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2 さみしがりやのテーゼ-1

 (逃避)



 僕は嫌われ者でいて

 この世界に住みながら、唯一、別世界に住んでいる。洗脳されないエイリアン。

 この病気の原因は、僕の人格形成、深く根付いた究極のアンチテーゼに求められ、どうやら大衆教育に良くないと、その内外より、あつく評価を受けている。

 本当に、面白い事象達だ。

 僕は嫌われモノでいて

 空の色も僕を厭がるから、昼間の空気を避けて通り、安心できる夜の道を、トボトボとゆっくり歩いてる。

 暗闇の価値を認める時、未知の恐怖は好奇と混ざり、独特の空想世界を出現させる。

 本当に面白い事象達だ。

 ボクは嫌われモノでいて

 どうやら、それは知らない事実、僕という大いなる愚か者が、愚者を大いに名乗る時、みんなはとても安心する。

 それが唯一の集団に混ざる手段なら、なんて馬鹿馬鹿しい現実だろう。

 なんてこった、人生は、こんなにも無意味なモノだったのか。

 その病気は、アンチテーゼより発生し、どうやら、大衆教育に良くないらしい。この病に犯されると、一生しあわせになれないと、中島敦も述べている。

 それでも、僕は諦めない。

 手塚治虫に誓うんだ。サイコ・ブラックジャックの到来を予感しろ!

 真実のロックを口ずさむんだ。

 きっと、明日はいい日だって…。

 ボクはキラワレモノで、イテ

 

 僕は嫌われ者でいて、

 

 僕は嫌われ者

 

 僕は………


 ざわめき、人ごみ、孤独な自分。

 あの人達は笑ってた。

 幸せを噛締めて活きてるような顔してる。

 好きな音楽はロックだって言ってた。本当のロックのテーマも知らないくせに、

 ロックの真実は、全ての主義主張に対する反逆のテーゼ。文化も育ちも国境も、宗教でさえも乗り越えて、みんながただ楽しく暮らせればいいと、狂おしいほどに純粋な理想を曲にのせ、精一杯に歌ってる(謳ってる)んだ。

 だから、激しい曲が好きだとか、悪ぶってる君達には本当のロックは感じられない。だって、君達は反社会的な行動をしてるつもりで、反社会的な社会に従属してる。

 誰かが起こす革命を、期待してもいなければ、今の自分や社会に疑問すら感じていないのだろう?

 本当のロックは、そう究極のアンチテーゼなんだ。だから、どんな規則もモラルも破戒する。絶対的な価値の存在、普遍的なテーゼに疑問を投げかけ、それがどんな社会だろうと、反発するために反発する。

 それは、孤独な僕にはよく似合ってる。想像できるかい?この世の中で、唯一僕だけ、独りなんだ。現行社会、それが創り出す常識から外れ、他人と違う思考をしてる。みんなが当たり前に思う事を、僕は理解できないで、僕が当たり前だと出した結論を、他人は愚かだと、批判する。

 そこに理論的帰結などなく、判定基準は世間の常識。自分を取り囲むその世界と、自分自身を護ってる。防衛本能のカテゴリーだ。

 僕は、誰にも理解されない。僕は、誰にも理解できない。だから、僕は口ずさむんだ。君達には理解できない、他の誰にも理解できない。僕の僕だけの哀しいリンダを……。

 そう……、

 世界で一番優しい人と、ベットで一緒に眠りたい。

 言葉なんてなくたって、きっと、きっと、その人の優しさが、僕にたくさん伝わってくるから……。

 世界で一番優しい人と、ベットで一緒に寝ていたい。

 ああ…、


 あれは、いつ頃だったかな?

 多分、そんなに昔じゃない。

 僕は何かの気まぐれで、暖かい、よく晴れた日の午後を歩いてた。

 その道は誰もいなくて、道の片側には大きな白い高い壁が流れてた。

 僕は一人の気楽さと、相変わらずに存在してる慢性的な孤独を感じ、久しぶりの心の平安を堪能してた。

 僕がそれほどまでに、清々しくその道を散歩できていたのは、やっぱりその道に、他の誰かがいなかったからで、僕はその時、必要以上に無防備になっていた。

 精神的に安心しきった状態で、少しも警戒していなかったんだ。

 だから、その少しの歌声にも、僕は驚いて反応してしまった。

 それは、綺麗な女の人の声だった。

 辺りを見まわしても誰もいない。

 僕は本気で妖怪か何かだと思ったよ。だって、あまりに美しい声だったから。

 でも、その人は壁の上にいたんだ。

 上を見上げると、その声の主はいて、座りながら遠くを見つめ、周りを気にしないで歌を口ずさんでた。

 真っ白いワンピースの服を着て、

 女の人が

 白く高い壁の上

 居たんだ。

 空を背景に、涼しげな微笑を浮かべ、風を受け、そして、本当に自然に、自然に、遠くを見つめ、歌ってた。

 僕はしばらく見とれてしまって、

 その時だけは、空の色が僕を厭がってないと感じた。

 その人は、結局、僕に気が付かなかったけど、僕の心はその一時、すごく優しい心に支配されたんだ。

 それは、散歩中の何気ない出来事なのだけど、ただそれだけの事だったのだけど。

 その印象は、漠然とした衝撃として、僕の心に染み入るように、残留した。

 この世に美しいものは、存在していたんだ。

 その時、間違いなくそう確信できた。

 僕のこのくだらない人生の中での数少ない、価値ある記憶の一つだ……。


 ある昼休みでの事。

 僕と吉田は、あらかた弁当を食べ終え、残りの暇な時間を退屈に過ごしてた。

 何もする事がない。いつもと同じ、正午から午後への名前のない時間。アンニュイとでも言うのだろうか。こんな気分も悪くない。

 ところが、そんな刺激のない平和な休み時間に、突然、一つのイベントが発生した。

 「今日は」

 ボーっとしてた僕と吉田は、突然のその声にびっくりして、顔を向けた。

 すると、そこには、先日の足音の怪の際に情報を提供してくれた、あの女子ハンドボール部の少女、久留間直美さんがいた。

 「どうしたの?」

 まず、僕が訊いた。

 「ちょっと、お礼をしようと思って」

 「お礼?」

 今度は吉田が声を発した。

 「由架子の事よ。森由架子。美術部員のね。どうやって足音のお化けを出なくしたのかは分らないけど、由架子あれから元気になったみたいだから、あなた達の事は知らないって言ってたけど、何かやったんでしょ? 偶然にしては、でき過ぎてるもの」

 「別に君からお礼を言われる理由はないと思うけど」

 吉田は無表情でそう返す。

 何て驚いた発言をする奴だ。

 「素直じゃないわねー、喜べばいいじゃない。わざわざ違うクラスにまで出向いて感謝の言葉を述べてるんだから」

 まだ彼女はお礼の言葉を言ってはいない。

 そのまま、久留間さんは僕らの近くの席に座ると、更に喋り続けた。

 「それに理由ならあるわよ。友達だもの。しかも、昔っからの幼馴染」

 「普通、友達って、そんなに深く関わりを持つもの?」

 僕は疑問に思って、そう尋ねた。僕の今までの常識にはない事だ。

 「私達はね、というより私は、昔っからそうなの。そういう風に育っちゃったのよ」

 久留間さんは、さらっとそう返した。

 すると、吉田は少し瞳を輝かせて、

 「どういう事?」

 そう尋ねた。

 どうやら、こいつの関心のある話題になったようだ。

 「私はマンションに住んでるのよ。家庭は核家族で、一人っ子だけど、寂しさを感じた事はなかったわ。何故だと思う?」

 吉田が問題を出されてる。よく考えて見れば珍しいシチュエーションだ。吉田は何と答えるのだろう。

 「分らないよ」

 考える気があるのだろうか?素っ気なく無表情に即答した。ふざけてると言うよりは、早く続きを知りたがってるみたいだ。

 「周りに同年代の子供がいっぱいだったからよ。マンションだから、子供会が盛んで。それがなくても親同士の仲が良かったから、頻繁に別の家に行って、夕飯時まで遊んでたし。今にして思えば、子供の世話を協力してやってたのかもね。それで、その頃から私は他の子の面倒をみる役割をしてたのよ。歳が上の方だったから、その時にその性質が染み付いちゃって、今でも抜けないの」

 「へぇ、じゃあ森さんも同じマンションに住んでたんだ?」

 これを質問したのは僕だ。

 「えっ、あの娘?違うわよ、あの娘は一軒家、一緒に遊んではいたけどね」

 面倒見のいい元気なお姉ちゃん。

 言われて見れば、彼女にぴったりの印象かもしれない。

 「とにかく、そんな訳で、そういう元気のない子を見ると心配になっちゃうのよ。ありがとうね、由架子を助けてもらって」

 やっと久留間さんはお礼を言った。これだけの事を言うために、随分、遠回りをしたような気がする。

 本来の目的を果たすと、久留間さんは話す事がなくなったのか、さっさと教室から出て行ってしまった。

 「……何だったんだろうね、あれは?」

 元気な人が急にいなくなると、何だか突然、いつもより静かになったような気になってしまう。

 それで、僕はこの偏った変な空気を誤魔化すように、吉田にそう言った。

 「典型的な、長子性格かな」

 すると、その言葉は吉田には違うニュアンスで届いたらしい。また、僕には理解できない言葉を吐いた。

 「なんだ、そりゃ?」

 「家族の中に兄弟姉妹がいた場合、その年上の方に現われる性格的特徴の事だよ。広い範囲をサンプリングした場合に年上、年下での性格に傾向の違いが見られるそうなんだ」

 吉田は無表情で淡々と、そう説明した。

 どうやら、久留間さんの事らしい。

 吉田は続けて、

 「彼女の場合、一人っ子だったからこそ、その性格がより顕著になったのかもね。自分の家庭に戻れば、寂しく一人な訳だから」

 と言った。

 僕は、それに反論する。

 「でも、彼女は寂しくなかったって強調してたぜ」

 「だからこそ、そう思うんじゃないか。何かにコンプレックスを持っている人は、その反対の事を強く主張するもんなんだよ。もちろん、本人に自覚があるかどうかはわからないけどね」

 その吉田の論調に、僕は何だか怒りを覚えた。

 「お前、他人の事をよくそれだけ断定して言えるな。何だか全てを知ってるみたいだぞ。そんな事、どうだか分らないじゃないか」

 すると、吉田はそれに対して、こう語った。

 「うん、確かにそうだね、君の言う通りだ。だから、これは飽くまで推論だよ、推論。確率的にその可能性が高そうだと、それだけの話だよ。ただ、久留間さんは、長子性格がかなり特徴的に現われてる。年下が寂しさを癒す為に執る行動は、自己アピールで、年上の場合はその社会にとって都合の良い人間になる事。つまり、この場合は特に、他の子の面倒を見る事なんだ。そして、それが自分の存在価値を確立する方法だと学習してしまう。彼女が寂しい思いをしていた、と考えればあの性格の説明がつくんだけどね」

 「分った分った、お前の言いたい事はよく分った。でもな、確かにお前の言ってる事が正しいにしたってだよ、そんな事をいちいち考えてどうするんだよ。なにか意味があるのか?オレには悪趣味に見えるぜ」

 「うん、それも君の言う通りだ。悪趣味だね。でも、僕はそういう人間なんだよ。しょうがないじゃないか」

 この吉田の返答に僕は呆れた。無表情で、よくそんな事がさらっと言えたもんだ。

 「それも、お前流に言うなら、何か理由があるのか?自分の事だって、何か考えてるんだろ」

 だから、僕はそう皮肉を言ってやった。

 すると、吉田はにやっと笑って、

 「うん、そうだよ。その結論を聞きたいかい?」

 と返してきた。

 少しも堪えてない、呆れた厚顔男だ。どうやら、僕にはこいつのマイペースを崩す事はできないらしい。

 僕は怒りも失せて、笑ってしまった。

 変な奴だ。本当に……


 教室内のざわめきが、心に痛い。

 孤独には馴れっこだけど、だから平気だなんて強がりは言わないよ。

 だって僕は弱いもの、つらい事からはやっぱり逃げたい。だけど、あそこに飛び込んで行く方が、もっとつらいと学習してしまっていて。それは、一生治らない心の傷かも。

 こうやって一人で小さくなっていれば、どうやらこれよりは悪くはならないらしい。

 いるかいないか分らない空気に、誰も憎悪は感じない。

 チャイムが鳴り、放課後を告げる。

 認識されない僕は、価値が足りない存在人格。シュレーディンガーの人間。消えてしまいそうになる。

 誰か僕に価値を与えて……


 僕がこの近くに引っ越してきたのは、つい最近の事。

 安いマンションの物件があったからだそうだ。親子の会話があまりないから、僕は引越し直前まで、その事を知らなかった。

 僕の家庭は父子家庭。その上、父さんはいつも仕事で家に居ない。母親は僕が小さい頃に死んでしまった。

 家でも一人だ。

 「おはよー!」

 (!?)

 やけに明るい声で、このところ毎朝、話し掛けられる。僕の人生に不釣合いなその声の主は、同じマンションに住む女の子。どうやら、僕と高校も同じで一年上の先輩らしい。

 やたら気を使ってくれて、嬉しいけど。こういう交流の仕方は、僕の人生にはあまりない。戸惑ってしまうというのが、本音だ。

 所詮、僕とは違う部類の人間なんだ。

雰囲気そのものが、やたら元気で、圧倒されてしまう。迷惑といえば、言い過ぎだけど、僕を無理に明るい世界に引き込もうとしないでくれ。がんばれと言われるのが疎ましい。


………。

 誰にも気に留められずに、教室を出て、トボトボと独りで帰路を行く。この高校に入学して、もう2ヶ月が経った。

 もうクラスでも仲間友達に分かれ始め、それぞれがそれぞれの世界を創ってる。

 まだ、独りなのは僕ぐらいのものだろう。

 独りで、駅を目指し電車に乗った。

 ガタガタと揺られながら、俯いて僕の世界を狭くする。誰も入り込まないように…。しばらくの間そうしていた。

 ふと顔を上げると、僕の真正面の席に誰も座っていないのに気が付いた。左右に目をやると、両隣にも誰もいない。

 席が空いているのに、座らずに立っている人がポツリ、ポツリ。その内の一人は、僕のすぐ近くの吊り革を握ってた。

 どうして、座らないのだろう?

 そんな事を考えて、チラッと横目でその人を見ると、その人は何だか酷く変なモノを見るような視線で僕を見た。

 僕の周り、僕の世界には、やっぱり誰も近づきたくないらしい。彼らは、本能で僕が劣等な人間である事を見抜いているんだ。

 "そんな事は、あるはずないって分ってる"

 僕は、この世界のありとあらゆる人間から嫌われている。だから、僕の周りには誰も近づかない。

 "そんな事は、あるはずないって分ってる"

 通りすぎてくおばさんが、軽蔑して、汚い物でも見るかのような目つきで僕を見た。

 やっぱり、僕の近くには座らない。

 僕の世界には近づかない。

 みんなが、僕を嫌っているからだ。

"そんな事は、ないって分ってる!"

分ってるのに……、僕の妄想は膨らんでいく……。

 やばい、泣いちゃいそうだよ

 独りだ。

 それを望んでいたはずなのに、

 つらいよ。つらいんだ。

 誰も、僕を気にしちゃいない。そんな事は分ってる。だから、軽蔑されてもいない。拒絶されてもいない。楽なはずだろ?楽なはずなんだ!

 でも、それは、独りって事だ。孤独って事だ。僕の集団に属していたいという、欲求は満たされない。

 胸が痛くなる。拳を握り締めた。

 その時、

 白?

 それは記憶の中にある漠然とした衝撃。

 白い何かが、僕の視界を横切った。そして、それは、僕の、僕の隣に、

 ふわりと座った。

 白い、真っ白いワンピースの洋服。

 それを着てるのは、髪の長い女の人。

 あの美しい声の人。

 衆人に囲まれている中で、僕が、この僕が、思わず自失となり、ポカーンと口を空け、その女性に、見蕩れてしまった。

 ああ、美しいモノは存在する。

 その人は、優しく僕の世界に侵入して、そして、そうだ!僕をそっと支配した…。

 僕が馬鹿みたいにじっと、見蕩れていたのに、その人は僕に気が付くと、優しく微笑んだんだ。

 まるでスローモーションみたいに、その顔の筋肉がゆっくりと笑顔に変わっていくのを憶えてる。普段の僕なら、その表情の変化に恐怖しただろう、怒りと侮蔑の顔に変化するのを想像して、震え上がっていただろう。

 なのに、

 その時は、まったく恐怖を感じなかった。

 ああ、美しいモノは存在する。

 僕は、瞬間的に徹底して救われた。

 初めて、生きていて良かったと思った。

 それは、とても良く晴れた日で、電車に揺られ、色々な感情が、僕の頭の中をぐるぐると回った。僕は何か別の理由で泣きそうになり、実際に涙を一粒、零した。

 そして、その涙を見て、その人は何を思ったのだろう?僕に優しく語り掛けてきたんだ。

 「どうしたの……?」

 何を言ってきたのかは、あまりよくは覚えていない。

 僕は酷い興奮状態にいたから、

 ただ、僕らはしばらく会話した後、再会の約束をしたんだ。

 それは、まるで夢の様な出来事だった。


 生物実験室。

 風がよく通る気持ちの良い場所で、陽の光も適度に入り込んでくる。

 藻と苔とタニシ以外、生息していない存在意義を問われそうな水槽と、実験用のアフリカツメガエルが大量に入った水槽とが窓の脇に並んでいる。

 今度はアメリカザリガニを搬入する予定だと、ここの管理者は言っていた。

 適度に整理されたこの教室は、清潔感があり、夏にこの場所に来るといい気分になれる。その事は、まだ他の皆にはあまり知られていない事実で、私はよく一人きりで、ここの雰囲気を味わいにやって来る。

 秘密の場所だ。

 「本当に、久留間さんはここが好きだね」

 この場所によく来るようになって、すっかりここの管理者、生物教師の根津先生と仲が良くなってしまった。

 その日の休み時間も、私はみんなと昼食を取り終えた後に、涼むためにこの生物実験室を訪れていた。

 「だって、壁や床がひんやりしていて気持ち良いんですもの」

 洞窟の様な清涼感。湿気もほどほどに、この場所にはクーラーでは味わえない自然の涼しさがあった。

 壁や床は、少しだけジメッと水気を帯びている。空気が、冷やされ露滴がついているんだ。

 「それに、先生にも会えるし」

 私がふざけて更にそんな風に言うと、根津先生は少し困ったふうな笑いを浮かべた。

 この根津先生の印象は、この生物実験室と同じで、清涼感がある。髪型はロングを後ろで束ねていて、普通ならむさ苦しくなってしまいそうなのだが、この先生がやると何故だかとても自然で、似合っていた。

 外見はとても若く見え、本当は、30代前半らしいのだが、どう見てもまだ24、5歳くらいにしか見えない。

 あっさりとした人柄には好印象を受けるが、実はこの先生、生徒達にとっては迷惑な教師だ。

 根津先生は、この学校の綱紀粛正の最先鋒で、生徒指導部のリーダー的存在。厳しい校則で生徒を縛ってる張本人なのだ。

 普段、授業中などから受ける印象とは、180度違う印象の別の顔を持っている変わった先生なのだ。

 「生徒の中には、僕を嫌ってる人も多いようですが」

 困った笑いを浮かべたまま、根津先生はそんな事を言った。

 私には、どちらが根津先生の本当の姿なのかは分からないが、少なくとも普段のこの先生は好きだ。

 厳しい生徒指導も、実は無理して、何かの理由があって、やっているのではないだろうか?

 私にはそう思えてならなかった。

 そんな事を私は、ある切っ掛けで知り合った二人の男子生徒に、一度だけ話してみたことがある。

 彼らは、特に吉田とかいう方の男子は、他の人達とは何かが違う気がする。だから、私は何か面白い答えを、その吉田君から期待していた。

 ところが、

 「ふーん、そうなんだ。そうかもね。あの先生だって人間なんだから、色んな面があるんだろうね」

 なんて、関心なさそうに、吉田君はそんな俗的な事を言って、私をがっかりさせたのだった。

 でも、吉田君はその時、更にこんな事を言って私を困惑させた。

 「久留間さん、あの先生と仲が良いんだ。ふーん、なら気を付けなよ、あの先生も不思議な人だからさ」

 忠告なのか、なんなのか分らない謎の言葉。吉田君は、私に何が言いたかったのだろう?

 「久留間さんは、実験は好きですか?」

 相変わらず涼しい顔をして、根津先生は突然、そんな事を訊いてきた。

 「ものによります。好きな実験は好きですよ」

 「解剖は?」

 「どちらかというと、あまり、好きじゃない部類ですかね」

 「そうですか、そうでしょうね。普通は女の子は、そう答えます。僕はね、実験が大好きなんですよ。そりゃあ、久留間さんと同じ様にものにもよりますけど、何て言うか、自分の考えた疑問、推論がある。それを確かめるための方法を考えて、それを実行する。それが、一種の冒険の様に思えて、わくわくしてしまうんですよ」

 「先生って、そんな子供みたいな事も言うんですね。でも、それなら何かの研究者になれば良かったんじゃないですか?教師じゃなくて」

 私がそう尋ねると、先生は微妙に表情を曇らせ、こう言った。

 「少し、家庭の事情で、そういう訳にもいかなかったんですよ。それに…」

 家庭の事情?親が安定した職に就く事を願ったんだろうか。でも、研究者って安定していないのかな?

 私がそんな事を考えていると、先生は

 「教師の立場でだって実験はできます」

 と続きを言った。

 (はい?)

 私は少し驚き、ゾクリとした恐怖を感じた。一体、何の実験を………

 すると、先生は私の驚いた顔を見て、微笑みを浮かべる、そして

 「生徒の反応を見ながら、授業のやり方を変えたりとか、工夫したりとか。楽しめますよ」

 と、言った。

 どうやら私は、からかわれていた様だ。

 でも、怒りを覚えるよりは、何だか安心してしまう。

 良かった。先生が、怖い人間じゃなくって…。

 もうそろそろ、昼休みも終わりだ。

 私は席を立つと、「それじゃあ、先生。授業が始まるから、帰りますね」と言って、先生に別れを告げた。

 先生も、「うん、帰ってくれなきゃ困りますよ。こっちも授業がある」と、にっこり笑って返してきた。

 その日はそれっきり、先生とは会わなかった。

 放課後。

 私が部活に行こうと廊下を歩いていると、深田君が向こうからやって来るのが見えた。

 深田君は、最近、私と同じマンションに引っ越してきた一つ年下の男の子で、いつもなんだか、元気なさそうにしている大人しい子だ。

 少し心配していたのだけど、ここ最近は結構、元気がいいみたいだ。朝、私が挨拶をする時にも笑顔を見せてくれる様になったし、以前は、全くした事がなかった会話も、最近では時々するようになっていた。

 だから、私は何気ない気持ちで、彼に話し掛けた。

 「深田君、もう帰るの?」

 ところが、深田君はそんな私を無視してそのまま通りすぎて行ってしまったのだ。否、無視したという感じではなかった。あれは、私が目に入っていなかったという感じ。私の存在は、多分、あの子の意識の中に浮かんではいなかったのではないだろうか。

 そう、すれ違う時、深田君は何かに憑かれた様な、そんな目付きをしていて、まっすぐに目の前を凝視していたのだ。

 私は突然、不安になった。

 正体不明の焦燥感を覚える。危機感を感じた。振り返り、深田君の後姿を見つめた。

 ただ、何もできない。

 親身になって、話を聞くほど近しい関係ではないし、何より、ただ話し掛けて無視されたというだけの話なのだ。誰かに相談できる内容ではない。しかし、

 漠然とした不安が―――残った。

 その日の夜の事だ。私は部活が長引き、帰宅するのが随分と遅くなってしまっていた。もう夕刻を過ぎ、辺りは暗くなっていたから、人通りも少ない。

 私は少し周りに警戒して、マンションの近くのその道をスタスタと早足で歩いていた。

 すると、私の前を誰かが歩いている。

 その人は、ひどくゆっくりと歩いていたので、早足で歩いている私はすぐに追いついてしまった。

 夜の道という事もあり、私は警戒心から、チラッと横目でその人の事を見た。すると、それは、なんと深田君だったのだ。

 しかも、まだ学生服を着ている。

 確か、深田君はどこの部活にも属していない、それに、私よりも随分、早くに帰ったはずだ。こんな時間まで、一体、何処で何をしていたのだろう?性質の悪い連中との付き合いがあるタイプにも見えないし。

 学校の廊下で見た、あの時の顔が頭に浮かんだ。

 私には、何故かその時、彼に話し掛ける勇気が持てなかった。

 家に戻ってから、深田君がこんなに遅くに帰ってきていた事を母に告げると、母は、

 「ふーん、何処で何をしてるのかしらね。そういえば、あの子の家、父子家庭で、しかもお父さんはあまり家に居ないそうよ。早く家に帰っても仕方ないんじゃないかしら」

 と、あの子の家庭の事情を説明してくれた。

 一体、父親の自覚があるのかしら、母はその後、そう続けて怒っていた。

 私には、その事については、どうとも感想を持てなかったけど、ただ、やはり不安が…、あの子は大丈夫なのだろうか?

 その後も、何度か彼が遅くに帰ってくるのを見かけた。憑かれた様に、急いで学校から帰る姿も見かけている。

 これでは、まるで怪談みたいだ。

 私は、どうしても、深田君の事が気に懸かってしょうがなかった。もし何かあったらと思うと、ほっておけない。そういう性分なんだ。それで、私はとうとうある日、部活を休んで、あの子を尾行する事に決めたのだった。

 私は友人の一人に、予め部活を休む事を告げ、HRが終わると同時に、昇降口に向かって走った。

 そこで、ロッカーの影に隠れ、深田君が来るのを待ったのだ。

 深田君は、やはり何かに憑かれた様な目付きで、スタスタとすぐにやって来た。作業的に靴を履き、校門を出る。一切、他の事を気に掛けていない、何かの目的があってそれ以外、頭にない。それに支配されている。そんな感じだ。

 深田君は、まっすぐに学校の最寄駅に向かった。そして、そのまま私達のマンションへ向かう方面の電車に乗り込む。

 ここまでは、何の問題もない。

 ただ、深田君は、何かに憑かれたような目付きを相変わらずにしていて、何だかぼーっとしていた。

 しばらく電車に揺られていると、電車は小さな駅に停まった。今までに、私はこの駅に降りた事すらない。いつも、ただ通り過ぎるだけの、気にも留めない様な小さな駅だ。

 その駅で、深田君は電車を降りた。

 私は、その後をそっと追いかける。一体、こんな場所にどんな用があるというんだろう?

 深田君は、そのままかなりの距離を歩いた。1〜2キロは優に行ったと思う。

 すると、周りには森や林が多いその場所で、珍しく大きめの白い建物が見えてきた。あれは、なんの建物だろう?普通の建物より、塀が少し大きい様な気がする。

 どうやら、深田君はその建物を目指している様だった。建物が近づくと、深田君は少し早足になって歩き始め、最後には駆け足になっていた。

 その建物の前で深田君は、息を切らすと膝に手を当て、中腰になり大きく一息ついた。そうしてそれから、その建物の中へ入って行ってしまった。

 ここは、一体?

 私は看板の様な物が何かないかと探した。すると、

 (精神病院!)

 そこには、確かにそう書かれていた。

 と、いう事は、深田君は毎日、憑かれた様になって、何かの精神病の治療に来ていたという事になるのか?

 そんな、馬鹿な。

そこが自分の日常とはあまりにかけ離れた場所だったからだろうと思う。今、直面している現実について、私は、しっかり正誤の判断ができないでいた。

それで、必死に思考を巡らせた。

 もしかしたら、そんな事も有るのかもしれない。自分が、何かしらの病に罹っていて、それはとても苦しい。ところが、それは病院へ行けば治り、しかも通えば通うほど、どんどん楽になる。もし、そんな現実があったとしたら、私も取り憑かれた様になって、病院へ毎日、通うかもしれない。

 そういえば、ここ最近になって、深田君は明るくなった。

 もしかしたらこの所為、否、このお陰なのかもしれない。

 ところが、私がそう納得し始めた時、深田君は再びこの建物の中から出てきたのだ。しかも、一人じゃない。女の人と一緒だった。

 (!?、どういう事?)

 私は、急いで隠れた。

 髪の長い、白い服を着た女の人。パジャマの様な、大きめのワンピース。その服装は、どうみても医者には見えなかった。

 (デートだったて事?)

しかも、精神病院から出てきたという事は、何かしらの心の罹病者が相手……。

私は悩んだ。

 そりゃあ、恋愛は自由だけど、そんな精神病か何かの患者さんと何て・・、注意する様な事じゃないけど、何か危険はないのかしら?こんな風に思うのは、偏見なのかもしれない。でも、このまま放っておくというのも何だか………。

 で、

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