2 さみしがりやのテーゼ-3
私と先生は、車に乗った。
先生は何処へ向かうのか教えてくれなかったけど、どうやらこの方向は、海へと向かう方角だ。
私は先生の車に乗っている間、精神病院と深田君の自宅に、先生の携帯を利用して電話をかけた。一応、確認のためだ。精神病院からは、出雲真紀子が出かけているという情報以外、何の手懸かりもつかめず、自宅には繋がらなかった。
予想はしていたが、やはり何の役にも立たない。
しばらく行くと、潮風が濃くなり、案の定、海が見えてくる。
「何処へ向かっているのですか?」
私は、そう尋ねた。もうこれで、3度目だ。
先生は、今度は答えてくれた。
「僕の、記憶が正しければ、彼女が殺人未遂を犯した場所は、この近くのペンションなんだ。あの日記の内容から判断すると、深田君は自分から望んで、彼女に殺されようとしている節がある。もし、そうなら、深田君は、殺される場所として、彼女の一番希望する場所を望むかもしれない。なら、殺人が決行される場所は、その場所かもしれない。まったくの山勘だよ。これが外れたら、どうしようもない」
先生は、そう言い、急いで車を走らせる。
海沿いの道を猛スピードで行き、私に「もし建物らしき物を見つけたら直ぐに言うんだ」と命令した。
その場所は先生も詳しくは知らず、どうやらこの辺という漠然とした情報らしい。けど建物があるのは、この海沿いでは、一軒らしく、だから何とか見つけられるかもしれない、という事だった。
私は、目を凝らした。
猛スピードで移り行く緑と青の景色、その中に私は一瞬、別の色合いを見つける。
白、否、灰色。
あれは、建物だ。
「先生、建物があります」
私が指差した先のそこには、岬の端に建つ不気味な廃屋があった。
「よしっ!」
先生は、そう言うと、その場所に向かって車を走らせる。
廃屋の前に、無理矢理に車を停めると、私達は車のドアを同時に開け、駆け出した。建物の中に入ると、辺りを見回す。誰も居ない。なら二階か、
私と先生は、また同時に階段を駆け上がった。
もしかしたら、二人はこの場所に居ないかもしれない。駆け昇りつつ、私は心の中でそんな事を考えていた。もし、居なかったらどうしよう?不安が過ぎり、胸が少しだけ苦しくなる。
願いを込め、徐々に見えてくる二階の光景。すると、窓から射し込む明かりを背景に、凸凹の影かたまりが見えた。
あれはっ!
二階に上がると、髪の長い、白い服を着た女性と、深田君が目を丸くして、こちらを見ていた。予想外の闖入者を凝視してる。
深田君は、唇を震わせ、
「どう……、やって」
と呟くように言葉を漏らした。
私は、息をはずませながら、
「はぁ、はぁ、深田君。あなたの日記を見たわ、あれは、あなたにとって遺書代わりだったんでしょ。それで、あなたが死ぬ気だって分ったの、それで急いでここまで来たのよ。先生と一緒に」
と語った。
「でも、どうして、ここが」
深田君は、尚も困惑している。すると、先生が言う。
「そこにいる出雲真紀子さんは、有名人なんだ。君が、彼女とよく会っているという話を聞いて、僕は、彼女の昔の記録を調べた。この場所は、昔はペンションで、その出雲真紀子が殺人未遂を犯した現場でもある。彼女は、恋人との旅行中、ここでその恋人を刺した。もしかしたら、その思い出の場所で、また自分の恋人を殺すつもりなのかと思ってね」
すると、声を震わせて、深田君は言った。やけっぱち、興奮過剰。そんな感じで、少し微笑みを浮かべている。
「それで、また、お節介をやきに来たんだ。でも、一つ間違ってるよ。久留間さん、あれは遺書なんかじゃない。彼女に殺されるのは、飽くまで僕の意思だって事を伝えるために残したんだ。自分の家じゃ、多分、誰も気が付かないから。彼女の罪を少しでも軽くするためだよ。これは、僕が言い始めた事だからね。それに、先生、この場所を希望したのも実は、僕なんだ。彼女が前に愛した男と同じ場所で殺して欲しかったんだ」
深田君がそう語り終えると、堪えきれずに、私は自然に叫んでいた。
「何で、そんなに簡単に、死のうとするのよ!もったいないと思わないの?」
先生は、その光景を冷静に見詰めている。
「簡単になんかじゃない!」
深田君は、激昂した。
そして、静かに泣き崩れる様に、語り出す。
「簡単になんかじゃないんだ。生きているのが、つらいのに、どうしようもないのに、そこに何か意味があるの?胸が痛いんだよ、つらいんだ、苦しいんだ。誰も助けてくれなかったんだ。逃げたかったんだ。そして、やっと逃げ場所を見つけたんだ」
深田君は、哀しそうな表情に、たくさんの涙を溜め込んで、出雲真紀子さんを見つめた。そして、
「過去を憎み、今を恐れ、未来が不安で生きています。その苦しみから逃げるために、頭に憎悪とマゾヒズムのドラックを打ち込んで、何とか今をやっている。毎日が、そんな感じだった、バカバカしくて、もうダメで。そして、そんな馬鹿でどうしようもない僕が、何故か、あなたと出会えることができた」
それから、深田君は、にっこりと哀しさをそこに残しつつ、微笑んだ。
「あなたは、僕を受け入れてくれた。拒否しなかった。優しかった。僕は、救われたんだ。初めて、生きていて良かったと思った。もう、あなたの存在なしでは、僕は生きていけない、そう悟ったんだ。だから……、だから、お願い」
そう言って、深田君は出雲さんの傍に寄り
「僕を殺してください」
と呟いた。
出雲さんは、
出雲さんも、酷く哀しそうな顔をして
「世の中に、嫌われた二人だから…」
まるで、深田君と共鳴しているかのように、涙をながし、そう言って、手にした刃を振り上げた。
そして、
血が飛ぶ。
深田君は、その場にドサリと倒れた。
「いやぁぁぁぁぁっ」
私は、絶叫し、出雲さんはもう一度声を上げた。
「他の誰にも分らないわよ!この子の人生も、私のこの歪んだ人生も!」
そして、もう一度、刃を上げる。
私は、何もできず、そこに立ち竦み
誰か、助けて!
心の中で、そう叫んだ。
窓からは真っ白い光。私の網膜が、その狂気に満ちた情景をシルエットとして、はっきりと捕らえる。私の中で、それは、酷くゆっくりとした時間として流れ、次の瞬間。
突然、背後から
「やめるんだ」
と、淡とした声が、一言、そう聞こえてきた。
その言葉には妙な迫力があり、私は意表をつかれたような感覚をおぼえる。
その、当たり前と言えば、当たり前過ぎる言葉は、この事場ではなぜか不釣合いに響き、その事により、この場の空気がちょっとだけ変わったように思えた。
出雲真紀子は、刃を振り上げたまま固まり、その悲壮な顔を、根津先生に向けていた。言葉を発したのは、先生だったんだ。
そして、手にした刃物を先生に向けた。
「他人に、何がわかるの?」
そう言う。
先生は相変わらず落ち着いていて、淡々とした口調で、語った。
「分ると言えば、分ります。あなたは、本当はその子を殺したくなんかないんだ。無理をしてる。と、いうよりはそう思い込んでるだけでしょう。本末転倒が起きてるんです」
先生は、毅然としていた。
その態度に、出雲真紀子は少しだけ、怯えている様に見えた。
「何を言ってるの、本末転倒ですって?何の事だか分りません」
出雲真紀子は、そう言いながらも戸惑っていた。
「僕の持っている携帯電話で、救急車を呼びました。予め、あなた達が興奮している間にね。深田君は、助かりますよ」
先生は、優しくそう語る。
すると、その言葉に出雲真紀子は、
「もう一度、私が刺せば、助からないわ」
と返した。しかし、もうその目に攻撃性のそれはなかった。弱弱しく震えている。
「あなたは、自分に嘘をついている。あなたは、今、本当に深田君の事を攻撃したいと思ってはいないのです。もちろん、あなたの病気が治っているかどうかは分らない。ただ、あなたは自分が、他人とは違う哀しみを抱えている事を証明したがっている。そして、その事を証明するために、深田君を殺そうとしているんだ。本当に、深田君を殺したい訳じゃない」
先生は、淡々と確信に満ちた表情で、そう語った。
そして、出雲さんは、その先生の言葉を聞き、目を丸くしていた。
「そんな、そんな人の事を分ったような口をきいて…」
出雲さんの、その言葉が言い終わらない内に、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。出雲さんの言葉を遮る。
そして、そのサイレンの音を聞くと、
「早いですね、どうやらここから病院は近いみたいだ。良かった。これなら、確実に深田君は助かりますよ」
と先生はそう言って、にっこりと笑った。それから、出雲さんをじっと見つめる。
しばらく、空間は凝固し、その廃屋の暗がりでは全てが止まっている様に思えた。出雲さんの表情。そして、やがて、その緊張は崩れ…ゆっくりと、
ふぅ
息が漏れる。
出雲さんは、
出雲さんも、にっこりと笑って、そして、
「本当、私はこの子の事を殺したくなんかなかったみたい。だって、その言葉を聞いて、とても安心してしまった」
と語った。
そうして、それから出雲さんは、ペタリとその場に座り込んだ。深田君を見つめるその表情は、優しかった。
深田君の言っていた通りだ、優しい笑顔だった。
「ごめんなさいね」
それから、出雲さんはそう言って泣いた。
「私は間違っていた」
サイレンの音が止む、救急車が停まり、ドタドタとあわただしい足音が近づいて来る。この廃屋のその空間は破壊された。
私と、出雲さんは深田君に付き添い、病院まで行った。出雲さんは、病院に着くと、「自首します。後は任しましたよ」と語った。
私が、戸惑った顔をしていると、出雲さんは、
「今度は、病気が原因じゃない。本当の罪になりますね」
と言って、疲れた笑いを見せた。
「大丈夫です。罪は軽いですよ。深田君の方から希望したんですから。日記が証拠です。また、深田君に会ってやってくださいね。彼、喜びます」
私は、出雲さんに向かってそう言った。私は、この人の事が、結構、好きだ。元気になってくれればいい。
「そう、ですか。そうですね。ああ、そうだ、彼に伝えてください。私は、あなたの事が、本当に好きだって。愛だとか、恋だとか、そんなのじゃないかもしれないけど、好きなんだって。同情じゃありませんって」
私は、まだ興奮していて、それに対して正確に何かを感じる事はできなかったけど、やっぱり、少し嬉しかった。
お医者さんの話だと、深田君の命に別状はないそうで、やはり出雲さんは、無意識に手加減していた事が分った。
根津先生がいつの間にか、来ていて、私の傍に居てくれた。
色んな事があって、私は酷く疲れていた。
何か、もやもやとした感覚の中、僕はいた。
苦痛はない、ただ、よく表現できない違和感が頭の中にこびり着いている。
不快だ。
何があったのかよく思い出せない。濁った意識、目がぼやけて、空間をよく把握できない。ここは、どこだろう。
白い壁。白い布団。白い天井。
どこかの、部屋に居て、僕はそこのベットに一人で寝転がっている。
隣りに、優しい人はいない。
ああ、なんだ。
突然、僕は思い出した。
そうだ、僕は自分からお願いして、あの人に刺されたんだ。
なんだ、つまらない。まだ生きてるよ。
その時、ドアが開いた。
久留間さんだ。
目が充血している。
まさか、僕の為に、泣いてくれたのかな。
久留間さんは、ベットの横に来ると、
「心配かけて………」
と一言いって、涙を零した。
一滴、それが零れると、抑えが効かなくなったのか、久留間さんは、だらだらと涙の流出を持続させた。
ああ、
何でか、僕も泣いた。
生きてるね。
生きてるよ。
そう、
世界で一番優しい人と、ベットで一緒に眠っていたい。
言葉なんてなくたって、きっと、きっと、その人の優しさが僕に、たくさんたくさん、伝わってくるから。
……僕は、溜め息をついて、また、明日を生きる準備をした。
「結局、深田君を傷つけたいっていう欲求よりも、出雲さんの深田君に対する優しさは強かったって事かしらね」
昼休み、久留間さんがこの教室に来る事は、もうそんなに珍しい事ではなくなっていた。その日、久留間さんは、そう言って僕らに話し掛けてきた。
どうやら、僕のあまり知らない、先日の例の事件の話らしい。
吉田は、少し薄目にして、外を見ると、
「うーん、でもね、久留間さん。もしかしたら、今回のこの事件は、そんなに感動的な話でもないのかもしれないよ」
と言った。
久留間さんは、きょとんとして、
「どういう事よ?」
と吉田に訊く。
吉田は、
「僕が、君にそんなに心配する必要はないかもしれないって言ったのを覚えてる?」
と尋ね、
「覚えてるけど・・」
という、久留間さんの返答を聞くと、饒舌に喋り出した。
「あの時、僕は深田君が控えめな大人しい性格かって事を確かめたろ。だから、大丈夫だと思ったんだ。激しい攻撃性が発揮されるには、相手が抵抗する事が一つの条件だからね。無抵抗な相手に闘争心は沸かないだろ。深田君は、抵抗しないどころか、攻撃される事を望んだんだ。それじゃあ、出雲さんの深田君を殺したいという欲動は働かないよ。実際に、こんな例もある。あるレイプ殺人事件で、唯一、その殺人犯に殺されなかった被害者の女性は、犯人に対して抵抗をほとんどしなかった。犯人は、被害者が抵抗しないのを見て、殺す気が失せたんだよ」
しかし、久留間さんはその吉田の説明を聞いても表情を変えない。あまり、ショックは受けていないみたいだった。
「それに……」
吉田は更に説明を付け足した。
「出雲さんは、女だ。実はね、今までの世の中の歴史を紐解くと、大量殺人を行っているのは大抵、男なんだよ。しかも殺人自体を目的とした性的快楽を求めて、という犯行理由がほとんどだ。出雲さんは、性と攻撃性の絡みが異常とされた精神病患者ではあるけど、その犯行は殺人未遂と随分、軽い。無差別殺人でもないしね。僕は、だから深田君は安全だと思ったんだ。攻撃性を引き出すホルモンの分泌は、男性の脳の方が圧倒的に多いそうだから」
吉田が喋り終えると、久留間さんは、ふーん、と言い。そして、
「吉田君て、捻くれてるわね」
と、僕にしてみれば当たり前の事を言った。
珍しく、吉田が驚く。
「何で?」
久留間さんは、笑いながら
「だって、吉田君が説明した事って、結局、出雲さんが優しかったから、深田君を殺せなかったって事と同じことを言ってるじゃない」
と説明した。
それを聞いた吉田は、なんだか変な顔をしている。
「そう…、かな?」
頭を掻きながら、吉田は言う。
「そうよ」
久留間さんは、また笑った。
「へぇ、吉田君はそんな事を言っていたんですか?吉田君らしいですね」
同、昼休み。
私は吉田君達を訪ねた後、生物実験室に来ていた。そしてそこで、吉田君の語った内容を根津先生に聞かせた。
「ええ。それで私、先生があの時に言っていた言葉を思い出して……」
「あの時に言っていた言葉?」
「出雲さんに言っていたじゃないですか。あなたは、本当は深田君を殺したくないんだって」
「ああ、あれですか。あれは、半分、口からでまかせですよ」
「ええっ!?」
私は、驚いて声を上げた。
「吉田君と、同じ事を考えていた訳じゃ、なかったんですか?」
「あれを言ったのは、出雲さんに深田君を殺す事を止めさせるためですよ。確信に満ちた顔で、断言すれば、誰だってその言葉を多少は信じるものですから。あんな極限状態なら特にそう。ただ、咄嗟に思いついたにしては、うまく説明できていましたけどね。ああいった心理も、もちろん出雲さんの中にあったのでしょう」
先生はにっこり笑ってそう言った。
「結果が良くなるなら、何でも積極的にやるべきでしょう。もっとも、僕にはあの時、とてもじゃないが出雲さんが深田君を殺したがっている様には見えませんでしたけどね。だから、彼女に深田君を殺さない理由を作ってやる。それだけで大丈夫だと思いました」
私は、先生のその言葉を聞いて、呆れてしまった。
あの状況下で、何の理論的確証もなく、先生は平気であんな事を言ったことになるからだ。凄い神経。
私は、視線を窓の外に移して、少し、深田君の事を考えた。
彼は、一体、何から逃げたかったんだろう?