1 足音の怪-2
吉田は澄ました顔で、そう答える。そして、
「ところで、先生。森さんは、独りっきりでいると、足音がやって来て何も描けなくなるのでしょう。なら、誰かが傍に居てやれば、問題は解決するのではないですか?」
と、質問をした。
「いや、ところが彼女は、非常に人に気を使うタイプでね、誰かに、自分のためにわざわざ学校に残ってもらうなんて頼めない、と言うんだ。それでも、一度は心配した友達の一人が一緒に居残ってあげたのだけど、どうも人が居ると、創作活動に没頭できないらしい。絵の方はあまり進まなかったんだ」
吉田はそれを聞くと、今度は
「なるほど、分りました。では、すいませんが、その一緒に居残った友達の事を教えてくれませんか?詳しく話を聞きたいので」
と、質問した。
すると、先生は少し困ったふうな顔をして、
「別にいいけど、一体何を聞くのだい。問題解決に何か役に立つのか?あまり変な事はしないでくれよ」
と言い、生徒名簿を取り出すと、
「ええっと、確か、珍しい名前だったな。くる、くるま、ああ、あった久留間だ。久留間直美、2の2の女生徒だな。女子ハンドボール部所属だから、まだいるかもしれない」
と、説明してくれた。
吉田は、珍しくそれに明るく応える。
「そうですか、分って良かった。ありがとうございます。早速、行ってみますよ」
それから吉田は、青山先生に礼をして、そのまま美術準備室を去ろうとした。すると、出ようとした瞬間に、
「森さんには会わなくていいのかい?となりの美術室の方にいるけど」
と青山先生が、親切にそう教えてくれた。ところが吉田は、
「いいんです。もう聞きたい事は聞きましたから。あっ、それから、彼女に僕達が来た事は言わないでもらえますか。人に気を使う性質なら、余計な心労を与える事になってしまうかもしれませんから」
と、無表情で応え、そのままスタスタと歩いて行ってしまった。
「おい、本当に会わなくていいのか?」
吉田の後ろ姿に向かって、僕はそう尋ねる。
どうも、こいつと一緒に居る時は、こんなシチュエーションが多くなるようだ。
「うん。必要な行動以外はしない。と、いうのが僕の主義でね」
「だって、悩みを抱えてる張本人だろ。会うのが必要ないなんて事があるのか?」
「張本人だからこそだよ。仕掛けは、できるだけ本人に分らない様にするのがいい。まあ、もう少し調べてみないと何とも言えないけど」
そうして吉田は、今度は女子ハンドボール部に向かった。
女子ハンドボール部のグランドは、この学校の一番奥の隅、駐輪場の裏にあり、まわりは寂しく誰も通らないのに、妙にそこだけ活気づいている。その所為で、女子ハンドボール部は小人数のわりに、やけに存在感のある部活動だ。
グランドに着き、吉田が、久留間さんの所在を尋ねると、グランドの端で一年生を指導しているのがそうだというので、僕らは、その一団に近づいて行った。
「今日は。すいません、あなたが久留間さんですか?」
吉田が、また淡々と、久留間さんと思しき女生徒に話し掛けた。
周りは活気に溢れた別世界だ。こんな状況でも物怖じせず、マイペースを崩さないとは案外、面の皮の厚い奴なのかもしれない。
「そうだけど、何、あんた達?」
そう言って、こちらを見たのは、ショートカット?、否、ボブカットだろうか、とにかく短めの微妙な髪型の女生徒で、なんだかいかにも元気が良さそうな感じの娘だった。
吉田が、森さんの事で話がある、と告げると素直に応対してくれた。とりあえず、グランドの隅に行く。
「あの娘、昔からの幼馴染でさ。何かほっておけない感じがするのよね。生い立ち、ある程度知ってるから余計に気になるのかもしれないわ」
久留間さんは、吉田が何かを聞く前から、それだけの事を勝手に喋った。
吉田は「へー」と声を漏らし、こう言った。
「幼馴染なんだ。それで、心配になって一緒に美術室に居てあげたのか。優しいね」
その吉田の発言を聞くと、久留間さんは、照れたのか、少し赤くなって、
「別に、ただ面倒見がいいのは、昔からの私の特性なの」
と、言い訳をするようにそう言った。
「その、君が彼女と一緒に美術室に居てあげた時の事なんだけど、少し詳しく聞かせてくれないかな。もしかしたら、問題解決のために何か分るかもしれないんだ」
吉田がそう尋ねる。
すると、彼女はきょとんとした顔になって、こう語った。
「大した事なかったわよ。足音なんて聞こえてこなかったし、このハンドボール部が6時くらいに終わってさ、それから美術室に行って、ただぼーっとしてた。2時間くらい経って、あの娘が帰るって言うから帰ったの。ただ、それだけ。あの娘、気が小さいからさ、誰か人が居ると集中できないんだって。私でも駄目なんだって帰り道で漏らしてたな。でもね……」
語尾を濁すと、彼女はしばらく何かを考えてからこう言った。
「あれって、誰か他の人が居るからって言うより、何か別の原因があって描けない様に見えたな。私には」
吉田はその言葉にピクリと反応した、様に見えた。そして、唐突に彼女に向かってこう尋ねた。
「さっき生い立ちを知ってるって、言ってたよね。それってどういう事?何か特別な事でもあったの?」
「うん、あの娘の父親、しつけが厳しくってさ。子供の頃からよく怯えてたのよ。門限なんかもあって、友達の中で、あの娘だけ早く帰ってたもん。それにね美術の方面に彼女が進んだのにも、父親の方は、最初は反対だったらしいのよ。あっ、でも、その時の方があの娘、活き活きしてたな。負けるもんかって気迫があった。ところがね、それから、彼女の描いた絵がコンクールで受賞して、認められたら、あの娘の父親、今度は過剰な期待をあの娘に掛けるようになったのよ。手のひら返し、嫌な感じ。それであの娘が、絵を描いてて遅くなっても怒らないのよ。馬鹿みたいでしょ。でも、それならあの娘にとって都合良くなったみたいに思えるわよね。それなのに、由架子、何だか様子おかしくなっちゃって、元気なくなったな、なんて思ってたら、足音が聞こえる、なんて、怪談めいた事言い出したのよ。心配するでしょ?普通なら」
「あの、由架子って?」
珍しく、僕が質問した。
「ああ、森由架子。あの娘のフルネームよ」
久留間さんは、テキパキと語り、即座に質問に答えた。本当に、元気な人だ。
吉田は彼女の話を聞きながら、何かを考え込んでいた様だったが、しばらくが経つとまた突然、こう尋ねた。
「ふーん、なるほど。ありがとう。で、最後の質問なんだけど、森さんの父親って、どんな職業の人?サラリーマン?」
「うん?ああ、もうバリバリのくそ真面目なサラリーマンって感じの人よ。それがどうかしたの?」
「いや、サラリーマが履いてるモノをイメージするとやっぱり革靴が浮かんでくるかな、なんて思ってね」
「もしかして足音の事、言ってるの……?」
「うん。人は弱い生き物って事だよ。本当にありがとう久留間さん、僕の用件はこれだけ。それと、もしかしたらだけど、森さんを助けてあげられるかもしれない」
吉田は久留間さんの問い掛けに対して、そう、にっこり笑って訳の分らない事を答えた。こいつに笑顔はあまり似合わない。
久留間さんは、不思議そうな顔をして、
「そうなの?何がなんだか分らないけど。まあ、いいわ。もう用がないなら、私はもう練習に戻るわね」
と言い、一年生の所へ駆けて戻って行った。
僕は、彼女の背中を見つめつつ、
「おい、吉田。結局、何が分ったんだ?オレにはさっぱり分らん」
と、吉田に尋ねた。
吉田は、やはり澄ました顔で、
「そう?今の彼女との話が、一番収穫が多かったと思うけど。まぁ、後は森さんを助ける方法を青山先生に話しに行くだけだから」
と、答えた。
質問の返答になってない。
どうして、あの会話で森さんを救う方法が分るんだ。それに、青山先生に話しに行くって、何でそんな必要があるんだ?必要な事以外はしないのじゃなかったのか?
まったく訳が分らない。
ただ、吉田は何だか、少し嬉しそうにしている。
歩きながら、吉田は語った。
「実際にさ、この学校の中で、青山先生は生徒の事を真剣に考えてくれている数少ない先生だと思わない?」
「まぁ、そうだな」
「うん。だから森さんは、どうやら内気な性格の人らしいのに、青山先生に正直に悩みを打ち明けられたんだと思う。親身に、色々な事も話してるみたいだし……ね」
そう語った吉田は、微かに含み笑いを浮かべていた。そして、
「先生なら、大丈夫だろう。できそうだ」
と、続けて言った。
何の事だ?
こいつと出会ってまだわずかだが、この男のマイペース振りには大分慣れてきた。依然、訳が分らないが、その内、説明をしてくれるんだろう。
だから僕は諦めて、敢えて質問をしなかった。
吉田は相変わらず、上機嫌で歩き続けている。
私は、その日も遅くまで美術室に、残っていました。
絵画のコンクールがあるから。
そのための絵を完成させなくては、ならないから…。
でも、それになのに……
絵は中々、はかどりません。
足音がやって来るからです。
しばらく残って、絵を描いていると、何処からともなく足音が聞こえてくるんです。
それが、私を脅迫するんです。私には、それに抗う術がありません。だから、私は絵が描けなくなる。
場所を変えてみても無駄だった。教室でやっても、同じ様に足音が聞こえてくるんです。
それに、それがなくても、私は始終、妙な、厭な気分に取り憑かれています。こんな気持ちのまま描いたって、ダメなのは分りきってる。まるで、キャンバスにうそを塗りたくっているみたいなんだもの。
私は何のために、絵を描いているのでしょうか?その意味さえ分りません。
何が描きたいのでしょう?せめて、それが知りたい。
私はしばらく、キャンバスを茫然と見つめていました。描く気が起こらないんです。
そして、また
コツ
足音が聞こえてきました。
額から汗が、零れ落ちてきます。目が滲みます。妙な焦りを感じます。得体の知れない恐怖が
コツコツ
近づいてきます。
どんどんとその音は迫ってきます。
コツコツコツ
ダメ、まだ描けない。描いちゃいけない。描く理由がない!でも、描かなくちゃいけない! そんなの……
間違ってるわよ。
コツコツ
ダメ・・、今日も描けないの。
コツ
足音……止んでよ。お願い。
キィッ
(えっ!?)
ドアの開く音。
足音が部屋の中に入ってきた。そんな、今まで、そんな事なかったのに…?
私が驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは、化け物ではなく、青山先生でした。
優しい顔をしてる。
湯気が立ったカップを二つ持っていて、それを溢さないように、ゆっくり慎重に私に近づいて来る。
「どうしたんですか……?」
私は不思議に思ってそう尋ねました。いつもなら、もうとっくに帰ってる時間です。
「いや、少しね、今日はまだ遣り残した仕事があって、遅くなったものだから、ついでに様子を見に来てみたんだ。息抜きに、スープでもどうだい?」
先生はそう言って、私にスープを差し出してくれました。
私は、それを受け取り、一口飲みました。熱いスープがのどを通り、胃に入っていくのが分ります。
「ちょっと、熱すぎないかな?」
「大丈夫です」
私は笑ってそう応えました。
先生は、私の隣の席に座ると、スープを啜りながら、
「絵の方は、やっぱりまだあまり進んでないみたいだね」
と尋ねて来ました。
「…………」
私は黙ってしまいました。どう、自分の中にある感情を理解してもらえば良いのかが、分らなかったからです。
先生はしばらく私を見つめ、それから静かに口を開きました。
「森さん。君は何のために、絵を描いているんだろう」
私は心の中でだけ、それに応えます。
(それは、私にも分らないんです。先生)
「その事は、もちろん僕には分らない。ただ、君が以前はとても楽しんで絵を描いているように見えたのに、今はそれが感じられないんだ。僕は何だか心配になってね」
(!?、その通りです。私は苦しんでいます。でも…)
「僕は、絵を描くのが好きでこの道に入ったんだ。実は、学校の教師はそのついでにやってるようなもんなんだよ。安定した収入があるからね。絵を描くために仕方なくやってるんだよ」
(えっ?)
「驚いた?」
「はい、少しだけ……」
私がそう答えると、先生はにっこり笑って、
「君の背後に、何があるのかなんて僕には分らないから、何にも言えない。でもね、好きで始めた事なら、楽しまなくちゃ。それが一番大事な事なんだ。誰かのために描くのじゃない。自分のために描くんだ。絵を描く事は、手段ではなく目的なんだからね」
と語ってくれました。
先生は、それから席を立って、それじゃ、がんばって楽しむんだよ。と言い残して、美術室から出て行きました。
出て行く瞬間、先生の足元を見ると、いつもはサンダルを履いているのに、今日は何故だか革靴を履いています。
先生のイメージには似合わなくて、少しだけ笑ってしまいました。
コツコツコツ
その革靴の音は、徐々に遠ざかり、段々、聞こえなくなっていきました。
(先生。ありがとうございます)
私は心の中でそう、感謝の言葉をつぶやきました。
不思議ですね、まるで先生は私の心の内を理解してくれているみたいでした。そうなんです、絵を描く事は目的なんです。だから、何のために絵を描いてるかなんて、不毛な問いかけだったんです。
答えなんて、あるはずがありません。
さあ、絵を描かなくては、私はどんな絵を描きたかったんだっけ?
まずは、そこから始めなくてはいけない。大変です。
なのに、何故だか私は、それを楽しんでいました。
夕焼け空が綺麗だった。
どこの部活にも属していない僕が、学校の帰り道のこんな景色を見る事は稀だ。
吉田にさんざん付き合った所為で、こんな時間帯になってしまった。
しかし、
「あれで、本当にうまくいったのか。吉田」
吉田は、今だに詳しい説明をしてくれていないのだ。
「うん。多分ね」
簡単に、そう返されてしまった。
恐らく、僕が本当は何が聞きたいのか知ってのこの態度だろう。
(こいつ……)
僕が少しイライラしていると、吉田は出し抜けに語り始めた。
「ねぇ、世間ではさ、最近の子供は甘やかされて育てられてるから、わがままになってるなんてよく言うよねぇ」
「うん。まぁ、そうかもな」
やっと何か喋り始めたと思ったら、全然関係のない事だ。
「それは、まぁその通りなんだろうけどさ。何か違うとは思わない?根本を見失ってるよ」
「何が?」
「それで、単純に厳しく育てれば問題は解決する様な事を言ってる人がいるんだ」
相変わらずマイペースに吉田は話し続けてる。ここは、何を言っても無駄かもしれない。
「我慢をするという能力は、確かに経験によって身に付いていくものだよ。だから、甘やかして育てると、忍耐力の学習ができない。でも、だからといって、ただ厳しく育てればいいってもんじゃない。人の心はそんなに単純じゃないよ。実際、厳しい家庭で育った人じゃなくても忍耐力がある人はいるし、厳しい家庭で育って却って性格が歪んでしまう人もいる」
「何が言いたいんだ?」
「モラルや規律というものはね、直接には、人間の感情をコントロールする事はできないんだ。感情とは、別物なんだよ。だから、モラルのない人でも、優しい人はいる。優しさを身に付けさせるための教育。モラルじゃなくて、本当に我慢ができる人、優しい人。住み良い暮らしを創る人。そんな人を育てるのに、ただ厳しくすればいいなんて、間違ってるとは思わないかい?」
吉田は、夕焼け空を見上げている。
僕は、何も言わない。
「厳しくしたってね、それに対する抵抗力、強さがないと、その人の人格は歪んでしまうんだ。知識で倫理を身に付けて、表面上立派な人でも、実は内面は脆くて、ちょっとした挫折で、直ぐに犯罪を侵したり、自殺をしたりしちゃう人、ニュースでよく見かけるよね」
「もしかして、森さんの事か・・?」
そこまで吉田が語って、僕はやっと察する事ができた。
「うん……。多分、彼女はそんな人だったんだ。久留間さんが、言ってたろ。父親が厳しい人だったって。その事で、心に深い傷を持っている人なんだよ、多分、彼女は…」
「あの足音は、父親の革靴の音だったのか?それが、幻聴として聞こえたって事か」
「うん。そして、恐らくそれと同時に、規則倫理の象徴なんだろうね。自分を縛る、男性原理の象徴。だから、足音はコツコツだった。最初、僕が足音に拘った理由はそれだよ、他の怪談では全てヒタヒタだった。幸村先生に聞かされた時から疑問だったんだ。何故、コツコツになるのかって」
そして、吉田は哀しい顔で溜息をついて、また続けた。
「推論でしかないけど、彼女にとって絵を描く事は、父親への抵抗だったのじゃないかと思うんだ。久留間さんは、森さんの父親は最初、美術の道に反対してたって言ってたろ、その時の方が森さんは活き活きしてたとも言ってた。多分それは、森さんが怒りの感情を父親に対して持っていたからだと思う。怒りとは防衛本能。恐怖を忘れさせてくれる興奮状態の事だからね。生まれて初めて、闘う力を彼女は手に入れたんだよ、きっと。そして、それは絵を描く事によって具体的に表現されたんだ。楽しかったと思うよ。今までの自分の鬱屈した人生に対する復讐みたいモノだからね。でも、森さんの絵が社会に認められる事によって、父親は彼女が絵を描く事を容認してしまった。それどころか、称賛さえしたんだ。父親への反発があり、それで絵を描いていた彼女にとって、それは肩透かしをくらったのと同じだろう。彼女は目的を見失ったんだ」
「なるほど、でも、それなら彼女はもう絵が描けないのじゃないか?父親が絵の道を称賛してるなら、それに反発するのは絵を描かない事だ」
「うん、多分そうなんだろうけど、この問題はそんなに単純じゃないんだ。父親が喜んでるなら反骨精神、つまり、怒りも小さくなってるはずだろう。彼女は唯一の闘う力を失ってしまった事になる。だから、彼女の反発する力はとても弱くなってたんだ。そして、無力になった彼女に今度は父親の過剰な期待、つまりプレッシャーが襲いかかった。抗う術をなくした彼女には、反発して絵を描くのを止める事も、従属して絵を描き続ける事もできなくなった。久留間さんが美術室に一緒に居て、絵が描けなかった話を聞いて、おかしいと思ったんだよ。森さんは、久留間さんにかなり気を許してるみたいだったから、そんな彼女が果たして弊害になるのかなって」
「しかし、絵が描けなかった理由は分ったけど、それがどうして足音の怪に結びつくんだ?そこが分らない」
「それは、さ。神谷君、あの足音の怪の話を聞いて、どんな恐怖を感じたかな?」
「どうって、あまり怖くなかった」
「うーん、そうじゃなくてさ。あの話は、プレッシャーを主人公に与える話じゃなかったかな。足音が聞こえてきて、主人公は恐怖から動けなくなるんだ。血だとか、死体だとか、そんなモノは出てこなかっただろ」
「うん、まぁそう言われてみれば、そうかもしれないな」
「そして、彼女もまたプレッシャーを感じていたんだ。それに、彼女は足音の怪の話を聞き知っていた可能性が十分ある。なにせ、美術部員だから」
「でも、それだけじゃなんだか納得がいかないな、気に病んでる事に、共通点があっただけじゃないか」
「まぁ、本当に憶測だからね、それ以上は分らないよ。だけどね、神谷君、神話や怪談、妖怪なんかにはその文化の特性が反映されるんだよ。僕が、前にその仮説を言ったろ。そして、その文化を形作り、またその文化の影響を受けるのはその文化に活きる人間なんだ。河童や化け狸を見る人がいる様に、森さんは、足音の怪を体験したんだよ」
「まぁ、半信半疑で納得しとくよ。で、その足音の怪を、お前はどういう原理で退治したんだ?」
もう、辺りは暗くなっていた。あの綺麗な夕焼けは、もう空から消えてしまっている。辺りには、薄暗い夕闇が降りてきていた。
吉田は語る。
「うん。それはね、確かに、彼女は父親への反骨精神を活力にして、絵を描いていたんだと思う。でも、それは飽くまで、補助的に働いていたに過ぎないんだ。絵を描く理由の全てが、父親への反発であるはずがない。それだけだったら、とっくに彼女は絵を描く事を止めていたと思うよ。だから、まずはその絵を描く本当の理由を思い出させることが肝要だったんだ。つまり、絵を描く事自体、楽しい事だってことをね」
「分ったけど、でも、それだけで彼女を助ける事ができるのか?」
「もちろん、それだけじゃダメだよ。まだプレッシャーと父親に対する反発が残ってる。この二つと、絵を描く事への夢が複雑に交わって、彼女の悩みは発生していたんだから。そのために、青山先生にこの仕掛けをやってもらったんじゃないか。自分を苦しめる父親のイメージを、変化させたんだ。青山先生に代替の父親の役割をしてもらったんだよ。そのために、青山先生には革靴を履いてもらった。父親への連想を起こしやすくしたんだ。その事で同時にプレッシャーも軽減できたと思う。まぁ、これがどこまでうまくいくかは青山先生の人徳に期待するしかないけど」
確信はできないような事を言いながらも、吉田は何だか嬉しそうにしている。
きっと、うまくいくと思う。そして、そう呟いて、笑った。
世の中、これくらいは好い事ないと、やってられないじゃないか。吉田は、更にそんな事も言って、照れ隠しだろうか、少し早足になって歩き始め、僕を追い越すと、「それじゃあ、また」と言って、駆けて行ってしまった。
暗闇に学生服が溶け、吉田の後姿は見えなくなる。
明日もあいつと会うのか。
夜空を見ながら、僕は清々しい気分になって、綺麗な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。