった。
僕は壊れながら、冷静にその事態を見つめる他の自分を感じた。
(淡々と)
彼女は、生徒会役員、副生徒会長の天野小夜子さんだ。活発で元気な彼女が何故?なんで?分からないよ?
その冷静な自分から入ってくる情報で、更に僕の心は、壊れる。頭が、何か変に。
(暗転して)
死んでいる。目の前で、
うそだ。
幸せな彼女に、死ぬ理由はない。
あそこにぶら下がるのは、僕のはずだ。
先生。幸村先生。こんな場合、どうしたらいいんですか?
視界がグニャリと曲がる。
(加速する)
うそだ。うそだ。うそだ。うそだ。うそだ。
これは、現実じゃない。そう、現実じゃない。
彼女は、ゆらゆら楽しそう。
にっこり笑いながら言う。
「あたしが、羨ましいんでしょ」
彼女は、ゆらゆら楽しそう。
「こうやって、死ねているあたしを、あなたは妬んでいるんでしょ」
彼女は、ゆらゆら楽しそう。
「ねえ、そうなんでしょ。本当は死にたいくせに。あんな先生の言う事何て知らないわよ。あたしと一緒にゆれましょう」
彼女の揺れが大きくなる。
ぶらぶら、ぶんぶん激しく振れる。
ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ
先生。幸村先生。こんな場合、どうしたらいいんですか?
ねぇ、ねぇ、ねぇ
できないの?できないの?できないの?できないの?できないの?できないの?できないの………?
その声は、どこまでも響き、僕はその中で、気を失う事をした。
ねぇ、できないの?
その問いには答えられない。
だって、結局僕は、逃げる道を選択するのだから。